第22話 紗季の秘密 その2

 夏休みの間、一度も訪れていなかった大学はやはり閑散としていて、なにか考え事をするにはうってつけの場所だった。迷うことなく図書室へ向かうと、構内に比べるとまばらだったものの、人の気配があった。


 本棚に並んだ本をタイトルも見ずに適当に手に取り、近くに空いていたイスに座って眺めていた。別のことに意識を向けていれば忘れていられるだろうと思ったのに、紗季のことがちらついて内容がひとつも入ってこない。結局、読んでいた文庫本を三分の一も読まないうちに放り投げると、大きく天を仰いだ。


「よう、こんなところで会うなんてとんだ偶然だな」


 仰いだ先に大樹の顔があった。


「……明日は雨が降るかもな」

「なんだよそれ。俺は天気予報じゃないぞ」


 こんなところで出くわすとは思わなかった、という意味を皮肉っぽく言ったはずなのに大樹には通用しなかった。大樹らしいといえば大樹らしい。


「こんなところでなにしてんだ? お、お前もこういうの読むんだな」


 大樹が机の上に置いてあったミステリー小説を手に取ってパラパラと眺めていた。よほどご機嫌なのか「これの犯人って主人公の奥さんなんだよな」なんて軽くネタばらしさえしてくる、それくらいご機嫌だった。


 俺が恨めしく見ていると背後から「大樹くん」と呼ぶ声がした。


 目の前の友人の後ろからぴょこんと一人の女の子が顔を出した。一見すると、小動物のように見える容姿に俺はどことなく見覚えがあった。確か、彼女の名前は吉井ゆり。以前、大樹が数合わせにと俺を呼んだ合コンにいた女性メンバーの一人だった。


「こんにちは宮野さん。あと、大樹くんてば先に行っちゃ嫌だよ」

「悪い悪い」


 小さな体全体使って怒りを表現しているようだが、背が低いことと、童顔なせいか、小動物がじゃれあってるようにしか見えない。


 しかし、どうして大樹と一緒にこんなところへ?


 そんな疑問を抱いていたが、大樹のほうが先手を切った。


「そういや翔吾、お前真衣奈ちゃんと付き合ってんだって?」

「そうだけど、誰から聞いたんだ?」

「千枝さんだけど」

「……あんのお喋りが」


 千枝さんと噂話に戸は立てられない。そう思って諦めることにしよう。


 それよりももっと気にかかることがあるような……。


「それより、お前こそどういうことなんだ?」


 今度は改めて俺が聞き返した。すると大樹とゆりが互いに顔を見つめ合ってた。


「実はさ、俺たち付き合ってんだよ」


 大樹が今まで見たことがないほどデレデレしていた。俺としては『NO FUTURE』とプリントされたTシャツを着ていた彼の未来が、決してそうじゃなかったことに若干だが苛立ちを感じた。


「そうか、そりゃよかったな。それよりどうして教えてくれなかったんだ?」

「だってよ、お前紗季ちゃんとかともめてたから、言い出しにくかったんだよ」


 大樹が申し訳なさそうに答える。なるほど、それは悪いことをした。


「出来りゃ俺だって早く言いたかったけどさ、ほら、紗季ちゃんのこともあったし」


 まだ連絡ないんだろ? 大樹が視線だけで言う。


 俺は静かに頷いた。


 大樹の言うとおり紗季からの連絡はない。千枝さんや母親の佳史乃さんですら紗季がどこへ行ったのか知らないのだ。当然、俺たちが知るわけなんてない。


 俺はこんなところでこうしてていいのか?


 そう思うことがここ最近、多くなった気がする。


 紗季の余命はひと月もない。


 そんな彼女がどこへ行ったのか。


 探すべきだと思う。命に関わる事態になる前に。


 なのに、俺は動けずにいた。


 思うだけじゃどうにもならない。動かなければどうにもならない。そんなことは百も承知だ。それでも動けない。闇雲に探し回れるほど俺は紗季のことを知らなかった。


 俺にできることは、ただ、あいつが無事に帰ってくることを待つぐらいだ。


「……だけどよ、っておい聞いてんのか?」


 大樹の声に揺さぶられて現実に意識を戻した。


「……悪い。で、なんの話だ」

「俺の話聞いてなかっただろ。実際、お前としてはどうなんだ?」

「だからなんの話だ」

「紗季ちゃんとのことだよ」


 どうして紗季の名前が出てくるのか、話の脈絡さえつかんでないのに、大樹がなにを言わんとしているのか余計につかめない。


「お前は真衣奈ちゃんと付き合ってる。俺はてっきり紗季ちゃんと付き合うもんだと思ってたんだよ。だからさ、そのせいで紗季ちゃんがその……いなくなったんじゃないかって思ってさ」


 最後のほうはよく聞いていないと聞き取れないほど小さい声だった。


「そんなこと」


 そんなことあるわけない。はたして本当にそうか?


