第15話 花火大会、そして…… その2
七月もあと数日で終わりを迎えようとしているある日、俺は珍しく母親の運転する車の助手席にいた。というのも、今日は俺たち家族にとって一生忘れることのできない日だからだ。
「もう五年も経ったのよね。こうしてみると月日が流れるのは早いわね」
俺がぼんやりと窓の外を眺めていると、車を運転する母親がそんなことを言った。
今日は俺が始めてバイクの免許を取った日。そして親父が死んだ日だ。
「あの頃は何もかもが急な話でびっくりしてたけど、振り返ってみると遠い昔の出来事みたいね」
母親はさらりとした調子で言うものの、当時の様子はそれは息子の俺から見てもできることなら見たくないものだった。俺にとっては父親でも母にとっては苦労を共にしてきた大事な伴侶だったのだ。それを考えると、本当ならなにもかも投げ出したくなる気持ちもあったのかもしれないのに、よくぞここまで俺を育ててくれたと感謝したくなる。もちろんそんなこと恥ずかしくて言えないけど。
「お父さんあっけなく死んじゃったけど、きっとそれがお父さんらしい生き方だったのかもしれないわね。いつもどこかへ走り回ってるような人だったから、きっと天国でも大好きなバイクに乗って走り回ってるんじゃないかしら」
そう言って母はクスクス笑っていた。久しぶりに見る母親の笑い方だった。
死んだ親父と母親はまるで正反対な人だ。親父はどちらかというと落ち着きのない性格で、なにをするにも忙しなく、言い方を変えれば賑やかな人だった。なのに母親はおっとりした性格で、小さな子供のような親父をいつもあらあらと子供を優しく見守るように接していた。こんなにも性格の違う二人が出会い、結婚して、子供まで授かるなんてきっと二人をよく知る友人たちだって思わなかっただろう。俺もそんなことを思った一人だったからなおさらだ。
ずっと昔、母親にどうして親父と一緒になったのかを聞いたことがある。特に他意もなにもない、素朴な疑問として聞いただけなのだが、その時の母親はまるで恋する少女のように頬を赤らめてこう言ったのだ。
『そんなのお父さんだったからに決まってるじゃない』
俺はそれを聞いたとき耳を疑った。家の中で一番の常識人だと思っていた母からそんな言葉を聞くとは思わなかったからだ。あの時は俺も子供だったからというせいもあった。だからどうして母がそんなことを思ったのか不思議でたまらなかった。けれど、今はその気持ちがほんの少しだけわかる気がした。
「もしお父さん生きてたら、もっと格好良くなってたかもしれないわね。あの人ったら昔は結構モテてたのよ。友達も羨ましいっていつも言ってたわ」
そして時たまこうしてノロケ話を聞かされるものだから、息子の俺としてはそっぽを向いたまま「あっそ」と言ってやるのだった。
自宅から車を走らせて一時間ほど。海沿いの、晴れた日には水平線の向こうに立山連峰を望むことが出来るそんな場所に親父の墓は建っている。これは親父が生前「俺が死んだら海の見える場所にでも墓を建ててほしい」と言っていたのを覚えていた母親が、律儀にもそれを守り、こうして親父をここに眠らせたのだそうだ。なにより、ここは親父の地元でもあるらしく、母親と出会ったのもここでだったそうだ。今日は幸いにも天気がいいおかげで、遠くに見える立山連峰がはっきりと浮かび上がっていた。
親父の墓を清掃し、お供え物をして心中で祈る。
親父。元気にしてるか? 死んでるのに元気もなにもないだろうけど、俺は元気にしてるぞ。そっちでもどうせ人に迷惑ばかりかけてるんだろ。向こうに行っても相変わらずだな。なんてことを思いながら。
横目で母親を見ると、一生懸命に祈る母親の口元が緩んでいた。もしかしたら俺と同じことを考えてるのかもしれない。
親父へのお参りを済ませると、母が尋ねてきた。
「翔ちゃんはお父さんになんて言ったの?」
「大したことじゃないよ。どうせ向こうでも人に迷惑ばかりかけてんだろってさ」
「あら、そんなこと言ったの?」
「どうせ親父のことだからさ。そういう母さんは?」
「実はわたしも同じこと言ってたわ」
