最終章 いつも心に太陽を ―― 対前橋森越戦・その6 ――
1
ゴレイロが身体に当てて必死のブロックを見せるが、瞬時にして良子に詰められ、焦り無我夢中で蹴り飛ばしてキックインに逃れるのが精一杯だった。
驚愕、呆然、憎しみ、恥辱、等などない混ぜとなっているような複雑な表情で立ち尽くす
彼女の脇を無言で通り、良子はキックインのキッカーとしてサイドラインへと向かう。
擦れ違う瞬間に津田文江が舌打ちをしたが、良子は彼女を冷ややかに一瞥したのみであった。
「シャク、ナイシュー! この調子でがんがんいくでえ!」
なんだか白々しい仕草に白々しい口調。
双葉も津田文江同様に、良子の様子がなんだか奇妙であることに気が付いているようであった。
良子のキックイン。手で味方へ合図を送ると、小さく助走を付け、蹴った。
すぐそばに立つ
強すぎるかに思われたが、くっと曲がってちょうど双葉の足元へ落ちた。
あまりにも精度の高いボールに一瞬面食らう双葉であったが、すぐ気を取り直してくるり反転すると
久野琴絵は、すぐさま津田文江へとボールを送る。
津田文江は右足でボールを踏み付け、良子と向き合った。
さっきのは油断をしただけだ。とばかりに良子へ真っ向勝負を挑み、強引に抜きにかかった。
触れたものをみな吹っ飛ばすような闘牛のごとき猛烈な勢いで、良子の脇を一瞬にして通り抜けていた。
しかし、抜けたのは津田文江の身体だけであった。
ボールは?
津田文江は周囲を見回そうとし、そして愕然とした表情になった。
ボールが、良子の足元にあったからである。ぴくりとも動いたように見えなかったのに。
良子はわずかに身を屈めると、ころ、とボールをなで動かす、と見えた瞬間に踵を返して一気にトップギアのドリブルに入っていた。
その後ろ姿を見ながら、津田文江はぶるりと身体を震わせると絶叫した。真っ赤にも真っ青にも見える顔色で、雄叫びを上げながら全力で走り、良子を追い掛け、追い付き、肩を強く掴んだ。
引っ張り倒すような勢いであったが、良子の体幹はびくともせず、むしろ引っ張られて倒れそうになったのは津田文江の方であった。
良子の進路を塞ぐように、久野琴絵が立った。
槍のように鋭く足を突き出したが、良子はちょこんとボールを浮かして駆け抜ける。
宙に浮いているボールに、横から薙ぎ払うように津田文江の足が伸びる。だが彼女の足は、ただ消失感を捉えただけだった。
ボールが消えていた。
空気に溶けてしまったかのように、突然。
困惑する津田文江と久野琴絵の前に、不意にすとんとボールが落ちてきた。
次の瞬間には、良子は二人の間を駆け抜けていた。
今度は、久野琴絵が思わず良子の肩に手を掛けていた。
良子が小柄な身体をすっと重心低くして加速をすると、久野琴絵は予期もしていなかった驚くべき馬力に引っ張られてバランスを崩して足をもつれさせ転倒した。
ピッチに立つ佐原南の選手たち、そしてベンチから応援している部員たちは、目の前で起きている光景に信じられないといった表情のまま硬直してしまっていた。
これまでの良子を知っているならば、そのように思うのも当然のことだろう。
「ワラ!」
良子は叫ぶと、ゴール前を目掛けて大きく蹴った。
「よっしゃ!」
呆然としていた双葉であったが、その叫び声に背中を押されたように、自らも慌てたように叫び走り出した。
ゴレイロがボールを処理しようと飛び出すが、先に触れたのは双葉であった。伸ばした右足に、上手く合わせた。
ゴールネットが揺れた。
呆然状態から、一転して大爆発する佐原南ベンチ。
だが、ゴールは認められなかった。
ゴレイロが倒れており、それが双葉のファールと判断されたのだ。
「おかしいやろ! まったく触れとらへんのに!」
双葉は不満げに床を蹴った。
起き上がったゴレイロはふうとため息をつき、ボールを拾うと、ゴールラインにまで下がった。
ゴールクリアランス、助走を付けて遠くへ投げた。
ボールは山を描き、ハーフウェイライン手前ですとんと落ちた。
2番がバウンドを踏み付けようとした瞬間、その前を良子が駆け抜け、掻っ攫っていた。
津田文江は、死なば死ねとばかり凄まじいまでの気迫、殺気を込めて、良子へと飛び掛かった。
だが、次の瞬間には驚愕に目を見開いていた。
良子が、津田文江の視界から消えていたのだ。
慌て後ろを振り向くと、そこに良子の姿。津田文江はさらに驚愕し、ひ、と激しく息を飲んだ。
良子は小柄な身体を利用して、津田文江の死角へと飛び込んだのだが、それが、まるで瞬間移動でもしたかのように見えたのだろう。
魔術にすっかり狼狽した津田文江は、なにやら声にならない声をあげ、ボールを奪い返そうと良子へ飛び掛かった。
良子は冷静にボールを転がして、最小限の動きでかわした。
血が上ったか、津田文江は吠えながら良子の背中をどんと強く押した。
がくり、と良子のよろけた隙に、ボールを奪い取った。
しかし次の瞬間、津田文江はまたもや驚きに目を見開いていた。
確かに奪ったはずのボールが、まだ良子の足元にあったからである。
屈辱に激高した津田文江は、掴み掛からんばかりの勢いで良子へ迫った。
その猛烈な勢いを、良子はそよ風のごとく肌に受けて微動だにしない。しかし一度動き出せば疾風のごとく、こつんとボールを押した瞬間にはそのボールとともに津田文江の脇を抜き去っていた。
「バカにすんな!」