 紗季がいなくなった原因は俺のせいなんじゃないか、そう思ったことは確かにある。考えすぎだとか、自意識過剰だとか、そう思う気もする。それでも俺は思う。


 もし、真衣奈じゃなくて紗季を選んでいたらこんなことにならなかったんじゃないかと。


 大樹の言葉に心が折れそうになる。


「ま、そんなことないか。紗季ちゃんあれでいて結構さっぱりしてそうだし、その内ふらっと帰ってくるよなきっと」


 大樹がなにか言っていた気がしたが、すでに俺の耳には届いていなかった。



 家に戻ると、真衣奈が来ていた。見慣れた制服姿にエプロンをつけて。


「おかえり先輩。今日はバイトないんだね」


 トントンと規則正しいリズムを刻みながら、包丁を動かす。その音が荒んだ心に心地よく染み込む。


「もう少し待ってて。もう出来上がるから」


 俺はそっと手に持っていたヘルメットを所定の位置に置くと、開け放たれていた窓際に座る。取り出したタバコに火をつける。


 ちょっと前ならまだ明るかった空も少しずつではあるが、日が落ちるのが早くなっていた。茜色の空に名前も知らない鳥が群れをなして飛んでいった。


 俺が真衣奈を選んだから紗季がいなくなった。


 大樹に言われた言葉をあれから何度も反すうしていた。


『紗季がいなくなったのはあなたのせいじゃありません。だからそのことで決して自分を責めないでください』


 これは佳史乃さんに別れ際に言われたことだ。さらにこうも言っていた。


「高校に入学してからの紗季は毎日が楽しそうでした。特に二年の夏を過ぎたたりからでしょうか、それまで学校の話なんてあまりしなかったのに、よく話してくれるようになって。星の話も多かったですけど、一番はやはり翔吾さん、あなたのことでした。母親としては心配することも、あの子が普通の子たちのように生きることができなかったから、突然の変化に戸惑いを感じることもありました。あの子はわたしを心配させないようにと無理に笑っていたりすることもあったのに、あなたと出会って変わったとはっきり感じることができました。ありがとう。あの子のそばにいてくれて。わたしにはこんな言葉しか伝えることしかできません。ですが、紗季の母親として娘と出会ってくれたことに感謝したいのです」


 真っ直ぐに射抜くように佳史乃さんは俺の目を見ていた。


 紗季との思い出なんて、どれだけかき集めても一年にも満たない。それなのにその一年にも満たない時間は、俺が生きてきた二十年の中で一番輝いていた。


「先輩」


 振り向くと真衣奈が立っていた。


「ご飯できたよ」



 真衣奈と並んで食卓を囲む。付き合う前からこうやって一緒にご飯を食べることが当たり前だった。その日あったことを話したり、テレビの中の出来事を話したり、特別な会話なんて一つもない。それだけでよかった。それなのに、今の俺は彼女に話しかける言葉を持っていない。話しかける理由なんてなんでもいい。そうわかってるはずなのに、話しかけられずにいた。


 テレビに映る芸人が司会の男に突っ込まれていた。会場に笑いが起きる。真衣奈もそれにつられて笑っていた。


 真衣奈の横顔をそっと見る。


 綺麗な横顔だ。


 ずっとそばにいて見てきた。一番近くにいて、一番遠い存在だった。それが俺のそばにいて、こうやって笑っている。


「先輩?」


 不思議そうに真衣奈がこちらを見つめていた。


「さっきからどうしたの? もしかして美味しくなかった?」

「いや、美味いよ」

「ならよかった」


 俺は止まっていた箸を動かす。言葉のとおり真衣奈の料理は美味しい。こう言っては悪いが母親が作ってくれた料理より好きだと思う。これは真衣奈に言ってないが、真衣奈の味付けは毎回変わる。例えば同じ卵焼きにしても、味付けが甘めだったり塩味だったりとその時によって違う。そんな変化を俺は知っていた。毎回変化をもたらすことで俺がどんな味付けが好きなのか、どういったものを好むのか見極めていた。そんなことうちの母親だってしない。


