番外編置き場
十三湊
【前日譚】いとしいとしというこころ (『かくしごと承ります。』)
『かくしごと承ります。 筆耕士・相原文緒と六つの秘密』(KADOKAWAメディアワークス文庫)の前日譚。
ネタバレはほんのちょっと。
***********************
松井 隆二
三浦 貴広
三上 櫻……
二月に入ってから毎日、卒業証書の名前を書いている。
ライトテーブルに自作のテンプレートを敷いて、証書の用紙を重ね、何十枚、何百枚。
二月は筆耕にとって、一年でいちばん忙しい月だ。
卒業証書の依頼が集中するし、春の結婚式関連に向けた書きものも多い。
「三浦貴広」まで書いて、
紙を替えて、いったん試し書きを挟む。
「櫻」の字を書くのが久しぶりだったからだ。
画数の少ない「三上」とのバランスを意識して、書いてみる。
三上 櫻
二回、書いた。
名前にこの旧字を使うのは珍しい。「桜」のほうに可愛らしくやわらかいイメージが定着しているから、そちらを使うことのほうが圧倒的に多い。
〽櫻という字を 分析すれば 二階の女が 気にかかる
この字を書くときは、ついつい節をつけてつぶやいてしまう。
「『二貝』(貝貝)の『女』が『木』にかかる」という語呂合わせだ。
もとは酒の席での戯れ歌だったそうだけれど、インテリが作ったのだろうと思わせる言葉の選び方だ。
同じような漢字の語呂合わせで、たぶんもっとも有名なのはこれだ。
〽
「糸」し「糸」しと「言」う「心」、で「戀」。
俗字だった「恋」のほうが定着しているから、もう滅多に見かけない。
◇◆◇
ガトーショコラは、脳がしびれるくらいに甘いのがいい。
外側はふわりと軽い口あたりで、中はしっとり。口に入れたらどっしりと濃厚。一切れだけでおなかがいっぱいになってしまうような。
ケーキクーラーで冷ましたものをひとつ、小箱に入れて封をした。
量産しなければならなかったので、今回使ったのはパウンド型だ。
昼食後、コートを着込んで家を出る。
暦の上ではもう春だけど、今は一年で最も寒い時期だ。
三島はめったに雪が降らないけれど、寒さを感じないわけじゃない。透きとおる源兵衛川の流れも、冬は何となく寒々しい。
〈申し訳ない。紙を家まで届けられなくなった。もし時間があったら玄関先まで取りにきて〉
午前中、
下請けの仕事のため、新しく証書の用紙を受け取ることになっていたのだ。
仕事が立て込んでいるのかな、と思った。
まあ、このところずっと机に向かっているから、運動不足だし。
そんな言い訳をしながら、気持ちがふわふわと浮き立ってしまう。
かつて宿場町のメインストリートだった旧東海道を東へ向かい、三嶋大社の前の交差点で、富士山を見る。冬は空気が澄んでいて、雪を頂く霊峰の姿も美しい。
いつもの道をたどり、自宅を兼ねた都築の筆耕事務所のチャイムを鳴らしたら。
「風邪ですね」
出てきた都築を見るなり、文緒は言った。
都築は作務衣の上にどてらを羽織り、マスクをしてくしゃみを連発している。
体調が悪いとき特有の、けだるげな目つき。
「昨日、薄着して夜中まで根詰めてたら、これ。家帰ったら、手洗いうがいしてね。うつるといけないから」
めずらしく、柴犬の
冬場は犬小屋ごと移されて、
「熱、測りました?」
大鳳を撫でつつ文緒が尋ねると、都築は警戒するような顔をした。
「たいしたことないよ。まだ三十八度くらいだし」
「病院――」
「大丈夫」
言いかけた文緒の声に、言葉を被せる。
文緒は黙って、都築の顔を見上げた。
都築が気まずそうに目をそらす。
「……病院行ったら、注射打たれるかもしれない」
「……先生、もう三十六歳ですよね……?」
「いや、怖いだろ! 歳関係なく! 針で刺されるんだから!」
インフルエンザの予防接種を受けたから、今年のノルマは終わったのだと都築は言った。
思いがけず、子どもみたいなところを見てしまった。
「言ってくれれば買い物くらいしてきたのに……。今日発送のものがあるから、いったん帰りますけど。夕方また来ます」
証書の入った箱を受け取り、文緒は言った。
「寝てれば治るよ」
「食べるもの、ないでしょう。……看病に来てくれる人がほかにいるなら、いいですけど」
「あては、ありませんね」
なぜか敬語で、都築は答えた。
寝てるかもしれないからこれで入って、と都築が鍵を差し出す。
無造作に手渡された皮のキーケースが、手に重かった。
「食欲ないかもしれませんけど。三日くらいは持つので、元気になったらどうぞ」