母が笑いながら言う。さすが親子だ。
「でも、そのほうが親父らしくていいんじゃないか?」
「そんなこと言うとお父さん、きっと空の向こうでくしゃみしてるわよ」
そう言ってもう一度笑う。やっぱり母はどうして親父なんかと結婚したんだろうって思う。
「さ、お父さんへの報告も終わったし、翔ちゃんはこれからどうする?」
「せっかくここまで来たんだし、この辺り見てから帰るよ。帰りは電車で帰ってくるから母さんは先に帰ってていいよ」
「そう。それならあまり遅くならないようにね」
「子供じゃないんだから大丈夫だって」
「それでもあなたはわたしたちの子供なんだから、心配するのは親の務めよ。だからおとなしく聞き入れなさい」
「わかったよ」
俺が渋々といった風に、けれどそれを少し嬉しく感じていると、母もそんな様子に気づいたのか「ゆっくり楽しんできなさい」と言って先に帰っていった。
母を見送り、俺は今見ていた方向とは逆の方向へと歩き出す。墓地から少し歩くと、ザー、ザザーン、サー、サラサラ。そんな心地のよい音が耳をくすぐった。堤防の上に登り、波の音をミュージック代わりに歩く。ポケットの中に入れてたタバコを取り出し火を点ける。オイルライターのふたを開いたときのシャキンという音がまた心地いい。
ゆっくり紫煙をくゆらせると、夏風に舞って消えた。
堤防から見える砂浜では、魚釣りに興じる人が長い竿を振っていた。そこから反対に視線を移すと、色あせた街並みがあった。狭い路地に潮風で風化したトタン屋根。ひなたぼっこをしている野良猫や、いつからあるのかわからないような駄菓子屋。長い神社の階段を虫取り網を担いだ小学生が駆け上がっていく。その中に俺の親父の姿が重なって見えた。きっと親父もそうして過ごしたのだろう。俺がいるこの場所には親父が過ごした思い出が溢れていた。俺の知らない親父だけの時間。
けれどその親父ももういない。いないからこそ、もっと親父がどんな風に過ごしていたのか聞きたいと思った。
俺は歩くのをやめてじっと立ち止まった。後ろを振り返るとそこには俺が今まで歩いてきた道がある。前を向くとまだ歩いていない道が続いている。堤防の道はなにもなく、どこまでも遠く見渡すことができた。もしかしたら親父もこうやって今の俺みたいに、この堤防の上に登って自分がどういう風な未来を歩いていくのか見つめていたのかもしれない。
短くなったタバコを灰皿に入れると、それまで歩いていた堤防から降りた。そこへ「翔吾」と声をかけられた。
「よう。こんなところで会うなんて変な偶然だな」
声をかけてきたのは祐介さんだった。なぜか両手では抱えきれないほどの花束を持って。
「今からデートでも行くの?」
「バカ言うな。俺は生涯春菜一筋って決めてんだ。これはお前の親父にだ。今から勝利の墓参りに行こうと思って、墓前に備える花を探してたらこんなことになってな」
まいったまいったと上機嫌に笑う祐介さん。きっと親父のことを思って用意してくれたんだろうけど、物には限度というものがあることを知ったほうがいいと思う。
「そういうお前こそなにやってんだこんなところで?」
「そんなこと聞かなくてもわかるだろ。祐介さんと一緒だよ」
「そうか。そうだよな。んで、お前のほうはもう終わったのか?」
「ああ。ついさっきまで母さんも一緒にいたよ」
「美和ちゃん元気にしてるか?」
「おかげさまで息子の俺が頭を悩ませるくらいには」
「そりゃ難儀だな。そうだ翔吾、お前ちょっと時間あるか」
「それなら問題ないけど」
「じゃあたまには俺と付き合え。よく考えたらお前とこうやってじっくりと話す時間ってのもあまりなかったし」
「その前にやることやってからのほうがいいかもな」
俺は大量に抱えられた花束を指差して苦笑いを浮かべた。
一度来た道を戻り、今度は祐介さんと二人で墓前に立った。事情が事情とはいえ、さすがの親父も息子が二回も会いに来るなんて思ってないだろう。それと大量の花束か。
「あいつ元気そうだったな」
親父の墓参りを終え、あてもなく歩いていると、ふと、祐介さんがそんなことを言いだした。