津田文江は、くるり振り向くと故意か無意識か腕を伸ばし、良子の肩に手を掛けて強い力で引き倒そうとした。
良子はまるで動じることなく、すっと腕を伸ばして自分の肩を掴んでいる手をはたいて振り払った。
「あ……」
津田文江の目が驚愕に見開かれるのは、これで何度目であっただろう。
彼女の目の前から、またもや良子の姿が消失していたのだ。
良子は、消えてなどいなかった。津田文江のすぐそばにいた。密着するように、背後に立っていた。
その温度を感じたのか、津田文江の腕や足の肌に、ぶつりぶつりと鳥肌が立っていた。ごくり、と唾を飲み込んだ。
2
「先輩はさっき……」
良子は、ぼそり小さな、しかしはっきりとした声で、津田文江へと語り掛けた。
「あたしの仲間に、いってはいけないことをいった。愚弄し、嘲笑し、存在を否定した。……それじゃあ今は、先輩が愚弄され、否定される存在ですか? 人間性に劣る存在ですか? 違うでしょう? だから、だからもう……」
「なに偉そうにいってんだあ! ちょっとまぐれが続いたくらいで!」
津田文江はくるり反転するや、良子の胸を両手で突き飛ばしていた。
良子は避けようとしたが、ここまで露骨な暴力が来るとは思わず、避けきれず後ろへ倒れ尻餅をついた。
笛の音が響いた。
「次! 次やったらっ、警告で退場ですよ!」
女性審判が興奮気味に叫んだ。
やたら笛を吹いても流れを止めてしまうだけだし、なにもしないとこの喧嘩のような雰囲気が際限なく暴走しそう。審判にはこの試合を御すことの出来ないイライラが溜まって来ているようだった。
「どうも済みません」
審判の感情を察したか、良子はやり合ったことを謝った。合ったといっても、一方的に暴力を受けた側ではあったが。
「津田先輩、もう憎み合って試合をするのはやめましょう」
良子は尻餅をついた状態からゆっくりと立ち上がる。
ぶるぶると震えながら。
すっかり興奮状態にあり忘れていたが、疲労は既に限界を越えていたのを思い出していた。
すっかり興奮状態にあり我を忘れていたが、段々と、我を取り戻していた。
良子は、なんともいえない複雑な気持ちを胸に抱いていた。
忘れていた能力が、再び天から降りてきたことに対してだ。
取り戻したくてこれまで必死に練習をしてきたというのに、いざ戻ると、嬉しいよりも怖いくらいだった。
こんな力、本当に必要なのか?
家族を守れず、むしろバラバラにこそしてしまった自分なんかに。
津田先輩をここまで変貌させてしまったものであるというのに。
必要なのか?
本当に?
自問していた一瞬の油断を突いて、久野琴絵が猛然と突っ込んできた。
すっ、と紙一重でかわしていた。
というよりも、身体が勝手に動いて気が付けばかわしていた。
なにも考えてもいないというのにボールがしっかりと自分の右足にあることに、良子はぞっとするような思いを感じていた。
首をぶんぶんと振った。
本当に必要か、などとそんな下らないことを気にしても仕方がない。
力は、単に力だ。
どう使うかだ。
そうだ。
もう、あの時のわたしとは違う。
失ってみて、わたしは色々なことを学んだ。
成長、したんだ。
自分を肯定しろ。
偽るな。
そして、勝利を掴み取るんだ。
わたしに出来ること、
わたしにしか、出来ないこと、
双葉ちゃんにしか出来ないこと、
留美ちゃんにしか出来ないこと、
ドンちゃんにしか出来ないこと、
ユズちゃんにしか出来ないこと、
応援してくれるみんな、
力を合わせて、この試合に勝つんだ!
良子は津田文江と向き合った。
津田文江は、気迫に押されじりじりと後ずさった。
自尊心を守るため、いまにも鬼の形相で奇声をあげ突っ込んでくるかのようにも見えた。
だが、これはどうしたことだろうか。
「みんな引け!」
そのままずるずると後退しながら、津田文江は味方に守備固めの指示を飛ばしたのである。
前橋森越は支持通り、ピヴォ一人を残して全員が極端なまでに自陣へと引くことになった。
もともと監督は疲労対策を考えて、津田文江をベンチに下げた上で守備固めをしたかったようだが、これまでその津田文江がかたくなに退くことを拒み、チームを前へ前へと攻めさせていたのだ。
ひたすら攻めて重圧を与えることによって良子の精神をボロボロにしてやるつもりだったのであろう津田文江にとって、このように引いて守備を固めることは苦汁の決断であったことだろう。
失点、つまり佐原南に得点が生まれたならば、それこそここまでやってきたことの意味がなくなってしまうため、背に腹は変えられないということであろう。
結果、今期公式戦無失点のチームが、さらに守備的になり強固になった。
復活を果たしたとはいえ、疲労困憊で右足首を酷く痛めている状態とあっては、良子も個人技だけでの突破は困難であり、連係で攻め込もうにも引かれているため効果的なパス回しも出来ず。
キープはしているものの、ただいたずらに後ろで回すだけの状態に陥っていた。
「あれえ、なあんにも出来なくなっちゃったねえ。さっきさあ、何様のつもりか知らないけど散々と偉そうなことをいってたけどさあ、そういうことはあ……この守備を破ってからいいな!」
津田文江は怒鳴り声を張り上げると、鬼のような形相のまま口元だけを歪めて高笑いをあげた。
良子は目を細めて敵を、津田文江を睨み付けた。だが次の瞬間には、はっと目を見開いて首をぶるぶる振るっていた。
顔を上げた。
いつもの柔らかな笑みが、良子の顔に戻っていた。
