第十六章 新成層圏同盟  ―― 対前橋森越戦・その4 ――

     1

 暴風雨。

 現在の状況を簡単に形容するならば、このような言葉が適切であろうか。

 そう、佐原南は突風吹きすさぶ暗闇の中で、大きな雨粒に全身を激しく打たれ続けていた。


 これはもちろん佐原南の立場としての形容であり、前橋森越の側としてはこれほどすっきり快晴な気分はかつてなかったことだろう。

 部の歴史において佐原南に勝利したことが一度もないばかりか一得点をあげたことすらなかったというのに、この試合では前半戦だけで二得点、決定機の数はその数倍に及び、守備はどうかといえば相手の攻撃を完璧に押さえ込んで、ここまで圧倒し続けているのだから。


 佐原南としては、ひたすらに耐えるしかなかった。

 耐え続ける佐原南の姿に一番もどかしい思いでいるのは、おそらく二年生と三年生であろう。

 この試合には誰一人として選手登録されていないため、外から指をくわえて見ていることしか出来ないからだ。


 このままタイムアップの笛が鳴ったら、一度もピッチに立つことのないまま自分たちの大会は終了してしまう。

 全国大会優勝に一番近い距離にいるといわれる強豪校が、県の予選大会で。


「あーーっ!」


 とくまるのぶが、悲鳴のような叫び声を発した。

 次の瞬間、がほっとと安堵のため息をついた。


 しんどうりようがトラップにもたついたところを掻っ攫われ、失点しても不思議のない大ピンチを迎えたが、あしがなんとか外へ蹴り出して難を逃れたのだ。


「うわっ!」


 また、徳丸信子が叫んだ。

 ほっ、と多田ロカが安堵の息。


 後半戦が開始してからまだ一分と経っていないというのに、このやりとりももう四回目である。

 前橋森越のキックインをたかふたが奪って良子へとパスを出したのだが、しかしまた良子がトラップをミスして相手に渡してしまったのだ。


 良子は、完全に狙われていた。

 相手の作戦、といえるのかどうか。どこが対戦相手であろうとも、息をするがごとく当然に狙うだろう。ただ頑張って走っているというだけで、初心者なみに足元がおぼつかない選手が一人いるとあっては。

 存在がまるで計算出来ないという点において、退場で一人少なかった時より酷いとさえいえた。


「むあーーーーー!」

「ふう」


 一分六秒。

 五回目だ。


 今度は良子ではなく反対サイドのどんだいようが、単に遅らせればよいところを簡単に相手へ飛び込んでかわされてしまったのだ。


 フォローへ飛び出すフィクソの芦野留美であるが、前橋森越としてはその瞬間を狙っていたようで、洋子を背負いながらも悠々と浮き球を佐原南ゴール前へ放り込まれてしまう。


 ゴール前は良子がスライドして留美の穴を埋めていたが、津田文江に肩を当てられ簡単にバランスを崩しよろけてしまった。前橋森越は、フィクソを釣り出すことで誰がその位置にスライドしてくるか分かっていて、ただ作業を実行したということだろう。