「草場の影から親父でも見えたか?」
「気味の悪いこと言うな。そうじゃなくて、なんていうか、あいつが向こうでもちゃんとやってるってそんな気がしただけだ」
「そのへんのことはあの親父のことだから心配ないと思うよ。ただ迷惑はかけてるだろうけどな」
「はは、それ美和ちゃんにも言ったのか?」
「母さんも同じこと言ってた」
「だろうな。美和ちゃん、ああ見えて結構手厳しいところあるしな」
「意外だ。俺はそうは見えないけど」
「そりゃあ息子から見たらな。これでも美和ちゃんとの付き合いはお前より長いんだぜ? それに俺がいたから、こうしてお前がいるんだぜ? 感謝しろよ」
祐介さんが得意気に言った。親父との付き合いについては聞かされていたけど、母さんとの話は聞いたことがなかった。
「お前知ってるか? 俺と勝利が女を取り合ったってこと」
「初耳だ」
「ありゃあ、高校生のころだったかな。当時、学校でも指折りの女子がいてよ、男どもがこぞって告白するんだけど、ことごとく振られてたんだよ。んで、俺と勝利のどっちが付き合えるか勝負しようぜって話になって俺ら二人で告白しに行ったんだよ」
「それでどうなったんだ?」
「結果、二人とも振られたよ」
あっはっはと祐介さんが大げさに笑っていた。
「んでもよ、俺はすんなり諦めたのにあいつはどうしても諦めきれないみたいでさ、何度も告白しては振られてんだよ。しかも同じ女にだぜ? 普通だったら考えられないだろ」
俺が胸ポケットからタバコを取り出すと、一本くれと横から掠め取られた。
「タバコ吸うのか?」
「昔は吸ってた。真衣奈が生まれてから止めたけど、ちょっと吸いたくなった。お、悪いな」
祐介さんが咥えるタバコに火を点ける。親父がもし生きてたらこんな風にしていたのかもしれない。
「それで続きは?」
「ああそうだった。何度も告白してるうちに相手の女の子も少しずつ気持ちが動いてきたみたいなんだよ。執念ってやつかな。それで初めてデートすることになったんだけど、これがまたひどい結果でさ」
「どんな?」
「あいつ昔から寝起きが悪くて、目覚まし時計をいくらかけても起きないんだ。んで、携帯なんかもない時代だったから、連絡も取れないしで、大変だったんだよ。そこへ、たまたま待ち合わせ場所にいる子に会った俺が事情を聞いて、慌ててバイクの後ろにその子を乗っけて勝利の家まで行ったら、案の定、家でぐーすか寝てやがってさ、そのあとは三人でダラダラと過ごしてたっけ」
「それがまさか……母さんだったりするのか?」
「残念ながら、お前の母さんはその子じゃない。そのあとでその子の友達とも仲良くなるんだけど、その友達っていうのがなかなか面倒見がいい子でさ、勝利の面倒を見れるのはこの子しかいないって思って、俺がいろいろ世話を焼いてくっつけた。それが美和ちゃんだ。ま、あの二人だったら俺が世話しなくてもいずれはくっついてただろうけどな」
「じゃあ、親父が狙ってたって子はどうなったんだ?」
「……死んだよ。ちょうど真衣奈が生まれたと同時にな」
「それってまさか……」
「真衣奈の母親だ」
「……ごめん」
「なに謝ってんだよ。これは俺たちの話だし、あいつが──春奈が死んだことだってお前のせいじゃない。それに勝利がいなけりゃ俺は春奈と結婚できなかった。だから俺は感謝してるくらいなんだよ」
「感謝?」
「俺はさ、あいつと友達になれたことが割と自慢だったりするんだよ。あいつはお調子者で、普通の人だったらまずやらないようなことを平然とやるくせに、ちょっとしたことを気にしたりして落ち込んで、かと思ってたら次の日にはケロッとしてんだよ。結構いい加減だよな」
「……褒めてんのかそれ」
「まぁ、俺なりの賛辞だと思って聞いてくれ。あいつとはしょっちゅうバカなことばかりやって、高校生だってのにバイク乗り回して先公に怒られたり、朝まで酒の飲み比べして二日酔いになりながら学校行ったりしてさ、今となって考えてみたら、ろくでもない高校生活だったって思う。それでも俺にとってあいつと過ごした三年間ってのは、どんなことよりも楽しかった三年間だったんだよ。だからさ、五年前にあいつがあっけなく死んだって聞いて俺はそれを信じることができなかった。信じたくなかったんだ。俺はあいつとずっとこうしていられるって心のどこかで思ってたからな。……ったく、俺が大事に思ってる奴はいつも一足先に逝っちまう。もう少しゆっくりでもいいと思うのにな」
