第11話 夏の風と入道雲と その3

「うーん……、と。こんなにはしゃいだの久しぶり」


 真衣奈が大きく伸びをした。


 数時間後、遊園地の一角にあるベンチには満足そうにしている真衣奈と、


「……お前、あれだけ乗ったくせになんでそんなに元気なんだよ」


 その真衣奈に付き合わされたせいで、ぐったりしている俺の姿があった。


「あれだけ乗ってもまだ足りないくらい。さっき行ったジェットコースターなんてあと三回ぐらい乗れるよ?」

「勘弁してくれ……」

「仕方ないなぁ。だったら今日のところはこれで許してあげるよ。だけど次回は覚悟しておいてよね?」


 真衣奈の真夏の太陽にも負けないくらいの笑顔だったのに、それがどうしてだか俺は寒気を感じた。


 広場にある時計は正午を指していて、それを認めると、とたんにお腹が空いてきた。


「もう昼か。そういやなんか食うか? 俺、買ってくるけど」

「あ、ちょっと待って」


 ベンチから立ち上がり行こうとする俺を真衣奈が引き止めた。おもむろにあのやたらでかいリュックを探っていた。取り出したのは、三段がさねのお重だった。


「はい。お弁当作ってきたからこれ食べよ」

「もしかして、時間かかってたのってこれが原因なのか?」


 聞くと、真衣奈は少し照れたように「そうだよ」と答えた。


「せっかく先輩と遊びに行けるんだしさ、たまにはこういうのもいいかなって」


 真衣奈がお重を開けると、一段目にはお弁当の定番、鳥の唐揚げやらエビフライ、その他もろもろのおかずたち。二段目には俵状や、一口大に丸められたおむすびが、三段目には女子らしくサラダや果物が入っていた。なんというか……想像以上に豪華だった。


「お前これ一人で作ったのか?」

「結構頑張ったよ。五時くらいには起きてやってからちょっと眠いかもだけど」


 はにかんだ真衣奈の目元は、確かに少し眠そうだった。


「なんか悪いな……」

「気にしなくていいよ。わたしがそうしたいって思ってやったんだし」


 ──それに先輩にちゃんと女の子として見てもらいたいから。


「ん? なにか言ったか」

「え、ううん! なんでもない! さ、食べよ。冷めちゃうから」


 お弁当に冷めちゃうもなにもないだろう、と言いそうになったが、真衣奈から箸を受け取ると、そんな些細なこともどうでもよくなった。


 さっそく箸を適当につっこむ。引っかかったのは鳥の唐揚げだった。


「今日のは結構自信作だから喜んでもらえると思うよ」

「そう言うってことは本当に自信あるんだな」


 俺はこう見えて、真衣奈の料理に関しては割とうるさいところがある。今まで色んな料理を食べてきたということもあるからか、今では少しの変化も分かるまでになっていた。とりわけ、真衣奈が自信作だと言ったこの唐揚げ、真衣奈が作る料理の中で俺が好きなもののベスト3にランクインしていた。なので、それを知っている真衣奈も、特別、唐揚げに関しては力の入れ方が違うのだ。


 俺はさっそく自信作だという唐揚げを口に放り込む。……うん。うまい。


「たしかに今日のは自信作だって言うだけあるな。今まで食べた中で一番うまいぞ」

「えっへへ、だから言ったでしょ。だけど、お父さんはまだまだお母さんの味には遠いって言ってた」

「祐介さんも結構料理に関してはうるさいからな。本人はまったく料理しないくせにな」

「でもさ、それだけお母さんのことを覚えてるってことでしょ。なんかそう思うと嬉しいかな。わたし、お母さんのことなんにも知らないから」


 そう言って真衣奈が目を伏せた。そうだった。真衣奈の母親は真衣奈を生んですぐに亡くなったのだ。そのあたりの事情に関しては祐介さんから聞いた。もちろん、真衣奈も祐介さんから自分の母親のことについては聞いているそうだ。しかしそれでも、自分で経験した印象と、人から聞いた印象とでは、雲泥の差がある。