 真衣奈は俺にもったいないくらいできた彼女だろう。そんな彼女がどうしてこんなろくでなしを好きになったのかわからない。真衣奈のことを好きかと聞かれれば迷わず好きだと答えられる。しかしそれでも、無意識のうちに紗季のことを考えている自分がいた。


 テレビの向こうで再び笑い声が上がる。その声がとても煩わしく聞こえた。



「それじゃあわたし帰るね」


 ローファーのつま先をトントンとしながら真衣奈が言う。


「なんか悪いな。せっかく来てくれたのに」

「どうしたの? いつもならそんなこと言わないのに」

「たまにはいいだろ」

「たまにじゃなくていつもだったらいいのに」


 真衣奈が冗談っぽく言う。玄関のドアノブに手をかけて、出て行こうとする手が──止まった。


「ねぇ」

「忘れ物か?」

「そうじゃないんだけど。先輩さ、わたしと付き合ったこと実は後悔してない?」

「……なんだよ突然」


 真衣奈の背に向かって苛立ちを込めた視線を送る。背を向けてるせいでなにを考えてるのかわからない。


「わたしさ、ずっと思ってたんだ。わたしが先輩に好きだって言ったから先輩はわたしを選んだんだって」

「そんなわけあるわけないだろ。俺がお前を好きだってのは本当だ」

「うん。知ってるよ。でもね、それでもわたしはちょっと後悔してるんだ」

「なんで」

「紗季さんがいなくなっちゃったのってわたしのせいだと思うんだ。わたしは紗季さんの気持ち知ってて、それでも先輩に告白した。結果、付き合うことになったけど、わたしが告白しなかったらそうはならなかった。先輩は紗季さんと付き合ってたと思う」


 真衣奈が振り向く。その瞳から涙が溢れていた。


「わたしね先輩のこと大好きだよ。世界の誰よりも好き。なのにね、心が痛いの。わたしが紗季さんから先輩を取ったから……」

「真衣奈!」


 俺は真衣奈を抱きしめていた。胸元に真衣奈の流す涙のぬくもりと嗚咽が伝わる。


「紗季さんがいなくなっちゃった! わたしが! わたしのせいで……」

「違う! お前のせいじゃない」


 こうなるまで俺は気付かなかった。紗季がいなくなったことで悩んでいたのはなにも俺だけじゃない。真衣奈もだったんだ。真衣奈も俺と同じように悩み、苦しんでいた。俺はそのことに気付けなかったことに腹がたった。


「真衣奈のせいじゃない。俺も同じだ。俺がちゃんとしていなかったから、もっと二人の気持ちに向き合っていたらこんなことにならなかった。俺はいつだって自分のことしか考えてなかった。ごめん。お前がこんなに苦しんでるのに、こうなるまで気付かなかった。だから自分を責めるな。責めるなら俺を責めろ!」


 真衣奈を抱く力を強める。俺も嗚咽をこらえられずにいた。


「俺にはお前しかない。なにがあっても俺はお前を選ぶ。これが俺の本心だ」

「先輩……本当にわたしを選んでいいの?」


 紗季さんよりも……? その言葉が紡がれる前に俺は俺の唇で真衣奈の唇を塞いだ。


「──!?」


 真衣奈が突然のことでもがき暴れる。逃れようとするのを必死で抱きとめる。それが数十秒たったころ、ようやく真衣奈を離した。


「ぷはっ! な、なに……!?」

「これが俺の気持ちだ」

「だ。だからって、あ、あんなこと……」


 思い出したのか真衣奈が頬を赤らめる。めったに見られないそんな姿がとても可愛らしく見えた。


「これでもまだ信じてくれないか?」

「……信じるもなにも、卑怯だよ。あんなの……」


 まだ唇に残る感触を確かめるように真衣奈が指でなぞる。そして、観念したように頬を緩めた。


「先輩、意外と強引なんだね」

「意外だろ。俺もそう思ってる」


 にっと歯を見せて笑うと、「バカ」と今度は真衣奈から唇を重ねてきた。

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