「みんな、練習でやった連係を思い出そう! まだまだ時間はある!」
笑顔のまま叫んだ。
鬼気迫るような色が、すっかりと抜け落ちていた。
少し前までの良子に、完全に戻っていた。
「よかったわあ。シャクがなんやえらく遠いとこいってしまったみたいで。良子だよな、いまいここにいるのほんまもんの良子だよな?」
双葉はほっと胸を撫で下ろしながらも、まだ不安なようで良子の頬を両手でむにんと引っ張った。それがなんの確認になるのかは分からないが。
「心配させてごめん。ボールの蹴り方を思い出して、ちょっと戸惑っていただけ。あたしはあたしだよ」
良子は、楽しげにくすっと笑った。
「ああ、やっぱりか。……やっぱり、戻ってたんやな。復活、しとったんやな。上手になっとるどころか、プレーが異次元すぎてびびったわ」
「そんなことよりも、大切なのはチームワーク。これはフットサルなんだから」
「分かっとる。よおし、いっくでええ!」
拳を握り張り切る双葉であったが、しかし守備的になった前橋森越は難攻不落を思わせるまさに鉄の城壁であった。
チームワークで攻めようとも、個人技のアクセントを加えて攻めようとも、まったく崩すことが出来なかった。
自陣に引いているFP三人のうち二人が、代表クラスの実力を持つ津田文江と久野琴絵であることを考えればそれも当然だろう。
パスを回してじわりじわりと攻め続けてチャンスを窺う佐原南であったが、チャンスといえるチャンスを作り出せないまま時間ばかりが過ぎていく。
だが、残り時間の少なさに良子たちが焦る以上に、前橋森越は気を抜くことの出来ないいつまでも続く重圧に気が焦り、精神が消耗しているようであった。
仕掛けてPA内に入ろうとする双葉を止めようとして、2番がどんとぶつかって転ばせてしまった。
審判の笛が鳴り、佐原南はFKを得た。
「決めろー、これ決めろよお、絶対決めろよお、死んでも決めろよおお決めろよお」
呪文のように繰り返しているのは武朽恵美子である。
FKのキッカーは良子だ。
双葉が倒された位置にボールをセットすると、そっとボールを踏み付けた。
前橋森越ゴール前には、キッカーである良子と佐原南ゴール前にいる柚葉以外の全員が集まって、肩を押し合うように審判の笛を待っている。そう、前橋森越は攻めに残さずすべて戻って守備についているのである。
これ以上リードを広げることが出来ずとも、失点だけは絶対に避けたいということだろう。
笛が鳴った。
良子は右腕を高く上げ、指を曲げて仲間に合図を送ると、助走をつけずそのままボールを蹴った。
前橋森越ゴール前の密集へと、低く速い浮き球を。
鈍台洋子がさっと身を引いたその胸の前をボールが通過し、がんと音がしてポストを直撃した。
キックミス?
それとも連係ミス?
いや、狙い通りであった。
ゴレイロは跳ね返りに反応しようとしたが、ボールが本来とは反対へ跳ね、慌て踏み止まろうとしてがくりよろけた。
良子がキックの際に、そうなるようボールにスピンをかけていたのだ。
跳ねたボールは、双葉の前に落ちた。
ここまでは良子の狙い通り。後は決めるだけだ。
だが、迷わずシュートモーションに入る双葉であるが、素早く反応した久野琴絵に一瞬にしてコースを塞がれてしまった。
双葉は瞬時に切り替えて、踵で後ろへ送る。
一瞬前まで誰もいなかったところに、洋子が待ち構えていた。
ひしめき合うほど密集している中だというのに、佐原南はこのように人とボールの連動する流れるようなフットサルを見せていた。
洋子は、躊躇なく右足を振り抜いた。
ネットの上へと突き刺さるかに見えたが、しかしゴレイロがなんとか反応して両手で跳ね上げた。
落下するボールを絶対に自分のものにしようと、双葉は2番と競り、跳躍した。だが気迫を込めようとも長身の2番には勝てず、頭で大きくクリアされてしまう。
佐原南は、この決定的なチャンスをものにすることが出来なかった。
いや……まだ、流れは切れていなかった。
「シャク!」
ハーフウェーラインを越えてゴレイロの柚葉が上がって来ており、クリアボールをトラップ、胸から落ちるボールを強く蹴り上げ低く速いボールを前橋森越陣地へと再び送ったのだ。
コーナーとゴールの中間辺りを目掛けて。
良子は、柚葉の狙いを瞬時に理解していた。ゴール前の密集からするすると抜け出して、飛んでくるボールを足を思い切り高く上げて背後、ゴール前へと蹴った。
その瞬間に踵を返し、良子の背中を追い掛けて走ってきた9番と擦れ違い、再び密集の中へと戻った。
良子が放り込んだボールは、洋子の胸に当たって落ちた。
洋子は小さくバウンドしたところを、爪先で救い上げて留美へと送った。
パス精度が悪く2番に奪われそうになったが、留美はなんとか身体をこじ入れボールを守ると双葉へと横パスを出した。
2番が双葉につられた。双葉を突破させまいと、全力で距離を詰め走り寄ろうとする。
双葉はぎりぎりまで2番を引き付けておいて、ボールを跨いだその踵で、後ろへと蹴った。
良子が、ボールを受けた。
柚葉の作戦が成功し、前橋森越ゴール前から二人を引き剥がすことが出来た。
まだ代表級の選手である津田文江と久野琴絵という一番厄介な二人が、ゴレイロとともにゴール前をかためているが、しかしこれ以上のチャンスを作ることは容易ではない。
良子はころりボールを撫でると、躊躇うことなく二人の間へと自らの身体を突っ込ませた。
ここで絶対に、決める!