 時折、真衣奈は俺にいうことがある。「わたしのお母さんってどんな人だったんんだろう」と。


 俺も親父を亡くしているけど、それは最初からいなかったわけじゃない。けれど、真衣奈は違う。祐介さんがいて、真衣奈がいる。そうなれば自然と真衣奈の母親もいることになるのだけど、真衣奈にとって親というものは祐介さんだけしかいない。だからこそ、真衣奈にとっては母親という概念がほとんどないに等しい。


 人々から聞く自身の母親の姿。俺も真衣奈の母親に会っているはずだが、ハッキリ言ってどんな人だったのかなんて全く覚えてない。だから、“いた”という事実だけしか知らない。そんな母親を真衣奈はどんな風に見ているのだろうか。


「ま──」

「でもいいんだ」


 真衣奈──と呼ぼうとして言葉が被せられた。


「でもいいんだ。わたしはちゃんとここにいる。わたしにはお母さんはいなくてもお父さんがいるし、お母さんのことを全く知らなくても、お母さんがいてくれたからわたしがいるんだもの。それに……お兄ちゃんもいるし」


 ね? と真衣奈が俺にほほ笑みかけてくる。その顔に知らず胸が高まる。照れを隠すようにペットボトルのお茶を飲んだ。


「そういや、お前にお兄ちゃんって呼ばれるの久しぶりだな」

「え、わたし今お兄ちゃんって呼んでた?」

「なんだよ、気づいてなかったのか」


 指摘すると本当に無意識だったみたいで、珍しく真衣奈が赤面していた。


「あ、いや、その……ごめん……」

「なんで謝るんだよ。別に悪いことしたわけでもないのに」

「うん……そうだけどさ」

「なんだ、俺はその……お兄ちゃんって呼ばれて悪い気はしないぞ。ほら、俺だって一人っ子だからさ、お前がそう呼んでくれると妹ができたみたいでなんか嬉しいし」

「なにそれ。先輩ってもしかしてシスコン?」

「誰がシスコンだ。けど、もしかしたらそうなのかもな」

「そうなのかもって、そうなの?」

「俺にもよくわからん。たださ、俺は真衣奈とずっと一緒にいたいって思ってるのは確かだぞ」

「なっ──、なにバカなこと言ってんのよ……」


 真衣奈が再び頬を赤らめた。


「そんな……ずっと一緒なんて無理だよ」

「そうかもな。ずっと一緒なんて無理かもしれない。でも、真衣奈のことは祐介さんと同じくらい大切に思っている。血はつながってないけど、本当の妹のように思ってるし、それとは別に大事な後輩だとも思っている。これから先、もしかしたら離れ離れになってしまうかもしれないけど、それでも俺にとって真衣奈は真衣奈だ」