交換するように、文緒は持ってきた紙袋を差し出した。
母の同僚と、祖母のボーイフレンドに配るために焼いたんです、そのついで。そんな言い訳をいちいちしなくていいのだ、大人は。
都築がきょとんとして尋ねる。
「何?」
「ガトーショコラ。もうすぐバレンタインデーなので」
「あー! バレンタインか! ははは」
都築が声を大きくした。
「ありがとうございます」
押し頂くようにして受け取り、都築が目を細めた。
「中学生までは毎年くれてたな。チョコレート」
文緒は生返事をして、背を向けた。後ろ手で玄関の戸を閉める。
急に恥ずかしくなってしまった。
◇◆◇
小学三年生のときのことだ。
バレンタインデーの数日前だったと思う。
その日の書道教室の送り迎えは、なぜか母だった。
いつも文緒を教室まで連れてきていた祖父は、いなかった。
恋多き彼のことだ。すかさず書道教室の
「先生に渡せた?」
玄関から出てきた文緒に、母が尋ねた。
「……うん。園先生には」
コートのファーにあごをうずめ、文緒はふくれ気味に答えた。
バレンタインデーなんか早く終わってほしい、と思っていた。
チョコレートのお菓子を作るのは楽しかったのに。
夕食後に、買ってきたいろんなチョコレートを食べられるうれしい日だったのに。
「だめじゃない。ほら、出して」
状況を察したらしく、母は文緒の左腕をつかんだ。
玄関から出てくる子どもたちの流れに逆行するようにして、文緒を引っ張っていった。
「都築先生」
都築が生徒の保護者と話し終えたタイミングを見計らい、母が声をかける。
当時、彼は大学生だった。
春休みの間、東京から戻ってきていて、園先生のもとでアルバイトしていたのだ。
当時の彼はまだ未成年だったのだけど、文緒にとっては十分な大人だった。白いシャツも、腕時計をした手首の感じも、女所帯で暮らす文緒には見慣れないものだった。
「ああ、相原さん、こんにちは」
「いつもお世話になりますゥ」
知人同士のわざとらしさを残しつつ、ふたりは挨拶を交わした。
書家である祖父を訪ねて都築が家にやってきたのは、彼が高校生のときだった。それで、ずっと母は彼のことを「都築くん」と呼んでいたのだけれど、教室では一貫して「先生」と呼んでいた。それが彼女の節度だった。
母に背中を叩かれ、文緒は紙袋を差し出した。
教えられたとおりの口上を口にする。
「来週バレンタインだから! いつもありがとうございます!」
やぶれかぶれの口調になった。
同じことを園先生に言ったときには、先生は喜んでくれるだろう、とうきうきしたのに。
「あー! バレンタインか! ありがとう。ありがとうございます」
顔をほころばせ、文緒と母の双方に都築は言った。
文緒は母の後ろに隠れて、母のコートの生地を握った。
「なあに、恥ずかしかったの?」
車に乗ってから、母が笑った。
「ちがうもん……」
後部座席で、文緒は怒って言った。ふてくされていた。
わけがわからない気持ち、自分で自分を制御できない苛立ち。その始まりの日だった。
◇◆◇
夕方、誤字チェックの終わった卒業証書を発送し、再び都築の家を訪れた。
大鳳の皿に水とドッグフードが残っているのを確かめてから、そっと仕事部屋の襖を開ける。
都築は寝ていた。ソファで、布団と毛布をかぶって。
ひょっとして、いつもここで寝てるんだろうか。部屋はたくさんあるのに。
恐る恐る部屋に足を踏み入れる。
自宅と同じ、墨の匂い。
良くないと思いつつ、息をひそめて都築の寝顔を見た。
ずっと眺めていたい気がした。
しかし、足元から震えが立ち上ってくる。
エアコンは入っていたが、底冷えがする。加湿器の水がなくなったらしく、赤い給水ランプがついている。
畳の上にかがみこんで、ストーブをつけた。
見上げると、壁に花が咲き誇っていた。蝶が舞っていた。
牡丹だろうか。赤みの強い、ピンクの八重咲きの花の絵。
それが何枚も何枚も、壁際に張られた紐に吊るされていた。
花に躍りかかるように描かれているのは、揚羽蝶。
ポスター案らしかった。花と蝶、そして日時と場所を示す文字列が、レイアウトを変えて何パターンか。
余白に、黒々とした墨の文字が書かれている。
のびやかな、都築の字。
蝶戀花
絵のタッチが何となく中国っぽいから、漢詩のタイトルとかフレーズなのかもしれない。
繊細なもの、端正で落ち着いたもの、力強いもの。
微妙に印象を変えた、いくつもの「蝶戀花」。
〽戀という字を 分析すれば 愛し愛しと 言う心
糸が絡んでもつれ、何が何だかわからなくなってしまっている心の状態を表すのが「戀」だという。