 津田文江は、背後からのハイボール振り返って胸で受けると、足元へと落としながら身体を反転させ、ボレーシュートを放った。

 流れるように美しい仕草であるばかりでなく、足の先はしっかりボールの芯を叩いており、弾丸のように佐原南ゴールを襲った。

 ゴールネットが揺れても不思議ではなかったが、ボールはゴール直前で角度を変え、ラインを割った。ゴレイロのゆずが、かろうじて足で触れてCKに逃れたのだ。


「うっほおおおお、やられたかと思ったたあああ!」


 柚葉は叫び、ほっと胸を撫で下ろした。


「ごめんなさい」


 良子は謝った。

 無抵抗で簡単にシュートを打たせてしまったこと、一連の流れの発端となったトラップミスを。


「え、ああ、気にしない気にしない。こんなんいくらでも防いでやるから」


 柚葉は強がり、大袈裟な動きでガッツポーズを作った。

 良子の能力を考えれば仕方ないことだし、きつい言葉を投げて自信を失わせてもそれこそ仕方がない。というところだろう。


 誰かが、ぷっと吹き出していた。

 もう説明するまでもないかも知れないが、それは津田文江であった。


「じゃあ防いでもらおうかなあ」


 お腹をおさえ、爆笑を堪えるのが大変だといった表情だ。


「はいそうしますよお。……もう一点もやんねえからな! 絶対に、逆転勝ちしてやるぜ!」


 柚葉は吐き捨てるようにそういうと、津田文江を睨みつけた。

 試合開始時から、いや開始する前から尊大で挑発的な態度を取り続けていた津田文江であるが、柚葉個人に向けられたものではなかったため、ぐっとこらえて黙っていたのだろう。

 いまのは自分に向けての嘲笑であったため、ささやかながらの反撃をしたのだ。


「うん、期待してる。少しは楽しませてよ。なんかあからさまに手抜きされてるみたいで、こんなんで名高い強豪校に勝っても嬉しくないどころか、むしろこっちの価値が下がるから」


 津田文江は、柚葉の挑発にまるで顔色を変化させることはなく、反対に挑発的な言葉を吐いていやらしい笑みを浮かべた。


 代わりに、というわけではないが新堂良子の顔が、みるみるうちに青ざめていた。

 身体が、ぶるぶると震えていた。

 遠目からでも分かるくらい、はっきりと。


 別に、柚葉の挑発によって前橋森越の猛攻が激しくなることを恐れたのではない。

 むしろ良子の心は、過去に飛んでいた。


 津田文江の自分への風当たりが悪化することを勝手に想像して、そこから地獄の日々であった中学時代を思い出してしまっていたのだ。


 棺桶に生きたまま閉じ込められているかのような息苦しさを覚え、喉元に手を当てた。

 でも、いくら大きく呼吸をしようともまるで酸素が入ってこない。

 呼吸の仕方を忘れてしまっているのか、それとも呼吸は出来ているのに心が麻痺して感じていないのか、分からなかった。


 どっちでもいい、とさえ思い始めていた。

 このまま倒れてしまって、気が付けばすべてが終っているといい。

 いや、むしろこのまま闇に沈んで永遠に意識が戻らなくともよいのではないか。

 だって、それで楽になれるのだから。


 そんな自己破壊的な気持ちに捉われたまま、なにげなく仲間たちの姿を見回した。


「ワラ、フォロー! いいよドン、遅らせて……奪え!」


 芦野留美の叫び声。


 笑んでいるような表情ながらも必死に息を切らせ汗を飛ばし、ボールに食らいつく鈍台洋子。


 高木双葉はパスを受け、くるり反転して突破を図る。挟み込まれながらも無理して突き抜けようとするが、伸びた足に引っ掛かって転んでしまう。


「ドン、下がれ! シャクも! シャク!」


 再び留美の怒声にも似た叫び。


 彼女たちから感じられるのは、凄まじいまでの気迫、熱気であった。


 良子の全身を覆い尽くそうとしていた氷が、その熱気に一瞬にして溶け砕け散っていた。


 ほんとバカだ、わたし。

 どうしようもないくらい。

 ちょっと見回して、仲間たちの声を聞けばよかっただけなのに。

 なにやってんだか、まったく。


 良子は、自らの平手で両の頬を思い切り打った。

 走り出した。

 吠えるような絶叫をしながら、ボールを持つ津田文江へと向かって、全力で。


 やるぞ!