そう心に叫びながら。
「いけーーーーっ!」
決意を読み取ったか、九頭柚葉が右腕突き上げ絶叫した。
「成層圏を越えて!」
芦野留美も腕を振り上げて、無我夢中で叫んでいた。良子に力を、念を、魂を送るために。
久野琴絵と津田文江が肩を寄せ、良子を食い止めようと立ち塞がった。
良子は構わず突っ込んだ。
「宇宙にまでえ!」
鈍台洋子が、声を裏返らせて絶叫した。
久野琴絵と津田文江、良子がぶつかり合い、ばちばちと激しい火花が散った。
「突き抜けろおおおお!」
高木双葉は、ぎゅっと握った右拳を正面へ突き出した。
四人の声が、魂が、良子の力になったのか、
良子は、ぐうっ、と二人を押し始めたのである。
二人は、形勢不利に信じられないといった表情を浮かべつつ踏ん張って全力で抵抗しようとする。超新星の爆発のような、凄まじいパワーを押し返そうとする。
「お前なんかにい……」
津田文江は、ぎりぎりと歯を食いしばり、崩れそうになる膝を支えた。
良子は二人の意地を逆手に取って、ふっと力を緩めた。
ぐらりと前へつんのめる二人の間を、ボールをちょんと浮かせ抜け出した。
ついに良子が、いや、成層圏同盟が、前橋森越の鉄壁を見事打ち破った瞬間であった。
落ちてくるボールをクリアしようとゴレイロが飛び出して突っ込んでくるが、良子は身体をぐんと加速させると足を伸ばして爪先でさらに蹴り上げた。
その良子の努力もむなしくボールはポストを掠めてラインを割……いや、割ろうかという寸前、双葉が雄叫びをあげながらボールへと突っ込んでいた。
身体ごと、ボールを押し込んだ。
ゴールネットが揺れた。
時間が止まった。
選手たち、そして観客席、誰も声を発する者がいなくなり、しんと静寂に包まれたのだ。
一秒であったのか十秒であったのか、不意にその静寂が解かれた。佐原南の部員たちが、どっと爆発したのである。ついに一点を返したことによる歓喜に。
観客席から大きな拍手が起きた。
双葉はしばし呆然とした表情であったが、ベンチでの騒ぎように、段々と笑みが浮かんできた。突然うおおおおっと叫ぶと、両手を天へ突き上げた。
「ワラ、ナイスゴール!」
良子は、双葉に近寄り背中をばんと強く叩くと、肩を組み、嬉しそうに笑った。
「なあにゆうとるん。ほとんどシャクの……いや、これは全員でもぎ取った得点やな。うちら五人と、ベンチのみんな。……でもま、最後にしっかり決めたのは、うちやけどな」
二人は声を出し楽しげに笑ったが、すぐさま凄まじい怒声に掻き消された。
「ふざけんなあ! なにあんな奴にやられてんだよ! やる気がないならいますぐここから……」
津田文江は双葉を指差し、仲間たちを怒鳴り付け、途中でバツ悪そうに口を閉ざした。自分も、あんな奴にやられた一人であることに気が付いたのだろう。
「一点くらいで……調子に乗んなよ……」
津田文江は、得点を演出した良子を恐ろしい表情で睨み付けた。
良子は目を逸らすことなく見詰め返す。
唇を引き攣らせながら視線を逸らしたのは、津田文江の方であった。
3
どんどんどんどん!
柚葉の祖父が掻き鳴らす太鼓の音が響いている。
三年生たちに会場外へ叩き出されたはずであるが、いつの間かこっそり戻ってきていたのだ。
佐原南の部員たちはピッチ上での激戦に息もつけないほどに興奮しており、誰もそのことにまったく気が付いていなかった。
気付いていないどころか、乱れ打たれる太鼓に合わせて大音声と拍手でエールを送ってるほどであった。
現在、1-2。一点を追うのが佐原南だ。
リードを死守しようと徹底的に守りを固める前橋森越に対して、佐原南はボールを繋いで圧倒的に攻めている。
残り時間が三分しかないことを考えると、佐原南の方にこそ焦りが出てプレーが雑になっても不思議はないところであるが、実際に焦って雑になっているのは前橋森越の方であった。
前橋森越にはもう連係もなにもなく、神経を擦り減らしながら個人の頑張りと運でなんとか死守を続けている状態であった。
FKの攻防かと見間違えるほどに、前橋森越ゴール前には常に敵味方がぎちぎちと密集していた。
「ワラ!」
良子は攻撃に変化をつけようと、相手を釣り出すためマイナスのボールを出した。
名前を叫んだだけで、良子の意思は双葉に伝わっていた。双葉はさっと密集から飛び出して、良子からのボールを受けた。
一人、釣れた。
津田文江であった。ミドルシュートを狙うふりをする双葉へと、全力で突っ込んでいく。
ただ闇雲に飛び出したというだけでなく、ここでボールを奪えば前橋森越に絶対的なチャンスが来る、ということだろう。誰もいないスペースを駆け上がってもいいし、そこでキープをすれば、時間の無い佐原南の方にこそ焦りが出て、ファールだって誘いやすくなるだろう。
確かにその通りで、だから佐原南としては、絶対にここで奪われてはいけない。
双葉も充分に理解していたはずだ。
だが、津田文江を引っ張り出すほど前橋森越ゴールが手薄になって佐原南のチャンスが増える、と、そう考えたのだろうか。
引き付け過ぎてしまったのである。
振り上げた足を戻し、津田文江に対して挑発するかのような視線を送ると、こんとボールを横へ蹴って紙一重でかわした。
次の瞬間、双葉の身体はくるんと半回転して倒れていた。
足を引っ掛けられたのだ。
笛が鳴った。
津田文江のファールだ。
故意でなくとも危険なプレーであるが、カードは出なかった。
そんなことより、双葉ちゃんがなんともなさそうでよかった。
と、良子は胸を撫で下ろした。
それと、引きつけ過ぎて危なかったけど、奪われなくてよかった。
「ワラ、立てる?」
良子は尋ねた。
「ああ、なんてことあらへん」
双葉はそういいながらも、ごろんと転がり大の字になり、大きく胸を上下させた。
フットサルがプレイングタイム制であることを利用して、少しでも呼吸を回復させよう、ということだろう。