そう言って祐介さんは寂しげに笑った。
「だから翔吾。お前は俺より先に逝くなよ?」
「大丈夫だよ。俺は」
言うと祐介さんは「そうか」と今度は嬉しそうに笑っていた。
「そういや、お前真衣奈とはどうなんだ?」
「はぁ? どうってどういうことだよ」
「言葉通りの意味だよ。やっぱり付き合ってたりするのかお前ら」
「なに言ってんだよ祐介さん。知ってるだろ? 俺と真衣奈はそんなんじゃないって。ただの幼馴染だよ」
「……幼馴染か。あいつもなかなか大変だな」
俺の言葉に祐介さんが、短くなったタバコの煙を吐きながら呟いた。
「そういや真衣奈は?」
「あいつなら学園祭の準備とかで学校にいるはずだ」
「学園祭か。もうそんな時期なんだな」
思い返してみれば、俺が高校生だったころもこの時期あたりに準備を進めていたっけ。
「お前が三年のときってなにやってた?」
「アレだよ。アレ」
「ん? ああ、アレか」
祐介さんが思い出して笑いをこらえていた。
「笑うことないだろ」
「ああ、悪いな。けど、アレな今でも評判なんだぞ。今でも続編はまだか? って聞かれるしな」
「続編もなにも、あんなの二度とやるか」
俺たちの言うアレというのは、俺が三年生だったころに学園祭でやった催し物のことだ。本当なら思い出すのも忌々しいと感じているのに、どうして今さらそんな話を掘り返してくるんだろうとさえ思う。
その当時、部員も増えて活動の幅が広がった天文部では、学園祭でプラネタリウムとは違った出し物をしようという話が出ていた。しかし、天文部でプラネタリウム以外に何ができるのか? という話になり、色々な案が出た。プラネタリウムを眺めながら過ごす喫茶店であったり、星の説明会といったものから、各惑星のイメージを象った屋台なんてのもあった。しかし、そういった意見を見事に覆したのが紗季だった。
紗季の出した案というのが、太陽系に存在する九つの惑星の一つ冥王星が仲間はずれにされたことをきっかけに、反乱を起こし、その恨みを八つ当たりとばかりに地球にぶつけた挙句、太陽系七つの惑星にケンカを売った末に、力を合わせた七つの惑星が冥王星を倒すという、要するに惑星をイメージした戦隊ヒーローものをやろうというものだった。ちなみにタイトルは惑星戦隊プラネタリアなんていう、一切ひねりのないものだった。
もちろん俺は反対した。予算のことや制作に時間がかかりすぎるということもあったが、それ以前に高校生にもなって戦隊ヒーローなんてどうかしてるというのが一番の理由だった。部員全員を集めての会議が行われ、俺は即座に反対意見を述べた。のだが……どういうわけか、反対意見を出したのは俺一人で、残りの部員は揃いも揃って「面白そう」とか「さすが紗季先輩」なんて声を上げていた。その時の紗季の勝ち誇った顔は今でも忘れられない。
余談だが、惑星戦隊(以下略)の内訳はレッドが火星、ブルーが水星、グリーンが木星、イエローが金星、ブラックが土星で、ピンチに陥った際に登場する味方として、天王星と海王星がいる。もちろん悪役は冥王星で、肝心の地球はというと冥王星に捕まっているという設定だ。もともとは紗季がレッドの火星をやる予定だったが、学園祭前に転校してしまったため、本来なら裏方を務めるはずだった俺がレッドをやる羽目になったのは誰かの策略にしか思えない。
「いいじゃねーか。あんなの大人になったらちょっとやそっとじゃできるもんでもないしな。いい思い出だろ」
「できることなら、一生思い出したくないけどな」
「そう言って一番ノリノリで演じてたのはどこのどいつだ」
「……うるせーよ」
逃げ道を探るようにタバコをもみ消す。要は俺も若かったってことだ。
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