第155話 英雄達の〝原典〟1

 アリナ・エレクトゥルムが生まれた土地は、エレクトゥルム男爵家が領主として統べる領地だった。

 数十を超える小さな村を合併した領地は運よく肥沃な大地に恵まれていて、一〇歳年上の優秀な兄の画期的な発想によって作られた用水路のおかげで、秋になると刈り切れないほどの作物がたくさん収穫できるようになった。


 羊から刈った毛で糸を紡いで布を織り、牛と鶏から新鮮な乳と卵をもらい、豚は人々の食卓に並ぶご馳走になった。

 イングランド王国においてここまで豊穣の神に愛された土地はなく、男爵という地位にありながらも周囲の貴族が羨むほど資源が豊富だった。


 資源が豊富な土地は私利私欲を目論む貴族にとっては絶好の的だったが、誰もがエレクトゥルム男爵家の土地を狙う者はいなかった。

 理由は、この家にはある言い伝えがあるからだ。


 ――琥珀色の瞳と髪を持って生まれた女児は、神に愛された者の証。彼の者の血筋に手を出した者は神罰が下される。


 最初は誰もこの言い伝えを信じなかった。けれど、過去に数度エレクトゥルム男爵家に手を出した者が悉く不幸な目に遭わされた。

 ある者は全財産だけでなく土地ごと失い、ある者は病で亡くなり、ある者は突然暴走した馬車に轢かれて死んだ。


 そういった経緯があるせいで、我が身が可愛い貴族達はエレクトゥルム男爵家に手を出す者はいなかった。

 その言い伝えによって血が守られた土地で、アリナは『神に愛された者』として生を受けた。



 アリナの朝はいつも通りだった。

 三人並んでも余裕がある広さの寝台で起きると、メイドが運んできたお盆で顔を洗い、深緑色のドレスに着替えさせられ、鏡台の前で髪を梳かしてもらう。

 後頭部に黒いリボンを結んでもらい、靴を履く。お礼を言って階段を降りて、通り過ぎる使用人達に挨拶して食堂の扉を開けた。


「おはようございます、お父様、お母様、兄さん」

「おはようアリナ、一〇歳の誕生日おめでとう」

「おめでとう、アリナ」

「おはようアリナ、誕生日おめでとう!」


 今日はアリナの誕生日。優しい父と母、そして聡明な兄が誕生日を祝ってくれるという事実はアリナの気分を良くさせた。


「今日は領民を交えた盛大な宴をするつもりだ」

「嬉しい! 私、みんなと一緒にダンスしたい!」

「ははっ、気が早いなぁ。今日は主役だから夜までのんびりしているといい」


 よしよしと優しい手つきで頭を撫でる兄ベネディクトは、赤紫色の瞳を細めながら微笑む。

 来年婚約者との結婚を控える兄は、生まれ持った聡明さと発想力で領地をさらに栄えさせ、他の貴族の令息とも友好な関係を結んでいる美青年で、アリナにとっては自慢の家族だ。


 父ロバートは子供を溺愛する愛妻家で、母フェリシアはジャム作りの名人で特に野イチゴのジャムは絶品だ。

 領民も誰もがいい人で、アリナが顔を出すだけで両手いっぱいに抱えきれないほどのお土産をくれる。

 何不自由ない、幸せな日々。だけど、アリナにはある不安を抱いていた。


 貴族として生まれた以上、家の発展のためにどこかの貴族に嫁ぐことは決まっていた。

 それが自分の役目だということくらい、幼いながらも理解している。だけど、本当にこれでいいのか、と心が訴えてくるのだ。

 自分はもっと誰もが為し得ないような偉業を為さねばならない、と思ってしまう。


 でも、アリナにはその偉業が何なのか分からなかった。

 それを探すのも目的として、朝食を済ませたアリナはケープを被って領地を出た。アリナの髪と瞳は領地だけでなく首都でも目立つため、万が一のためにこうしてケープを羽織っているのだ。