「早く、早く立ちなよ!」
津田文江は、双葉の足元に立って、動作を急かした。
時計が止まっていることなど関係なく、早く試合を進めてとっとと試合を終わらせてしまいたいのだろう。
双葉は天井を見上げていたが、面倒くさそうに首を動かして津田文江へと視線を向けた。
「自分、良子のことが、ずっと怖かったんやろ。まあおのれが一番って思ってれば、そうもなるか。せやから、邪魔や思うて潰そうとした。小、中、そして今もや」
「そうだとして、それのなにが悪い?」
津田文江は追い詰められた表情ながら、精一杯の強がりを作り、即答した。
「正々堂々なら別にええわ。自分、フットサル関係ないところで卑劣なやり方で追い込んどるだけやん。それでわたし一番や悦に入っとるなんて、ははあ、名門中の
「雑魚に分かってもらう必要はないんだよ」
「はん、分かりたくもないな」
まだ呼吸は全然回復していないが、いつまでも休んではいられない。双葉は、ゆっくりと上半身を起こした。
「大丈夫?」
良子が近寄ると、津田文江は舌打ちし、つまらなそうに二人からぷいと顔をそむけた。
「なんともない。ちょっと休んどっただけや。ごめんな。うちアイドル枠での選出やから、体力ないんや」
捻りのない冗談をいうと、微笑んだ。
「いいよ、無事なら。立てないのかと思って心配しちゃった」
良子は手を伸ばし、双葉を引っ張り起こした。
4
佐原南のFKだ。
キッカーの良子は、双葉の倒されたところへゆっくりとボールを置いた。
前橋森越ゴールに近いため、ゴール前はまた敵味方ごちゃごちゃと入り乱れる状態になった。前橋森越側が攻撃に比重を割かずに全員で守らせているため、単純に実人数が多いのだ。
ぴっ、と短く笛が鳴った。
良子は腕を上げて味方に合図を出すと、ゆっくりとボールへ近づきゴール前へ放り込むように蹴り上げた。その瞬間ダッシュして、自らもボールの行く先を追って走り出した。
洋子が胸で受け、落ちるボールをダイレクトに処理しようとするが失敗、転がしてしまい9番に奪われそうになるが、なんとか先に身体を入れてキープ。
「ドン、後ろへ!」
留美の指示に、洋子はくるり反転してパス。
洋子はその瞬間、しまった、という表情になった。転がるボールの先にいたのは津田文江だったのである。
だが、良子がさっと間に入り込んでボールを受けた。良子が状況を読んで上手に反応してくれるはずだ、と信じきった上での留美の指示だったのだろう。
ボールを受けた良子であるが、次の瞬間どんと背中に激しい衝撃を受けた。津田文江に身体を当てられたのだ。
だが、びくとも揺れることはなかった。
良子は突き飛ばされることを想定し、重心を低くしていたのだ。
なおも津田文江は身体をぐいぐい押し当て、審判に見えないよう良子の腕を掴みながら、足を突き入れボールを奪おうとする。
ラフプレーの応酬であったが、良子は倒されも奪われもせず、焦ることも怒ることもなくボールを保持し続けた。
すっかりと自意識が暴走してしてしまっている津田文江であるが、自分だって、こうなっていて不思議でもなんでもなかったかも知れないのだ。そう思うと、良子はあまり彼女を憎むことは出来なかった。
特に小学生の頃などは、神童などと呼ばれ完全に天狗になっていたし。
そんなこと決して思っていない、と常々自分を戒めていたけれど、わざわざ戒めなければならないということは、やはりそう思っていたということなのだろう。
でも天狗は、その後あっさりと鼻をへし折られることとなったけれど。
天から、ボールを蹴る能力を取り上げられたのだ。
四年間もの長い間。
でもだからこそ、上手にボールを蹴れない人の気持ちが分かる。
人はそれぞれなんだということが分かる。
フットサルはチームスポーツ。
自分一人じゃあ成り立たない。
簡単なことなのに気付いていなかった、気付こうともしなかった。それを、この四年間は教えてくれたんだ。
だから、この四年間は決して無駄な日々なんかじゃなかったんだ。
だから、さっきの杉戸商業戦だって、わたしとドンちゃんは最高のコンビネーションを見せることが出来んだ。
って、ちょっとこれは上から目線だろうか。
でもわたし、今日の朝までずっと怯えていたんだ。何年も何年も。ちょっとくらい、調子に乗ってもいいだろう。
とはいえ、ドンちゃんほんと筋がいいから、この試合の中だけでもどんどん成長してるのが分かる。頑張らないと、わたし絶対に抜かれてしまう。
負けないけどね。わたしだって、追い抜かれないよう頑張るから。
一緒に頑張ろう。
一緒に、新しい佐原南を作っていこう。
他のみんなと、一緒に。
でもそれは後のことだ。
まずはこの試合を、全力で勝ちに行く。
ピッチ内外の、仲間たちみんなの力を合わせて。
全力で。
「なに楽しそうな顔してんだああ!」
津田文江が怒鳴り声を張り上げ、空気をばりばり引き裂き掻き分け良子へと突っ込んできた。
どす黒いオーラを全身にまとい揺らめかせ、ボールではなく明らかに良子へとスライディングを仕掛けた。
これで良子が倒れたならば、間違いなく退場だ。
疲労で倒れそうなくせに楽しげな笑みを浮かべている良子に、脳の血管が切れたか脳の一部が気化したのだろう。退場覚悟の上でというよりも、身体が脊髄反射的に動いてしまったのだろう。
だが、覚醒した良子には涼風のごとき攻撃でしかなかった。ボールと自身とを浮かせると、軽々とスライディングをやり過ごしていた。
わざと攻撃を食らっていれば津田先輩を退場に追い込むことも出来ただろうが、そんな勝利になんの意味もない。
あくまで正々堂々、それが佐原南、それが成層圏同盟だ。
それに、
津田先輩には、わたしたちの楽しむフットサルを、同じピッチに立って間近で見て欲しかったし。
跳躍して宙に浮いている一瞬のうちに、そんなことを考えながらちょこんとさらにボールを蹴り上げていた。
それは留美へのパスであった。
