第3章 黒の生家

Prologue 傷だらけの記憶

 これは、一人の少年の記憶。

 誰もが『正しさ』を歪ませ、少年の心も体も傷つけるだけの孤独の記憶――。



 ――俺は、家が嫌いだ。汚くて、醜くて、『正しさ』を歪ませた、この家が。


 少年は、生まれた時から何をしても許された。

 重い荷物を運ぶ使用人をわざと転ばしても、

 いくらするのか分からない高価な絵を破いても、

 分家の子供が誕生日に買って貰ったお気に入りのおもちゃを壊しても、

 家の人間は全てを許した。


 本来なら怒られるはずの俺の代わりに怒られるのは、被害を被った子供達。

 自分の子供がいじめられて泣いているのに、親は泣く子供の頬を叩いた。

 しまいには「謝りなさい」と本来謝るはずの自分に謝らせる始末。

 納得できないまま子供の悔しげな顔で「ごめんなさい」を言うたびに、少年の心がチクチクと針を刺されたように痛んだ。


(違う。そうじゃない。俺が欲しいのは、そんな言葉じゃない……!)


 少年は期待していた。

 自分の行いが許されないものだって、間違っているのだって、言ってほしかった。

 今の子供みたいに頬を叩かれて、「謝りなさい」って言ってほしかった。

 ただ正してほしかった。この歪んだ『正しさ』を、本当の『正しさ』に直してほしかった。


 ――なのに、誰もしてくれない。誰もが、この『正しさ』が当たり前だと思っていた。


 部屋の隅で座り込む少年に、一人の少女が目の前で跪く。顔には靄がかかって分からないが、少女の着ているフリルがたっぷりあしらったドレスがとても似合っていた。

 その少女は、少年の家にとっては分家の子で、唯一年が同じの幼馴染み。

 事あるごとに目の縁に涙を溜めて部屋に閉じこもる彼を、少女は頬を薔薇色に染めて、甘く蕩ける笑みを浮かべながら言ったのだ。


「××ちゃんは気にしなくていいの。悪いのは××ちゃんにおもちゃを貸してくれなかったあの子が悪いの。だから、××ちゃんは悪くないよ」


 優しい声で言われても、優しく頭を撫でられても、少年にとっては呪いそのものだ。

 この呪いを受け入れたら最後、自分はもう二度と正気でいられなくなる。


 ――俺は、魔導士が嫌いだ。力があるだけで威張り、地位があるだけで下を見下し、人の心を歪ませる魔導士が。


 どんなに魔導士を嫌悪しても、自分も同じ魔導士であることが悔しかった。

 だがそれ以上に、仕事が忙しく中々会えない怖い父とも、母が死んですぐ新しい母としてやってきた女性とも、生まれたばかりの物事を知らない半分血が繋がった妹と向き合えない自分が嫌いだ。

 言いたいことが言えない自分が、誰よりも心が弱い自分が、家よりも魔導士よりも大嫌いだ。


 少年は何度も叫ぶ。

 たとえ誰に届かないと分かっていても、声を涸らして泣き叫ぶ。


(誰でもいい。誰か、俺を――俺を――)


 ――助けて。



☆★☆★☆



「――っ」


 夜が明け、日が顔を出す時間。日向は目を覚ました。あまりにも悲しい夢を見たせいで、目から大粒の涙を零しながら。

 上半身をベッドから起き上がらせ、パジャマの袖で涙を拭う。隣のベッドからはルームメイトの寝息、外からはスズメの囀る声が聞こえる。


 あの悲痛な声が聞こえないのに、日向の耳の中には声が残っていた。


「……今のは、夢? いや……違う、あれは記憶だ」


 以前、日向は自分の昔の記憶を夢として見たことがある。

 さっき見た夢が自分の記憶によるならよかったが、今回のは別の誰かの記憶だった。

 少なくとも日向はあんな悲しい過去は知らない。目を閉じなくても、夢の内容ははっきりと覚えていた。


 赤煉瓦の壁と黒い屋根をした立派な洋館。それを囲む四季折々の花々が咲く庭で、一人の子供を泣かす少年。

 少年の足元にある船のおもちゃは、日向の目から見ても直すことができないほど壊れていた。


 泣く子供の頬を叩く音。「謝れ」と子供の頭を手で下げさせる親と、悔しがりながら泣き顔で謝る子供。

 広く冷たい部屋の隅で泣く少年の前に立つ、甘い笑みを浮かべる少女の言葉。


 そして、少年の脳裏に浮かんだ黒いスーツ姿の父親らしき男性と、おくるみに包まれた可愛らしい赤ん坊を抱いた義理の母らしき女性の姿。


 名前の部分はまるでノイズがかかったように聞こえなかったが、少年の顔を見ただけで誰なのか分かった。

 それでもあの艶やかな黒髪と綺麗な真紅の瞳、そして暗い孤独で彩られた幼い顔を、日向は知っていた。


 あの少年は――あの記憶の持ち主の名は――。


「――悠護」

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