血染めのグローブ
これは俺がまだ現役のボクサーだった頃の話さ。そうだな、かれこれ四十年ちょっと前ってとこかな。
キャリア後半の俺は、いわゆるカマセ犬の役回りだった。
期待のスター候補選手たちは、世界ランカーになったこともある俺を倒して名をあげていった。パンチ力や反応スピードは衰え、でもそこそこ名が通ってる俺は連中にとって美味しすぎる相手だったんだろうよ。
言っちゃ悪いが、まさに今のあんたと同じ境遇ってわけさ。
何連敗目だったかな。とにかく、その夜は生意気な若造に完膚なきまでに叩きのめされちまってさ。さすがに引退の二文字がちらついたよ。
試合後の、しかもKO負け直後のアルコールが良くないのは俺だってわかってるが、飲まずにいられなかったね。何戦前からか忘れたが、負けた夜には行きつけの安酒場で酔いつぶれるのが習慣になっていた。
いつもの酒をかっくらっている俺に、妙な老人が話しかけてきやがった。
「あんた元世界ランカーの村瀬さんだろ。こんなところで何をしてるんだね」
返事もせずに酒をくらってる俺に、その老人は説教しはじめた。
「世の中にはボクシングを続けたくても無理なヤツもいるんだ。こんなところでヤケ酒くらってる暇があったら練習することだな」
「大きなお世話ってヤツだよ。爺さん、いいかげんに口を閉じないと後悔するぜ」
「村瀬さん、ファイアー溝口を知ってるか。ヤツは全盛期に兵隊にされちまったんだ。お国のために名誉の戦死だよ。溝口は本当に火のように激しいボクシングをしてくれたよ。あんたに溝口の面影を重ねたこともあったが、どうやら見損なっていたようだ」
ファイアー溝口のことは当然知っていたさ。俺のガキの頃のヒーローだった。
溝口の名前を出すその老人はボストンバッグから赤いグローブを取り出した。
「あんたがよくここに来るって話を聞いてね。通いつめてたんだよ。あんたにこれを使ってほしくてね。これは溝口の使っていたグローブだ」
その老人は名を名乗った。当時溝口をはじめとして幾多のタイトルホルダーを育て名伯楽として知られていた男だった。
次の試合は未来の世界チャンピオンと期待されている小僧が相手だった。俺はこの試合を最後に引退することを会長に伝えていた。会長も引き留めることはしなかった。こう負けが込むと高級カマセ犬としての価値もなくなったからだろうな。
その試合には、老人からもらった赤いグローブを使うことにした。昔好きだった溝口のグローブとともに現役を終えようというつまらない感傷だけではなかった。そのグローブには妙な吸引力があったんだ。
ゴングがなった。
俺はいつもとは違っていた。世界チャンピオン候補の小僧から舐めた表情が消え、次第に怯えの色が浮かびはじめた。
俺は激しく拳を振るい、相手を叩きのめすことに無上の喜びを感じていた。まるで全盛期に戻ったかのように。いや、全盛期以上だ。その激しさは、俺の全盛期ではなくファイアー溝口の全盛期に酷似していた。
相手陣営からタオルが舞い、それでも俺はラッシュを止めなかった。いや止められなかったというほうが正確な表現かもな。グローブに血が染み込むたびに俺は喜びにうち震えた。相手を殴って殴って殴って……、気がつくとレフェリーが俺を抱え込みゴングが激しく打ち鳴らされていた。
会長は手のひらを返し、俺に現役続行を説得した。
俺は高揚の中にいたが、かすかな危険信号を感じ取るだけの理性は残っていた。
俺は直感的に理解していた。ファイアー溝口の血染めのグローブには彼の殺傷本能が乗り移っていることを。
グローブをはめた選手は溝口のような身体能力と殺傷本能、そして陶酔を手にすることができる。そして陶酔を餌にグローブの奴隷になってしまうのだろう。死ぬまで踊り続ける呪いの赤い靴を履いた少女のようにな。
幸か不幸か、俺はリングの上の陶酔を捨て、小市民的幸福を選んだ。俺は、溝口にはなれなかった半端者さ。
グローブは処分できなかったね。たしかに殺傷本能なんてものは道徳に反するんだろうが、同時にリング上では崇高で美しい芸術として輝くものなんだよ。あんたもボクサーならわかるよな。
グローブを付けるのに相応しいヤツに譲り渡すこと。これが俺の使命だと思って生きてきたようなものさ。
あんたが、グローブをどうするかは任せるよ。試合に使ってもいいし、処分したけりゃ好きにすればいい。決めるのはあんただ。
それとも俺みたいに誰かにバトンタッチするかい。
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