 身体が朽ちようとも、全力で駆けて、駆けて、この勝負を思いっきり楽しんでやるんだ。


 これまで、わたしは甘え過ぎていた。

 中学時代など、苦しんでいるふりをしているだけで、戦わなかった。戦おうとすらしていなかった。きっと、すべてを他人のせいにしてしまっていたんだ。


 失ってしまった多くのもの、そのすべてを取り戻すことは出来ないかも知れない。

 でも、

 だからといってここで立ち止まっていたら、前に進まなかったら、一生後悔する。


 って、格好つけたこといっているな、わたし。

 きっと誰よりも弱くてちっぽけな、どうしようもない存在のくせに。

 今日だって、いつまでもいつまでもうじうじと悩んでしまっている。

 さっぱりした表情で顔を上げたつもりでも、いつの間にかどんよりした視線を地面へと落としている。


 正直、もう自分の心の強さには自信はない。この試合中にも、あと何回心折れることか。


 でもわたしには、信頼出来る仲間がいる。

 凍り付いた心を、何度だって溶かしてくれる。

 暗闇でもがいているところへ、光を照らしてくれる。


 そんな素敵な仲間がいるということには、絶対の自信がある。

 だからわたしは、戦える。


 自分のために。

 仲間のために。


 身体朽ちようとも、走ることが出来る。

 まだ、わたしは、わたしたちは、負けていない。


     2

 しんどうりようは足の回転を加速させ、完全に突破を許したと思われたふみへと追い付き、追い越し、前に立ち塞がった。


 津田文江はドリブルを止めた。

 二人は向き合った。

 良子は必死の表情、対する津田文江は小馬鹿にするような笑みを浮かべている。


 先に動いたのは、津田文江であった。

 ころ、とボールを撫でた瞬間、一気にトップギアに入り抜きにかかったのだ。


 良子が反応を見せた瞬間、津田文江は電光石火の早業で切り返していた。


 目や、脳では動きは追えている。良子は踏ん張って、切り返しに対応しようと動いた。

 その瞬間、足首にヘラをねじ込まれこじくられたかのような激痛を感じて苦痛の声を漏らし顔を激しく歪めた。


 第一試合で負傷したことによる痛みが、須黒笛美が施したテーピングだけでは抑えることが出来なくなってきたのだ。


 痛みに目を閉じたのは瞬きほどの間であったが、既に津田文江の姿は消えていた。


 振り返り、ゴールへとドリブルで向かう彼女の背中を確認すると、足の激痛も構わず全力で走り、追った。


 すぐに追いついたが、先ほどと違って追い抜くことは出来なかった。

 足の痛みのせいではない。

 津田文江が、まるで背中に目があるかのように動作巧みにブロックをして、良子の進路を阻んだのだ。


 突然、津田文江は膝を崩して前に倒れた。


 笛の音。

 津田文江はゆっくり立ち上がると、膝のゴミを払った。


 きっと、わざと倒れたのだろう。

 良子は思った。


 確かにぶつかりそうにはなったが、ぶつかっていない。足の痛みをこらえてブレーキをかけており、ユニフォームの生地が触れ合ったくらいのはずだ。


 でも、人間がジャッジする以上はそういった駆け引きを含めてのフットサル。津田先輩の上手さを認めるしかない。そして、自分の要領の悪さを反省するしかない。

 そもそも、あっさりと突破を許したことが原因なのだ。


 ごめん、と仲間たちへ謝ろうとした瞬間、後ろから肩を叩かれた。


「ナイスファイト、シャク! ちょっと運が悪かっただけ、気にしない!」


 あしである。

 それだけいうと、小走りにFKの守備へと向かって行った。


 良子はぽかんと口を開けてその後姿を見つめていたが、やがてゆっくりと口を閉ざした。

 続いて、微笑が浮かんでいた。

 じわり熱いものの込み上げる目頭を、指でそっと押さえた。