このような体勢で蹴ったとは信じられないほどの、精度の高い、優しい、そして成層圏同盟だからこそ分かる得点までの設計図がしっかりと書き込まれた、パスであった。
留美は双葉にしっかりマークがついていることと、柚葉が自陣を飛び出して全力で駆け上がって来ていることに気が付くと、なるほど、と良子のパスに得心のいった表情。瞬時に設計図を理解すると、ボールを受け、すぐさま自陣へ戻すように柚葉へとパスを出した。
「タコ焼き!」
柚葉は走りながら、そのまま前線へと折り返す。
「誰がタコや!」
双葉は一瞬の隙にマークを外すと、綺麗なV字を描いて戻ってきたボールを受けた。
受けた瞬間、くるり反転してシュート!の、そぶりを見せただけで、すぐさま真横へと転がした。
全力で走り込んだ柚葉が受けて、守備陣を突き抜けた。
ゴレイロとゴレイロの一対一という珍しいシーンであるが、柚葉は冷静に、素早く丁寧にボールを流し込もうと右足内側でボールを叩いた。
決定的であったが、ゴレイロが伸ばした足に引っ掛かり、ボールは跳ね上がった。
洋子がすかさず拾うが、ゴレイロに密着されそうになり慌てて背を向けた。
入れ代わりに、良子が洋子の脇を抜け飛び出した。洋子から渡されたボールを持って。
ゴール前で続く重圧に耐え切れなくなったか、ゴール前に張り付いていた2番が、良子へと走り出した。
良子がわざと大きなボールタッチをして、誘ったのだ。
飛び込んでくる2番を、すっと一瞬にしてかわす良子。
だが次の瞬間、津田文江が猛獣をも一蹴りに仕留めそうなほどの殺意を込め、槍のように足を突き出してきた。
もしもまともに受けていたならば良子の膝は蹴り砕かれて、残りのフットサル人生をリタイアすることになっていたかも知れない。そうなれば津田文江も、フットサル選手として公式戦に出る資格を永遠に剥奪されていたかも知れない。
だが覚醒した良子にそのような攻撃は通用せず、ボールをコントロールしながらも最低限の動きで攻撃をかわすと、膝を貫かれ砕かれたかにも見える残像の中を鮮やかに突破。
前橋森越ゴレイロの立ち位置を確認した良子は、迷わず横パスを出す。
待ち構えている双葉へと。
ゴレイロが、双葉のシュートコースを塞ぐべく真横へ飛んだ。
だが双葉が次に選択した行動は、スルーであった。
倒れ込みながらゴレイロが伸ばした手の指先を、ボールはかすめて転がる。その転がる先へと飛び込んだ留美が、右足一閃豪快に蹴り込んだ。
ボールがゴールネットに突き刺さった。
前橋森越の選手たちは全員、表情が硬直していた。
信じられない、といった表情で。
ここまで攻め込まれていた以上は当然起こりうることなのではあろうが、それでもやはり信じられないといった表情で。
留美も、佐原南の他の選手たちも、やはり信じられないといった表情で呆然とゴールの中のボールを見つめていた。
得点が動いたのだといち早く実感したのは、決めた本人である留美ではなく、瞬間を間近で見ていた双葉であった。
ぎゅっと握った拳を、全身を、ぶるぶると振るわせると、
「同点や!」
勢いよくその両拳を天へ突き上げた。
それを合図に、佐原南のベンチがどっと爆発した。
中でも誰より目立つ大声が一人、
「うわああああああ! うわああああああ!」
なんと、
「追い付いたあああ。マコおおお、追い付いたよおお。よかったあああ。よかったよおお」
あのいつも鉄仮面のような顔をぐしゃぐしゃに崩して、情けない泣き顔で副主将の
「そうだな。ほんとよかった。それよりいいのか? あたししか知らない蕾のそういうところをみんなに見せちゃって」
「だって……だって……」
蕾は眼鏡を取り、幼児のようなあどけない顔を見せると、ずっと鼻をすすった。
結局込み上げるものを堪えることが出来なかったのか、天井を見上げるとうええーんと声を上げながらボロボロ涙をこぼした。
ピッチの中からそんな光景を見ながら、良子は思わず微笑んでいた。
主将、やっぱり緊張していたんだ。
ただ意地になって、自信があるふりをしていただけなんだ。どっしり構えているふりをしていただけなんだ。
それにしても、主将にあんな表情があったなんてなあ。
というか、あれが本当の主将なんだろうな。幼馴染のアラジン先輩がいう通り。
本当に、不器用者の集まりだよな。
佐原南フットサル部って。
入ってよかった、わたし。
みんなと一緒に、成長することが出来てよかった。
大好きな、仲間たちと一緒に。
さあ、残り時間あと二分。
絶対に、勝つぞお!
もうさすがに恥ずかしくて叫べないけど、心の中だけでもどっかあーーんだ。
5
「あたしのせいじゃない! あたしは絶対に悪くない! みんな、なにあたしを責めるような目で見てんだよ!」
「みんながしっかり守らないから! あたしは点を取るのが役割で、守るのはみんなでしょ! だから、だからあたしは悪くなんかな……」
「じゃあ、点を取ってよ! 役割を果たして、点を取ってよ! あの子にびびってないでさあ」
9番、
これまでの横暴の数々に、すっかり頭に来ていたということなのだろうが、だが、これは触れてはいけない、発してはいけない言葉だった。
「そりゃフミは凄い実力あるけどさ、そもそもフットサルってのは全員守備全員攻……」
言葉を続ける杉田理香に、津田文江は怪鳥のような甲高い奇声を張り上げ、両腕を振り上げ、肩に掴み掛かったのである。
前へ進み続けて押し倒すと、躊躇なく馬乗りになり、杉田理香の襟首を本気で締め上げた。
「誰があ! 誰がびびってるって? 誰が? 誰が? ねえ、誰が? リカ、適当なこといってんなよ!」
「びびってんでしょうが! 向こうの7番の子となにがあったかなんて知らないけど、持ち込まないでよ! 前々から思ってたけど、あんたの態度ねちねちしてて、見ててイライラするんだよ! よその学校の子へのことだろうとさ。でも逆にやり込められてびびってんじゃザマあない。バチが当たったんじゃない? 自分中心で地球が回ってると思ってんじゃねーよ、バーカ!」