 そう言ってポンッと頭に手を乗せた。これも俺が昔から真衣奈にしてやっていたことだ。真衣奈はその感触がくすぐったいのか、猫が撫でられるのを嫌がるようにしていた。


 それから昼食を終えて、しばらく色んな遊具を巡っているとずいぶん日も傾いてきた。そろそろ帰ろうか、と言うと、真衣奈が最後に「あれ、乗ろう」と大観覧車を指さした。


「見て見て、ここからあんなところまで見えるよ」


 真衣奈がゴンドラの中で子供のようにはしゃいでいた。


 ゴンドラの向こう側には彼方まで見える水平線。町のほうへ目を凝らすと、遠くに呉羽山、そのさらに向こう側に新湊大橋や、能登半島が見えた。


「すごいね」


 真衣奈が短く呟く。俺もその黄金色に輝く世界に目を奪われていた。


「今日来てよかったよ」

「そうだな。俺も久しぶりにゆっくり羽を伸ばせた気がする」

「ならよかった」


 柔らかく微笑む真衣奈。窓から差し込む夕焼けに照らされ、眩しく見える。


「こうやって大人になってくんだね。わたしたち」

「なんだ急に」

「なんでかな、ついそう言いたくなっただけ」

「なんだよそれ」


 そう言ってクスクスと笑い合う俺たち。


「この観覧者に乗るのも何年ぶりなんだろ。わたし小さい時どうしても観覧車が怖くって、それでも先輩が乗るっていうから無理して乗ったんだよ」

「そうなのか? 初めて聞いた」

「言ってなかったからね。もし話してたら先輩わたしのこと心配して乗らなかっただろうし」

「そりゃそうだろ。嫌がってるのに無理させるわけにいかないし。それなら今は大丈夫なのか?」

「うん。今は平気」

「ならよかった」


 ゴンドラがさらに高さを増していく。地面が遠ざかっていくにつれて、俺たちが見てる景色もすっかり変わっていた。


「このまま……」

「え?」

「……このまま時が止まっちゃえばいいのに」


 声に振り向くと、対面に座る真衣奈が外の景色ではなく、俺のほうをじっと見つめていた。


「このまま時が止まっちゃえば……わたしたちここに二人っきりだね」


 真衣奈が冗談めかしながら言う。俺はなんだよそれと返す。


「時が止まったらここに閉じ込められるだけだぞ」

「あはは、それもそうか。そんなことになったらご飯も食べられないしね」

「うん。それはダメだよね」

「ああ。携帯がパンクするくらいにかかってくるだろうな」


 俺の軽口に真衣奈がそっと笑った。


 ゴンドラが最長部まで登りきる。あとは下るだけ。そんな中、ふと、真衣奈が俺に聞いてきた。


「ねぇ、先輩」

「なんだ?」

「先輩はなにかが変わることって怖いと思う?」

「なにかってなんだよ」

「なんでもだよ。例えば環境が変わるとか、人との関係が変わるとか」

「難しい質問だな」


 俺は答えを探すように宙に視線をさまよわせる。


 変わることを怖いと思うか。だったらそれはイエスであり、ノーである。


 なにかが変わることは確かに怖い。けれど、それを恐れてばかりいたらきっと俺は前になんて進むことは出来ない。それはただの逃げだと思う。だから俺の出した答えはどちらでもないだった。


「普通どっちかで答えない?」

「どっちも間違ってないんだから仕方ないだろ。それにこんな質問に答えなんてない。どんなに怖がっていても変わるものは変わる。変えないでと願ったところで誰も叶えちゃくれないしな。そういう真衣奈はどうなんだ?」

「わたし? わたしは……怖いよ」


 そう言ってじっと俯く真衣奈。


「わたしはさ、やっぱり変わるのが怖いよ。ずっとこのままでいられたらって思うけど、そんなのって無理じゃない」

「だったら」

「だからだよ。だから怖いんだよ。わたしがどんなに願っても時間は進むし、わたしがどんなに願っても環境も人とのつながりも変わってく。もし、このまま大人になったときにわたしはどうなってるんだろうっていつも思うんだ」


 真衣奈の言葉が俺の心に突き刺さる。


 真衣奈は変わることが怖いと言った。それに対して俺はどちらでもないと答えた。


 はたしてそれは本当か?


 ああ、わかっている。本当は認めたくないだけなんだ。本当は俺もなにかが変わってしまうのが怖いんだ。


 紗季は俺に言った。俺のことが好きだと。


 その言葉に嘘偽りなんてないんだろう。なのに俺はそれを素直に受け入れることが出来ない。


 理由は簡単だ。それを受け入れることで、なにかが変わってしまうことを恐れてるからだ。俺が紗季を受け入れてしまえば、真衣奈と過ごすこのひと時は失われる。だから紗季への返事を先延ばしにすることで、変化しないようにしているだけ。誰よりもなにかが変わってしまうのを恐れているのは俺自身だった。


 ……ったく、偉そうなこと言えた立場じゃないな。


「それでも、どんなに年取ったってお前はお前だろ」


 なのに出てきた言葉はそんな言葉だった。人に言えた義理じゃないんだろうけど、少しでも先輩らしいところを見せたかったのかもしれない。するとさっきまで泣きそうな顔をしていたはずの真衣奈が「なにそれ」と笑った。


「なんだよ、人が精一杯励ましてやってるのになにそれの一言で終わりか?」

「じゃあありがとって言っとく。でもさ、先輩ってば言葉のセンスないよね」

「うっせ」


 そうは言うものの、それが真衣奈の感謝の言葉だってことは短くない付き合いだ、すぐにわかった。こういったことをお互い素直に言えないところはきっと


 いくら年を重ねてもそうそう変わるもんじゃないだろう。


 しばらくするとゴンドラは俺たちに見せていた景色を閉じはじめ、夕日が山の向こうへ沈む頃には俺たちの一日も幕を閉じようとしていた。


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