 ケープの裾にはエレクトゥルム男爵家の紋章が縫われていて、これさえ見せれば他の貴族は恐れを抱いて手を出してこないのだ。


 領地を歩くと民はアリナにお祝いの言葉をかけてくれて、夜の宴を楽しみにするよう言ってくれる。

 途中で牧羊犬と戯れ、藁を運ぶ馬車に乗って遠出もした。馬車の御者に手を振って見送り、そのまま森の中へと入っていく。


 ここら辺の森は中々足を運ばないということもあって、アリナの知的好奇心を刺激するには十分だった。

 森は枯れ葉が舞い、木の根元には領地ではあまり見ないキノコが生えている。途中で寄せ合うシカの夫婦を眺めながら腐った葉と糞尿の匂いがする土を踏みながら進むと、心地よい川のせせらぎと何かが動く音が聞こえた。


「水車の音……? もしかして、誰かここに住んでるのかな?」


 恐らく父でさえ把握してないことだと思って、アリナは森を歩く足を速める。

 音がした方に向かって進むと、古いレンガ造りの小屋を見つけた。水車がガタガタと音を鳴らしながら動き、黒茶色の屋根の軒下には果物の皮や薬草、肉が干されている。

 慎重な手つきで扉を開けると、秋の冷たい空気とは反対の暖かい空気が室内に満ちていた。


 ランプ以外の光源しかない薄暗い室内には一人分の食卓と椅子しかなく、暖炉の火はつけっぱなし。だけど床には鹿の皮が敷かれていて、部屋の隅には綺麗な色合いをした石やキラキラした鉱物、年季の入った道具が散らばった作業台と分厚い本が収まった書架。

 ごちんまりとした厨房はこまめに手入れされていて、傍にはひと一人入れそうなかめが置かれている。瓶の中には色んな木の実で作ったジャムや砂糖漬けが入っていて、動物の骨や流木、貝殻が綺麗に壁に飾られていた。


「すごい……まるで宝箱の中みたい……!」


 家とは違う光景に目を輝かせるアリナは、「お邪魔します」と律儀に挨拶をしながら室内に入る。

 暖かい室内だと今の恰好は少し暑く感じて、ケープを脱ぐと琥珀色の髪がふわりと広がった。


「これは……川で採れたものかしら? こっちの骨はなんの動物のだろう……でもかっこいいなぁ」


 作業台の上の石や床に置かれた動物の骨に触りながらあちこち回ると、ふと書架に目がいった。古びた背表紙をしたそれを一冊手に取ると、ゆっくりとページを捲る。

 てっきり何かの歴史書かと思った本の中身は、『火を操る『奇跡』について』など物語で出てきた不思議な術についての内容だった。


 こんな眉唾物の書物なんて、他の人間が読んだら「胡散臭い」の一言で読むのを諦めるだろう。

 だけど、アリナは違った。何故かこの本に書かれた内容に彼女の中の知的好奇心が極度に刺激し、食いつかんばかりに書物の文字を追った。


 アリナが生まれる遠い昔に、神から与えられた『奇跡』によって常人を超える力を手にした者の話を知っていた。

 この本に書かれているものは全て本物であるという確信を持っていた。理由は自分でさえ分からなかったけど、それでもここに書かれているものが偽者だと思えなかった。


 どれだけ夢中に読んでいたのだろうか、日が暮れて空が橙色に染まった頃。

 小屋の扉が、開かれた。



☆★☆★☆



「――そこにいるのは誰だ!?」

「きゃあっ!?」

「! 君は……」


 突然の怒声に悲鳴を上げながら本から顔を上げると、扉の前には黒いフードを羽織る美しい少年がいた。

 年は兄より年下みたいだけど、膝裏まで伸びた銀色の髪と瞳は人のものとは思えないほど美しい。フードのせいで隠されているが、首には煌びやかな石を嵌め込んだ首飾りをしている。恐らく作業台にある石と道具で作ったものだろう。