杉田理香は、がくがくと頭部を激しく揺らされながらも、溜まりに溜まった言葉を吐き続けた。
ぎゃああああああ、と津田文江は断末魔のような絶叫を放ち、ぎゅーっと掴んだ首を絞めた。
「ちょっと、いい加減にして下さい! 味方同士でもカード出しますよ!」
あとほんの僅かでも審判が話し掛けるのが遅れていたら、きっとカードどころでは済まなかっただろう。
警察を呼ぶような事態に発展していたかも知れない。
視界がほぼ暗黒に染まり切っていた津田文江は、ぎりぎりのところで我に返って締め上げていた手を解いた。杉田理科は、ごほごほと咳き込みながら立ち上がると津田文江を睨み付けた。
津田文江の行為であるが、明らかな暴力行為ではあったが、仲間に対してのものであったため今回はカードは出なかった。おそらく審判にもこのような行為を裁いた経験がなく、退場させてしまってよいものか自分で判断したくなかったのだろう。
「なに笑ってんだよ!」
津田文江は、いまいましい佐原南の選手たちへ毒づいた。
「別にお前のことなんか、笑ってへんわ」
双葉は吐き捨てた。
良子がそのやりとりを借りて、言葉を続ける。
「もしそう見えるなら、フットサルの楽しさや、信頼しあった仲間とプレーする気持ち良さに、幸せな気持ちになっているというだけです。……津田先輩にも分かって欲しい。勝ち負けだけじゃないですよ、フットサルって」
「勝ち負け以外になんにもあるかバーカ! なんでお前に偉そうなこといわれなきゃならないんだよ! 何年生だ? お前何年生だあ? なに偉そうにしてんだあ、石巻から逃げたくせに!」
津田文江は、今度は良子の首を絞めようとでも思ったのか、両手を突き出しぐいと迫った。
「もうやめな、フミ! ほら、いい子だから、よしよし」
主将の
良子は、通じない自分の思いに苦笑を浮かべた。
今は、どうしようもない。
だけどいつか、津田先輩の心にも芽をまいてやる。
いつか、遠い未来かも知れないけど、胸の奥に笑顔の花が咲くように。
フットサルは楽しいものなんだと思えるように。
……わたしの夢、一つ見付かった。
これまで漠然としていて、ホームルームの発表でもうやむやにごまかしていたけど、いま、はっきりした。
フットサルを通じて、誰とも仲良くなること。
この四年間が、悪夢なんかじゃなくむしろ充実したものであったと肯定するためにも。
その夢のためにも、チームとして成り立っていない現在の前橋森越に負けるわけにはいかない。
チームプレーで戦い、楽しんで、勝つ。
良子は疲労に肩を大きく上下させながら、ぐるり身体と首を回して、仲間一人一人と微笑みを合わせていった。
合わせるたび、既に体力も限界に近い状態であった良子の肉体に、充分過ぎるほどの力が充填されていった。
その心地よさに決意を固め、強く拳を握った瞬間、前橋森越ボールで試合が再開された。
6
9番は前へこんと転がした瞬間、足裏で撫でるように引き戻し後ろへ転がした。
その9番の陰から、
津田文江はドリブルを止め、二人は向き合った。
さすがに出っ放しということもあり津田文江も相当に疲労しているようであるが、端から見て良子の方が遥かに酷かった。
右足首の怪我を庇いながらも全力で走り続けていたため、全身に過度な負荷がかかっていたためだ。
壊れかけた機械のように、いたるところボロボロといってよかった。
その壊れている身体を動かしているのは気力。
みんなとフットサルをプレー出来るという楽しさが、その気力を生み出していた。
良子は、針の穴ほどの隙を見逃さず、飛び込んだ。
どんなに疲労していようとも良子の能力は桁外れに高く、二人の身体が交差した次の瞬間には、ボールを奪い取って抜けていた。
奪ったはいいが、視界が霞んだか意識を失いかけたか、奪ったボールに乗り上げてしまった。
つるん、と転んで床に身体を打ち付けられる良子の不様に、津田文江は声を立てて笑った。
だが、次の瞬間、津田文江の目が驚愕に見開かれていた。
良子は転んでなどおらず、それどころかボールは良子の正面に立つ9番の遥か頭上にあったのである。
ボールに乗り上げてしまったのではなく、上から踏み付ける回転を利用して、正面から向き会っていて分かるはずもない微少な動作で背後からボールを高く打ち上げていたのだ。
どこにボールが消えたのか分からずに9番はきょろきょろと首を回す。味方の声に慌て振り向き、良子の背中を追い掛け始めたその瞬間、
「邪魔っ!」
味方であるはずの津田文江の怒鳴り声。全力疾走の彼女に背中を突き飛ばされて、9番は足をもつれさせて転倒した。
津田文江は長い足を回転させて、あっという間に良子に追い付き肩を並べた。
どん、と肩をぶつけた。
ぐらつきよろける良子であったが、既にその足元にボールはなかった。
前を走る高木双葉が、良子からのパスを受けていた。
「シャクに負けてられへん!」
叫び、2番をかわした双葉は思い切り右足を振り抜いた。
その気迫に押されながらもゴレイロが必死にブロックし、右足でクリアする。だが慌ててしまったか蹴り損ね、軽い山を描くのみだった。
洋子が走りながら楽々と胸で受けたが、足で落ち着かせようとするところタッチミスをして転がしてしまい、久野琴絵に奪われる。
久野琴絵は、すぐさまパス。
最前線で津田文江が走りながら受ける。
追い縋る留美をなんとか引き離すと、ゴール前まで持ち込んで右足を振り抜いた。
疲労や焦りがあってもなお精度抜群威力抜群のシュートであったが、ゴレイロの柚葉は反応し、かろうじて左腕を当てて弾いた。
転がるボールに津田文江が野獣のような雄叫びを上げて突っ込むが、間一髪、柚葉が先に飛び付いて身体を丸め抱え込んだ。
ファインセーブに佐原南ベンチがどっと沸き、
どんどんどんどん!