 分かってくれていることが、うれしかったのだ。

 津田文江のファールを誘う演技を見抜いたことではない。その程度、間近で見ていた留美に分からないはずがない。


 また自分を責めて謝罪しようとしていた良子の気持ちを素早く感じ取って、先回りして元気づけてくれたということがうれしかったのだ。


「シャク、なにぼけっとしとるんや!」


 たかふたの声に、良子はびくりと肩を震わせた。


「そうだった」


 笑みを浮かべ、頭を掻くと留美に続いてゴール前にFKの守備に着いた。


 前橋森越のFKだ。キッカーは4番、ことである。

 佐原南ゴール前は敵味方の密集している状態。いないのは攻撃に残った双葉、守備に残った前橋森越のフィクソとゴレイロだけである。


 審判の笛が鳴った。

 久野琴絵は軽く助走し、蹴った。


 ハイボールをゴール前に放り込むかのようなモーションであったが、実際に蹴ったのは素早く地を這うマイナスのボールであった。


 誰もその軌道近くにおらず、ボールはそのまま転がり続けてサイドラインを割るかに思われた。

 だが、守備に残っていた2番が走りこんで受けた。久野琴絵が蹴ると同時に、全力で駆け上がっていたのだ。


 双葉が2番についていたが、まさか自陣の守備をここまでかなぐり捨てて上がるなどと思わず、完全に対応が遅れてしまっていた。


 フリーの状態でボールを受けた2番は、いつの間にかゴール前の密集から抜け出していた6番へとパスを出した。


 このパスが、試合序盤で見せたような佐原南守備網を嘲笑うかのように撹乱する連係プレーのスイッチであったのかも知れないが、全力で飛び出した柚葉がパスの軌道上に入り、力強く蹴飛ばしていた。


「同じ手は通用しねえんだよ」


 不敵な笑みを浮かべ、柚葉は悠々と自分のゴールへと戻っていく。


 クリアボールはハーフウェーラインを越え、なおも飛んでいく。

 高木双葉は、目測した落下地点を目指して、汚名返上とばかりに左サイドを全力疾走する。


 ポジション的にマッチアップする相手である2番はFK時の連係に加わっていた関係上、現在双葉の周囲には誰もおらず、ここで受けることが出来れば決定的なチャンスが訪れることになる。


 落下地点は目測が少し外れて前方であったが、ころころ転がるボールがゴールラインを割る寸前、双葉はなんとか追い付き、軽く踏み付け収めた。

 だが、決定的なチャンスは訪れなかった。


 一か八かで飛び出した前橋森越ゴレイロによって、双葉が踏み付けた瞬間にサイドへ蹴り出されていたのだ。

 前橋森越ゴレイロの好判断に、観客席から拍手がおきた。


「ワラ、惜しかった。どんどんチャレンジしてこう!」


 良子は手を叩き、双葉のプレーを褒めた。

 一番下手くそなくせになにを上から、と自身の言動に恥ずかしさを覚えながら。


 でもいいんだ。

 指揮を任された者として、そして同じピッチに立つ仲間として、精一杯の声を掛けるのは当然だ。恥ずかしいの上等だ。


 佐原南のキックインを蹴るのは双葉だ。


「ワラ!」


 良子は、突然ゴールへと走り出した。

 まだ蹴るそぶりも見せていなかった双葉であるが、良子の呼び声にすぐ反応し、ボールを蹴り上げた。


 みなの頭上を越えて、ボールはすとんと落ちる。

 良子が後ろへ下がりながら胸トラップ。珍しく成功し、足の裏で軽く踏み付ける。


 ゴール斜め前、ゴレイロが飛び出せない絶妙な位置だ。

 良子はボールをまたぐとシュートを狙うべくくるり身体を反転させた。

 だが、そこにゴールは見えなかった。

 津田文江の長身が、良子の視界を完全に塞いでいたのだ。


 キックインの瞬間にはサイドラインすぐそばにいたはずなのに。良子の動き出しを見逃さず、追い、そして良子がトラップに神経を集中させている間に後ろに回り込んでいたのだ。