 少年はドカドカと足音を鳴らしながらアリナに近づくと、目の前で跪いて彼女の髪を一房手に取る。

 まるで美しいものに触れる丁重な手つきに、さすがのアリナも反応ができなかった。


「この琥珀色の髪と瞳……君は、愛し子だね」

「愛し子? もしかして『神に愛された者』のこと?」

「ああ、今はそう呼ばれてるんだ。昔は黄金色の髪を持った子は妖精に愛されていて、よく気に入った子を『常若とこわかの国』に連れて行ったけど……今は時代のせいで扉が閉じてしまってなくなってしまったんだ。

 で、その名残なのか琥珀色の髪と瞳をした女児は類稀な幸運に恵まれて、神様から祝福を受けた愛し子と呼ばれるようになったんだ。そっか……ここは伝承が残る場所なのか……」


 ぶつぶつと何かを呟く少年が髪から手を離したタイミングで、アリナは訊いた。


「あなたは誰? ここの家の人?」

「えっ? うん、そうだね。僕はここに住んでる者だよ。勝手に人の家に入っちゃダメだろ?」

「ご、ごめんなさい……ここすごく素敵な場所だったから……。あ、あとね、この本に書かれてること、ちょっとだけ分かったの」

「え……? 分かるの、それが?」

「うん! あ、でもほんのちょっとだよ? それ以外はまだまだ分からないの」


 アリナの言葉に少年は大きく目を見開くと、再びぶつぶつと何か呟き始める。

 いくら家の主だからといって、挙動不審な相手を目の前にすれば誰だって気味悪がるものだが、アリナはこの少年から感じる静謐な雰囲気のせいでそんな気持ちは一切湧き上がらなかった。


 呟いていた少年はふと真剣な面立ちをすると、アリナに向かって優しく微笑んだ。

 間近で見る銀色の瞳が自分の姿が映るのを見て、アリナの心臓が高く鳴る。


「よかったらこの本、貸してあげる」

「本当?」

「うん。その代わり、君がこの森に来た時間にこの本の内容を一緒に勉強しよう」

「勉強? でも、ここまで来るのはちょっと遠いよ」

「大丈夫、今日は特別なまじないを教えてあげるから」


 そう言って少年は作業台から不思議な文字が彫られた石を手に取る。

 少年の瞳と同じ色をしたそれを手にすると、彼は優しい口調で言った。


「これは自分が頭の中に思い浮かんだ場所に移動する石だよ。これを持ってこの小屋のことを思い出せば、あっという間にここに来られるよ。その逆もしかり」

「じゃあ、これがあればお家からここまで通えるの?」

「そういうこと。ほら、君のお家を思い浮かべて。イメージがしっかりしていれば、ちゃんとそこに戻れるよ」


 少年に促されて、アリナはぎゅっと目を瞑って頭の中で思い浮かべる。

 恵まれた領地、優しい領民、大好きな家族。帰るべき家を思い出すと、手の中で石は眩い光を放つ。

 瞼の裏でも光を感じながらぎゅっと石を握り続けていると、アリナの耳にざわざわと人の声が聞こえてきた。思わず目を開けると、アリナがいたのは屋敷から比較的近い納屋の裏だった。


 外は色がついたランタンがぶら下げた柱がいくつも立っていて、机には豪華な料理が並んでいる。女達は色鮮やかな服を着ていて、楽団が自前の楽器を使って愉快な音楽を奏でている。

