歩く男

島 まこ

 歩く男

 ひやりとした風が身に染み入る冬の日、男は街を歩いていた。道脇に植えられたイチョウは、その葉をばっさりと落とし、残された枝の揺れる様はまるで寒さに打ち震えているかのようである。道の往来はさほど多くはなく、半町歩く毎に1人はすれ違う程度であった。

 男は街の中心付近まで来た。前の方から1人の女がこちらへ歩いてくるのが見える。歳の頃は30前半であろうか、長髪で面長、身体はほっそりとしており、小刻みに揺れるベージュのロングコートの端がひらひら目につく。右手には買い物袋を下げていた。スーパーの帰りであろうか。

 女とすれ違うまさにその時、男は突然立ち止まって横に顔を振り向け、女にだけ聞こえるような低い声で呼び止めた。

「すみません。ちょっとお聞きしますが、あなたは私の妻でしょうか?」

 知らない男に突然話しかけられた女ははっとし、そのあまりの突然の出来事で初めは対応しなければという気にになりかけたが、一瞬のうちに男の言葉の意味を理解し困惑した。

「・・・?はい?」

 女は男の意味不明な問いかけに対し眉を寄せた表情で、半ば呆れたような素振りを見せた。しかし、肝心の男はというと、その平静と変わらない顔ぶりからして真面目なようであった。

「すみません。ちょっと分かりません。」

 知らない男の解釈し難い発言と振る舞いの中に女は、お互いに意思疎通が困難であろうという雰囲気を察し、変にぎくしゃくとした空気を表面的にでも取り繕ろおうとして一言、丁寧に断りを入れると、くるりを身を翻しすたすたと男から去っていってしまった。

 残された男は、自らが呼び止めた女の後ろ姿が曲がり角で見えなくなるまでじっと見つめていた。規則正しく前へ振り出される両脚の、まるでねじを巻いたおもちゃのような、止まることのない永続性のある動作に、男は自らの判断が誤りであったことを感じた。そしてすぐに、再び歩き始めた。

 花屋の前まで来た。店の前にステンレス製の四角い台座が置かれていて、その上に見事な白い蘭がしっとりと艶のある花を咲かせている。男は歩調を緩め、何物にも染まる様子のない蘭を眺め歩いた。それは数秒に満たなかったが、男にとってはそれ以上の時間のように思えた。なぜ今自分が街へ出歩いているのかの本当の理由がわかる気がした。表面的な答えはどうでもよかった。男はただ明確に、心の奥底を震わせるような確かな悟りが欲しかった。ただ、それでもはっきりとした答えにはたどり着けないと観念すると、頭の中でそっと静かに置かれた蘭の花を打ち捨てた。彼はさっぱりとした気持ちで再び歩き始めた。

 花屋を通り過ぎてすぐ、郵便局の前まで来た。ちょうど用を済ませて出てきたであろう1人の女が目に入った。まだ20代前半であろうか、顔に幼さがみて取れ、ややふくよかな体つきをしており、灰色のよれたパーカーを着ている。彼は灰色が嫌いだった。灰色は彼にネズミを思い起こさせるのだ。彼はネズミが嫌いであった。ネズミに関するもの、人形でも絵でも、その尻尾の形、皮膚の色などあらゆるものは彼に嫌悪感を抱かせるのだった。

 ちょうどネズミ女がこちらの方に歩いてきた。あまり気は進まなかったが、彼は再び知らぬ女を呼び止めることにした。

「すみません、ちょっといいですか?」

「え?なんでしょう?」

「あなたは私の妻でしょうか?」

 この問いを聞いた瞬間、女の顔に困惑の色が浮かんだ。女は、この男は頭がおかしいのだと瞬時に察した。

「は?そんなこと知らないですよ。私行きますね。」

 女はぶっきらぼうに言うと、男のそばから急ぎ足で去っていってしまった。

 さすがネズミ女だ、逃げ足が早い、と彼は女の丸みを帯びた背中を眺めながら思った。忌々しいネズミの丸い姿形が透けて見えるようだった。同時に、なぜ自分はこのネズミ女に話しかけなければならなかったのだろうか、との疑問が湧いた。彼にはその疑問の答えがはっきり分からなかった。いや、それを知りたいがために街へ来たのかも知れない、とも思った。しばらく歩きながら考えていると、次第に頭の中がぐるぐると回りだした。また頭痛が始まった。彼は物心ついた頃から、物事を考えすぎる癖とそれに伴う頭痛に苦しめられていた。彼は辺りを見回し、どこか休めるところはないか探した。幸い近くにバス停があったので、そのベンチに座って休むことにした。

 人通りがあまり多くない分、車の往来も少なかった。前を通り過ぎる車に乗っている人々はどこへ何をしに行くつもりなのだろう。自分と同じようなことを考えている人はおそらくいまい、と男は心の中でほくそ笑んだ。いつのまにか、自分の今日の行為に対する評価が高まっていることに気付いた。何故だか分からないが、自分の中で何かが変わったのだろうか。だとしたら何が変わったのだろう。男は再び頭が痛むのを感じた。すると背後で、コツコツと小気味良い足音が左の方から聞こえてきた。ヒールのかかとを地面に規則正しくぶつけながら、男のいるベンチに近づくのはおそらく私の妻だろう。男はベンチからゆっくりと立ち上がるなり、ヒールの音のする方へ平静と変わらぬ顔で振り返った。



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