 敵ながら、良子は感心していた。

 「全てを想定し、油断なきあれ」。おか中学で監督がいつもいっていたことだけど、さすが津田先輩、あの中で常にトップだっただけある。


 感心しながらも、ボールを転がし、いや、転がすふりをして、そのままシュートを打った。動こうとする津田文江の、股抜きを狙ったものだ。


 通用しなかった。

 がっちり閉じた足に引っ掛かった。


 小馬鹿にするような笑みを作りながら、津田文江はボールをちょんと浮かせて良子の脇を抜けた。


 良子は踵を返し、全力で津田文江を追い抜いて再び前に立ち塞がった。


 津田文江は、楽々と味方にパスを出すことも出来たはずなのに……おそらくは良子を待っていたのだろう。完膚なきまでに叩きのめしてやるために。


 良子にとっては、だからどうしたという思いであったが。

 だって、もう自分の心は決して折れたりなんかしないからだ。

 折れそうにはなるかも知れないけど、でも、仲間たちが支えてくれる。

 だから、わたしをどうこうしたいのなら、好きにすればいい。

 こっちはただひたすらに、正々堂々とフットサルをするだけだ。

 どうしようもないくらい下手かも知れないけど、全力で頑張るだけだ。


 良子は飛び込んだが、すっとかわされる。

 まだまだ! と、ぐっと踏ん張った瞬間、足首にこれまでの比でないほどの激痛が襲った。しかし構わず、前の敵へと再び身体を突っ込ませた。

 またもやひらりかわされ、今度はバランスを失い胸からどうと倒れた。


「そんな程度で、よく恥ずかしいとも思わず出てきたもんだねえ。しかも主将の代わり? なに、佐原南って強豪と聞いたけど、そんなに人材がいないんだあ」


 津田文江は楽しげな顔で、大きく攻め上がっている仲間へと余裕を持って大きく蹴った。


 佐原南は、キックインからの得点チャンスを生かすことが出来ず、また防戦一方の状態へと戻った。


     3

 いくらやられようとも、罵倒されようとも、良子の心から闘志が失われることはなかった。


 その後も、ふみにしつこく食らい付き続けた。

 何度抜かれようとも、追い越して、何度でも。

 体力の限り、気力の限り。


 ねちっこく絡み付くような守備は、段々と様になってきていた。

 様になってきたとはいっても、せいぜいが相手を遅らせる程度であり、結局のところボールを奪うことも食い止めることも出来ずに抜かれてしまうのではあるが。


 まるで勝負にならないという原因を怪我や、津田文江の能力の高さに求めることは簡単であるが、良子はそのような考えを拒み、ひたすらに自分の技術が無いせいであると考えて必死に気力を奮い続けるための推進力へと変えた。


 元々、良子の運動神経は非常に優れている。

 現在も、体育の成績は優秀だ。

 ただ、ボールの蹴り方を忘れてしまっただけなのだ。


 蹴れなくとも守備は出来る。

 器用なボール扱いが出来なくとも、自分なりの戦い方でフットサルは出来る。


 そう信じて、全神経を集中させて蛇が巻き付くかのようなねちっこい守備を続けてきた良子であるが、ついにその成果が表れてきたようであった。

 まとわり続けられることがさすがに鬱陶しくなったか、津田文江は良子の胸をどんと強く押し、強引に突破を図ったのである。


 押された勢いで足首を捻ってしまい、良子は激痛に苦悶の呻きをあげた。

 踏ん張ることが出来ず、倒れ、尻餅をついた。


 歯を食いしばりながら右足首を押さえる。

 苦痛にぎゅっと細めた目から、津田文江の背中を追った。


 ファールの笛は吹かれておらず、津田文江はダメ押しの三点目を狙うべくドリブルで佐原南ゴールへと突き進んでいく。


 あしがなんとか身体を入れて防ごうとするが、津田文江はすっと横へ動きながらゴール前へとボールを転がす。


 6番が駆け寄りボールを受けてシュートを狙うが、ゴール前から飛び出した柚葉が大きくクリア。

 ボールは横へ反れ、丁度ハーフウェーラインを越えたところでラインを割った。


 良子はまだ尻餅をついた体勢で、足首を押さえている。少しだけ痛みは和らいだが、まだとても立てる状態ではない。

 プレーの切れたタイミングで、審判の笛が鳴った。


 なんだろう?


 良子は疑問に思った。


 さっきの津田先輩のファールを取るのなら、プレーを流すわけがないし……


 次の瞬間、良子の目が驚きに見開かれた。

 なんと、審判は良子に対してイエローカードを掲げたのである。

 理由は進路妨害。

 ファールを受けた側がボールをキープしていたため、前橋森越のアドバンテージをとってプレーを流していたのだ。


「おかしいやろ、レフェリー!」

「手もなにも使ってなかったですよね! むしろ、相手の方が手で押してたじゃないですか」


 審判に詰め寄る双葉と留美。

 しかし審判は首を横に振るばかり。判定が覆ることはなかった。


「お前、レフェリーに見えないようド突いてんじゃねえよ」


 ゆずは、違う高校とはいえ一学年上である津田文江をお前呼ばわりし、指を差し睨みつけた。


「あたしはただ全力でプレーをしただけ。ファールとったの審判でしょ? なんであたしが責められるの? 意味が分からないんだけど」


 津田文江は鼻で笑った。


「どうでもええわ。そんなことよりシャク、大丈夫か?」


 高木双葉は、まだ床にうずくまって足首を押さえている良子へ近寄り顔を覗き込んだ。


「やっぱり無理なんやろ? 交代した方がええんちゃうか? 無茶しない方がええで」


 心から不安がっているような双葉の顔を見上げ、良子は歪んだ表情の中に笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。