柚葉の祖父が叩く太鼓の音が響いた。
「みんながこんなに頑張っているんだ。あたしだって、少しはいいとこ見せなきゃなあ」
柚葉は立ち上がりながら、これまで無数のピンチを救ってきたというのに謙遜も甚だしい言葉を吐いた。
だけどその顔には、いつもの通りにふてぶてしい、不敵な笑みが浮かんでいた。
「やってやるぜ!」
右手に持ったボールを思い切り叩き付けてバウンドを踏み付けると、こんと前へ蹴り、そして走り出した。
その行動に驚かない者は一人もいなかっただろう。
同点であるというのに、ゴレイロがゴール前をからっぽにしてボールを運んでぐいぐいと上がって行くのだから。
セオリーを無視した不意の攻め上がりを目の当たりにして、前橋森越の選手たちからは明らかな動揺が感じられた。
いち早く立ち返った久野琴絵が、すっと周囲に視線を走らせると柚葉へ突っ込んで行った。
柚葉は引きつけかわそうとするが、本職FPではないということと、相手が世代別代表に選ばれた経験のある久野琴絵ということもあり、奪い取られてしまう。
「ああくそ!」
舌打ちする柚葉。
ここから精度の高いシュートを打たれていたら柚葉のプレーは単なる無謀な冒険に終わり、試合も決定してしまうところであったが、まさにその精度の高いシュートが打たれようとする寸前、鈍台洋子が横から駆け抜けてボールを奪い返していた。
「助かった、ドンちゃん! ありがとう!」
礼をいう柚葉へ洋子から、どういたしましてのボールが届いた。
結果的ワンツー突破で、柚葉は再び走り出す。
正面から向かってくる9番を充分に引き付けると、並走している洋子を走らせるパスを出した。
洋子は体型からは信じられないくらいに足の回転を上げて、ボールを受け取った。向かってくる2番に気付くと、ドリブルを止めて視線をすっと動かす。
「ドン!」
背後からの留美の声に反応し、洋子は横へボールを転がした。
2番は留美が上がって来ていることに気付いてはいたようであるが、全力疾走のまま微塵も速度を落とすことなくパスを受けて駆け抜けて行くとあってはただ唖然とした表情で見送ることしか出来なかった。
留美から、再び柚葉へ。
この流れこのワンプレーにおけるキーマンが誰であるかを理解したか、久野琴絵はなりふり構わず全力で駆け戻って、九頭柚葉へと食らい付き、肩を並べ、肩を激しくぶつけた。
だが柚葉はびくともしない。ひょろひょろとした外観からは想像つかない体幹の強さを見せ、反対に久野琴絵をぐらつかせた。
力技で作り出したその一瞬の隙を突いてパスを出す。
双葉とのワンツーだ。
久野琴絵は、遠ざかる柚葉の背中に翻弄された恥辱を感じたのか、再び全力で追い上げると癇癪起こして積木を崩す幼児のように柚葉の身体に手を掛けて真横へと引き倒してしまった。
レッドカードが出されてもおかしくないプレーであったが、笛は吹かれなかった。
審判は佐原南のアドバンテージを見ていたのだ。
何故ならば、倒されながらも柚葉は足を大きく突き出してボールを跳ね上げ、それが味方に繋がっていたからである。
双葉の足元へ、すとんとボールが落ちた。
前橋森越ゴール前、残るはゴレイロ一人だけだ。
打たせまいと津田文江が身体を突っ込ませてきたが、双葉が短いモーションで右足を振り抜く方が早かった。
ボールはゴレイロの足先をかすめ、ゴールネットに突き刺さった。
「逆転や!」
双葉は右の拳で自分の左胸を叩くと、勢いよく正面へと突き出した。
成層圏同盟のポーズ。
みんなで取った得点だ、ということだろう。
どんどんどん。
太鼓の音とともに、佐原南ベンチがどっと沸いた。
「よく決めたあ、双葉あ! 信じてたあ!」
柚葉は両腕振り上げ双葉へと飛び掛かり、抱き着いた。力の限り抱きしめた。
双葉も腕を回し、抱きしめ返した。
「柚葉のパスが、よかったんや」
双葉はずっと鼻をすすった。
目に、じわり涙が浮かんでいた。
「おい、なに泣いてんだよ双葉。恥ずかしいなあ」
苦笑する柚葉。
「だって、だって……こんなええ奴おらん、こんなええ奴おらんのに、なんでこれまで嫌ってたんやろなあって。ドンちゃんケチやなあ、こんなん独り占めしとったんかあ」
また、ずっと鼻をすすった。
「ね、最高の友達でしょ」
洋子は佐原南が逆転したことと、親友を褒められた嬉しさに、細い目をさらに細めて恥ずかしそうに唇を歪めた。
7
みなのやりとりを、嬉しそうな顔を、
彼女もまた内心では感極まっており、いつ声をたてて泣き出してしまってもおかしくない精神状態だった。
ああ、良かった。
間違っていなかったんだ。
そう心の中で呟いていた。
自分の辿ってきた、ここまでの長い道程に対して。
滲む涙を指先で拭うと、きっと顔を上げた。
両の拳を、硬く握った。
人生はまだまだこれから。生きていれば、もっともっと辛いことだってあるのだろう。
でも、いや、だからこそ思う。
いつも心に太陽を、と。
この厳しい試合をみんなで戦い抜いて、良子は強くそう感じていた。
もしもなにかがあった時、もしも一人きりになった時、胸に抱えているその小さな太陽が、心の根底を照らし導く一条の光となるのだから。大丈夫、と振り返ることの出来る場所となるのだから。
そして、同じように苦しんでいる人を明るく照らし、笑顔にしてあげることだって出来るのだから。
そんな太陽を、わたしは持ちたい。持ち続けたい。
不意に笛の音が響き、良子は足を止めた。
彼女は
残り時間二十秒ほどではあるが、
一点返して追い付きさえすれば延長戦に持ち込める、と前橋森越はガムシャラな勢いを見せようとしたものの、個々がバラバラで一人少ないとあっては、名門佐原南の敵ではなかった。
ハーフウェーラインを越えたところで、留美は前橋森越ゴール前へと大きく蹴り込んだ。
良子は走りながら、後方からの飛んでくるボールに上手く反応してジャンピングボレー。
ゴールネットが揺れて佐原南が4-2と突き放した瞬間、試合終了を告げる笛が鳴った。
最大収容人数千五百人の観客席はその四分の一も埋まっていないというのに、まるで超満員であるかのような拍手と歓声の大爆発に包まれた。
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