この文字を書いたとき、先生は何を思っただろう。
かつて結婚していた女の人のことだろうか。それとも昔の恋人のことだろうか。
考えてはいけないと思いながらも、胸が痛かった。
◇◆◇
都築は、ガトーショコラを食べたらしい。
めずらしく、台所の流しに食器とナイフが放置されていたからわかった。ひとり暮らしなのに、ちゃんとナイフでケーキを切って食べるところが彼らしい、と思う。
持参した魔法瓶にスポーツドリンクの粉末を入れて、お湯を注ぐ。
水を入れたやかんと水筒を手に、仕事部屋に戻った。
加湿器のタンクに、やかんの水を移す。
じょぼじょぼと響く、間抜けな水音。
その合間に気配を感じて振り向くと、都築が起きていた。寝そべったまま、ソファに肘をついてこちらを見ている。
「――起きてたんですか」
うろたえて、文緒は訊いた。
「いま起きた」
都築が答える。
寝起きのせいか、真顔でこちらを見てくるので何となく怖い。
「水分とったほうがいいですよ」
そう言って、文緒は水筒をソファの近くに置く。都築の顔を見ないように、加湿器に水を足す。
背後で水筒を開ける音がした。
「ありがとう。ケーキ、おいしかったよ」
「甘かったでしょう」
「うん。でも、そのほうがいいよな。チョコレート! って感じがして」
給水も終わってしまい、手持無沙汰だ。
仕方なく、文緒は壁のポスターを指さした。
「ちょうれんか、って漢詩ですか?」
尋ねると、都築が寝そべったまま、壁に目をやった。
「どうだろう。同じタイトルの漢詩はいくつか知ってるけど、曲や絵のタイトルになったりもしてるから。中国だとメジャーなモチーフなのかもな。これは絵の個展だって」
「旧字なんですね」
何が、を避けて、文緒は言った。
「うん。こっちのほうが形が複雑だし、原義に近い気がするな。もつれてわけがわかんなくなってる感じ」
文緒は意味もなく、加湿器の給水ランプを指で押さえた。
もつれてわけがわからなくなったことがあるのだろう、と思った。
文緒が小学生だった間にも、中学生だった間にも。
「忘れないうちにお返しします」
キーケースをソファの上に置いた。
ソファに肘をついたまま、都築がケースに目をやる。
左手でケースをもてあそびながら、眉を寄せてうなる。
「うーん……」
目を閉じて何ごとか悩んでいた様子だったが、しばらくしてから口を開く。
「近所のお母さんが、子どもに字を教えてほしいって言ってるんだけど。文緒、やる?」
文緒は目を瞬かせた。
「書道教室ですか? いきなりですね」
俺の中ではつながってるんだよ、と言い、都築が指を折った。
「やる気あるなら、先方に人を集めてもらうよ。そうだな……最初はあんまり人数多くないほうがいいだろうけど、少なすぎると採算取れないし……最低四人集めてくれたらやります、くらいがいいかな」
「……お仕事いただけるのはありがたいですけど」
「うちに毎週来なきゃいけないよ」
「先生さえよければ」
「じゃあ、話進めるからね」
「はい」
人に字を教えるなんて、大学時代のアルバイト以来だ。
突然の話に、不安はある。
それでも気を取り直して、文緒は口の端を上げてみせた。
何しろ、独立したばかり。仕事が途切れる心配は常にある。定期収入のあてができたのはありがたかった。
書道教室で収入を得ることを、考えたことはある。自宅ではできないから、場所代を考えて却下したのだ。事務所を使わせてもらえたら助かる。
文緒から視線を外し、都築が大きくため息をついた。
ソファの手すりに頭を載せ、両手で顔を覆ってしまう。
「ああ……」
「どうしたんですか」
「汚い大人になって、自分で自分を追い込んでる」
意味がわからず、文緒は眉をひそめた。
「いやいや。そういえば、近所の人からみかんをもらったんだった」
照れ笑いしたかと思うと、都築がいきなり身を起こして立ち上がる。
「文緒のおばあさん、みかん好きでしょ。持っていきなさい」
「好きですけど……落ち着いてください。上着着て! 風邪ひいてるんだから」
畳の上に落ちたどてらを拾い、文緒は都築を追いかけた。
◇◆◇
ちょうど半年後、本人から告げられるまで文緒は気づかなかった。
経済状況につけこまれて、毎週家に来る状況をつくられてしまったことに。
胸の内がもつれて絡んで、わけがわからなくなっていることは、はたから見てもわからない。
〈了〉
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