「なんともないよ」

「ないわけないやろ! 歩けん身体になったらどうするつもりや!」


 双葉は良子の肩を掴んだ。

 揺さぶろうとしたが、辛そうな良子の顔にそれは思いとどまり、かわりにきっと睨みつけた。


「ごめん。……本当は、立ってるだけでも涙が出そうなほどに痛い。でも……もしもこのまま続けて負けたらみんなに申し訳ないとは思うけど……でも、逃げたくないんだ」

「なんや……なんなん、それ? 意味分からんわ。良子は逃げとらんやん。ぎょうさん辛いことがあったゆうのに精一杯明るく、前向きに、頑張っとったやんか」

「それもね、本当の自分から逃げてそうしてたんだ。そういうふりをすることで、自分の弱い気持ちから逃げていたんだ。……でも、もう負けない。だって、みんながいるから。かけがえのない、最高の仲間たちがいるから。……だから、絶対に逃げない。絶対に。そして、自分に勝つんだ」


 良子は気力を振り絞り、完全に立ち上がった。

 荒い呼吸の中、津田文江を睨みつけた。


 正確には、ただ必死の形相で越えるべき立ち向かうべき相手へと視線を向けただけであるが、それだけ良子の表情には鬼気迫る、怖いものが宿っていたのである。


 その決意、迫力にたじろいだように見えた津田文江であったが、すぐに吹き出すと、それは大きな笑い声に変わった。

 腹を抱え、ひとしきりの笑いがおさまると、目尻にうっすら溜まった涙を拭った。

 なんだか冷ややかに見える表情を一瞬だけ浮かべると、すぐに改めて笑みを作り直した。


「全部、あたしが悪いってことだよね。そんなに人を悪役に仕立てたいんだったら……いいよ、なってあげるよ」


     4

 猛攻。

 まえばしもりこしの怒涛の攻撃をこのように表現するのは簡単であるが、現在と前半戦に見せたそれとではあきらかに異質のものといえた。


 一年生ながら抜群の能力を持つことやその他の選手を、生かすような攻撃をふみが中心となって組み立てる、という点では前半戦と変わらない。


 なにが変わったかというと、津田文江の発する空気である。

 これまでの彼女からは、チームを勝利させるためという気持ちを感じることが出来た。

 フットサルは集団競技なのだから当然ではあるが、しかし現在の彼女はしんどうりようを潰すことに固執していた。


 そのためにチームとしての効果的な攻めには程遠いものになってしまってはいた。

 だが、新堂良子に津田文江を止めることは出来ず、また、新堂良子には津田文江から守り抜くことは出来ず、百パーセントの確立でボールが佐原南ゴール前へと送られるため、結果的には前橋森越が変わらず圧倒的に攻めているように見えた。


 それにしても、悪役と開き直った津田文江の良子への固執っぷりは、実に凄まじいものであった。


 簡単にさばけるところであっても、いちいち立ち止まっては良子へと勝負を挑むのだから。


「フミ、交代するぞ。ミツ、お前出ろ」


 初老の男性、前橋森越の監督がベンチから立ち上がって、アップをしている13番の背中を叩いた。


 フミ、とは津田文江のことであろう。

 彼女の存在をチームワークの弊害と捉えたか、それとも疲労対策ということなのか、理由は監督のみぞ知るであるが客観的に考えても交代は当然だろう。


 何故ならば攻撃面において前橋森越は津田文江のチームであり、強豪との連戦であるこのような大会において彼女の存在が必要不可欠だからだ。ほぼ勝利の確定した(と思われる)現在、無意味な疲労を蓄積させる意味合いは皆無だからだ。