 さっきまでいた小屋からここまで移動した事実に目を丸くしていると、いつもアリナに焼き立てのパンをくれるおばさんが声をかけてきた。


「おや、アリナ様。やっとお戻りになったのですね! ロバート様達があなたの帰りが遅いのを心配していましたよ?」

「ごめんなさい! すぐに戻ります!」


 まだ混乱する頭を抱えたまま屋敷に走ると、騎士や使用人総出で捜索しようとした家族がアリナの顔を見ると安堵の表情を浮かべるもお叱りを受けた。

 家族に心配をかけた自覚があったため謝罪すると、両親はそれ以上何も言わずすぐに宴を開いてくれた。


 メイドによって普段使いとは違う特別な用事にしか着ないドレスに着替えるために自室に戻ると、自分の手の中にある石と本を思い出す。

 あの少年が言った通り、この石には別の場所に移動させる不思議な力が宿っている。なくさないようになくさないように紐に結んでおこうと考えた時、「あっ!」と声を上げた。


「あの人の名前……聞きそびれちゃった……」


 うっかり名前を聞き忘れてしまってショックを受けるも、明日勉強するという約束がある。

 その時に改めて聞こうと思い直し、入ってきて来たメイドの手を借りて別のドレスに着替え直した。



 宴は夜遅くまで続いた。

 大人達はたらふく麦酒を飲み、豪快に焼いた豚の丸焼きや焼き野菜をつまんで、楽団の音楽に合わせて歌いながら踊る。

 子供達は葡萄ぶどうの果汁水を飲んで、焼き菓子をリスみたいに頬張る。アリナも大人に混じって踊ったり歌を歌ったりと、全身が疲れるほど宴を楽しんだ。


 夜が遅いということもあって、お風呂に入って寝間着に着替え、寝台の中に入る。

 付き添ったメイドが「おやすみなさい」と言って扉を閉めるが、眠ったフリをしたアリナは蝋燭の火をつけて少年から借りた本を開く。首にはあの不思議な石を結んだ紐を下げていて、蝋燭の火に照らされるとキラキラと輝いた。


「うーん、これは火と水と……自然にまつわる不思議な力が書かれているのね」


 全てを燃やす火、乾いた土地を潤す水、植物を生やす土、あらゆるものを斬る風など自然を操る『奇跡』が記されている。

 この『奇跡』を使うには細心の注意だけでなく、『奇跡』を使うための確固たるイメージなどを必要すると注意書きも書かれていて、石をいじりながらため息を吐く。


「そうだよね、これって使い方次第だと危険なものよね」


 騎士が使う剣は領地を守るものと同時に、使い方を誤ると誰かを安易に傷つけてしまう。

 便利な道具には使う人の心次第で正しい使い方か間違った使い方になってしまう。この本に書かれているものも、使う人によってとんでもない災いを呼ぶものになってしまう。

 正直、この本に書かれているは恐怖を抱くには十分なものだ。だからこそ、この『奇跡』は正しい使い方をしなければならない。


 その時、アリナがずっと抱えていた疑問に答えができた。


「そっか……私がするべきことはこれなんだ」


 ずっと心が叫んだ。自分は誰もが為し得ない偉業を為すべきだと。

 それが一体何なのか分からなかったが、ようやく理解した。

 自分は、この『奇跡』をこの世界に広めなければならない。力なき者に力を与え、未来へ進む架け橋として。


 頭の中にあったもやもやが一気に晴れるのを感じながら、アリナは再び本に齧りついた。

 綺麗な文字で綴られた文章を読み、あの少年によって明かされた『奇跡』を一言一句漏らさず読む。

 その時のアリナの顔は、目がいつも以上に輝き、頬は薔薇色に染まっていた。

 まるで、自分がするべきことを見つけた喜びを全身で表現しているかのようだった。



 場所は変わり、とある森の小屋。

 梟が鳴き、他の動物は寝静まる時間。少年は小屋の中で一人思い耽っていた。

 食卓の上にはこれまで自分が綴った本が広げられていて、そこから文字がページを抜け出して宙に浮く。


 少年にとっては見慣れた光景だが、それも指を鳴らすと文字はページの中に吸い込まれていく。

 脳裏に浮かぶのは今日出会った愛し子。琥珀色の髪と瞳は今まで見てきた琥珀よりも美しく、目が離せない。


「そうか……あの子が……。やっぱり、今の彼女にはは背負えないよね……」


 この世界に隠されている、自分だけしか知らない秘密。

 あの少女が未来視さきみに現れたとはいえ、を知るにはまだ幼すぎる。

 やはりあの時、勉強の誘いをしておいてよかったと思えた。


「でも……ちょっと楽しみだな、明日の勉強」


 今まで独りで過ごしてきたせいで、少女と過ごすだろう明日が待ち遠しい。

 柄にもなくうきうきと心を弾ませながら、少年は静かな夜の時間を過ごした。

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