 どちらにせよ、技術力の稚拙さが目立っていた佐原南の7番(新堂良子)は、それに加えて疲労と負傷とでまともに動けないようだ。

 何故そのような選手を出し続けるのか理由は分からないが、ともかく7番に対して誰がマッチアップすることになろうとも攻守問題が生じることはないだろう。別に津田文江である必要はない。

 ということであろう。


 だが……


「いやです。あたし、最後までやりますから」


 津田文江は、ピッチから出ることを拒否したのである。

 意地やプライドからではないことは、喜悦と興奮に満ちた表情から明らかであった。


 新堂良子を自らの手によって心身ともに潰してしまおう。まるでそう思っているかのような、異様な笑顔であった。


「文句いうなら次は出ませんから」

「勝手にしろ、バカ!」


 前橋森越の監督は、あっさりと諦めた。

 きっと普段から、津田文江は部内でこのような態度なのだろう。

 前橋森越は大会の常連ではあるが、これまで初戦を突破したことが一度もなく、地区が弱いが故に大会参加出来ているだけの弱小校といわれていた。それだけに監督としても現在のような状態は、チームの雰囲気を取るべきか目先の勝利を取るべきか、悩みどころなのであろう。


 とにかくこうして津田文江は、一度は交代を告げられたにもかかわらずピッチに残ることになったのである。


 だが、喜悦による興奮を味わいたいがために監督を脅迫してまで出続けているというのに、彼女の表情には、わずかながらの陰りが見えるようになっていた。

 わずかながら、ではあるが、明らかであった。

 彼女のその顔には、疑問と不快が入り混じったようなものがうっすらと、しかしはっきりと浮かんでいたのである。


 津田文江は、新堂良子にぴたり密着している。疲労しきった息遣いがはっきり聞こえるほどにぴったりと。

 その、良子の顔に、うっすらと笑みが浮かんでいる。おそらくは、津田文江にとってそうした良子の態度がたまらなく不快であったのだろう。


 心身ともに潰し、精神を絶望に追い込んでやろうとしているというのに、何故笑っているのかと。


 いまその疑問を津田文江が口にしていたならば、良子は迷うことなくこう思っただろう。


 決まっている。

 面白いからだ。


 そう、良子は立っているのも辛いほどの疲労と足の激痛に全身を支配されながらも、現状を楽しんでいたのである。

 現状とは試合展開のことではなく、逆境の中で成長してきている自分に対してだ。


 奇妙な心地好さが全身を包んでいた。

 だから何度転んで床に身体を打ち付けようとも、すぐに起き上がった。

 心臓が止まりそうなほど息が苦しいけれど、泣きたいほど足が痛いけれど、でも笑みがこぼれてしまう。

 もしかしたら、過度な緊張と疲労に心が麻痺しているか、現実逃避しようとしているだけかも知れないけど。

 いや、

 それは絶対にないはずだ。

 もう現実から逃げる必要なんてないのだから。

 だって、どんなに辛くたって、それに立ち向かう勇気をくれる素敵な仲間たちに、自分は囲まれているのだから。

 そんなこととっくに、ずっとずっと前から分かってはいたけれど、一緒に戦って、改めてそれを認識したから。

 だからわたしは……


 両足がもつれた。

 良子はボールを持った津田文江から奪おうとして、袖を軽く引っ張られてバランスを崩したのだ。


 二人は抱き合うように倒れた。

 良子は、津田文江に腕を絡められて受け身を取れず全身を床に打ち付けた。


 ぐう、と呻いた。

 胸の中の空気がすべて吐き出されていたが、息を吸おうとしてもまるで入ってこず意識が遠のきかけた。


「シャクレ!」


 ピッチの外、武朽恵美子の叫び声に意識を取り戻し、むせながら大きく息を吸った。


 ばたばたと、自分の身体になにかが当たる感触に、首を回して横を見てみると、津田文江が自身の腕を押さえて苦痛の表情を浮かべ呻いている。


 そんなバカな……

 と良子が思うのも当然だろう。

 だって、津田文江の方こそ良子の袖を引っ張り、腕を押さえ付けてきたのだから。


 審判の笛の音が鳴り響いた。

 良子は、なにがなんだか分からず呆然としていた。


「今度やったら警告出しますよ」


 審判の言葉は、良子に向けてのものだった。

 既に一回警告を受けているため、もしそうなったら退場である。


「ファールしてるの相手の方ですよ!」


 芦野留美の怒鳴り声だ。

 必死に冷静さを保つべく自分を押さえ込んでいるようであった。

 いつも温厚でどっしり構えている留美がここまで怒っているのを、良子は初めて目にした。

 だけど、審判が聞き入れることはなかった。


「じゃあもういいですけど、あの7番、分かりにくい角度から色々やってきますから、次からはしっかり見てて下さいね。審判二人もいるんですから。……シャク、大丈夫?」


 留美は審判へというより津田文江本人へ釘を刺すと、良子のすぐ横で倒れている津田文江を一瞥した。


 もう津田文江はまったく痛がってはおらず、けろりとした顔で立ち上がった。判定が下った後にまで演技を続けている必要はないということだろう。


 留美は、津田文江と視線を合わせまいとしていたが、怒りを堪えることが出来ずに改めて向き直り睨み付けた。


「シャクが……良子が、疲れてふらふらなのをいいことに、袖を引っ張ったり、腕を絡めたり、いい加減にしてくれないかな。恥ずかしくない?」

「どうして恥ずかしいだなんて思う必要があるの? 意味が分からないんだけど」


 間髪入れず返ってきたその台詞、笑み、仕草に留美は呆れ、小さく万歳してお手上げのポーズを作った。


「シャク、立てる? 試合出来そう?」


 留美は、津田文江からぷいとわざとらしく視線をそらし、まだ床に尻をついている良子へと手を伸ばした。


「大丈夫。一人で立てるから。ありがとう」


 良子は片手を床につき、片手で膝を支え、立ち上がろうとする。

 少し起き上がったところで両手とも膝に置いて、生まれたばかりの小鹿のようにぶるぶると大きく全身を震わせながら、なんとか立ち上がった。

 いや、がくりと膝が抜けてまた床に倒れてしまった。


「立てますか? プレー無理そうならいって下さい」


 先ほどの審判が、見かねて声を掛けた。


「平気です。……立てます」


 良子は再び両手を膝に置き、気力を振り絞り立ち上がった。

 とと、と後ろへよろけたがなんとか踏ん張ると、


「まだまだああ! やるぞおおおおお!」


 腹の底から叫んだ。


 一見元気そうではあるが、息荒く、心身は消耗しきっていた。

 また足がふらついて倒れそうになり、両膝に手をついて身体を支えた。


「本当に、大丈夫なんですか?」


 審判が尋ねた。


「はい……体力だけは……あるんです、あたし」


 強がりであること、誰の目にも明らかであった。

 怪我を庇いつつも技術の無さを補って誰より走り回る必要があり、加えて津田文江の執拗な攻撃を受け続け、考えるまでまでもなくいつ試合続行が不可能になっても不思議でないくらいに疲労しているはずだ。怪我だって悪化しているはずだ。


 それを間近で見ている高木双葉、鈍台洋子、芦野留美、九頭柚葉、彼女らの誰からも本気で交代を勧める発言が出なかったのは、良子の気迫に胸を打たれたというよりは、ただただその凄まじさに言葉を失っていたのかも知れない。


 審判へと強がっている良子の姿を呆然と見つめていた留美であったが、不意に身体をぶるっと震わせ、決心したような表情を作ると、拳をぎゅうっと握り、叫んだ。


「シャク!」


 突然の大声に良子は肩をびくりと震わせ、振り向いた。


 留美は自分の左胸に握った拳を当てると、ぐっと良子へ向けて突き出した。


 我が心臓、君に捧ぐ。

 成層圏同盟の、仲間を確認する儀式となるポーズだ。


 例え良子がボロボロになり朽ちることがあろうと、その時は一緒。

 そんな留美の意思表明に、朦朧としかけていた良子の意識は一瞬にして完全に覚醒していた。

 ありがとう……

 と心の中で呟くと、笑みを浮かべ、拳を握った。

 留美と同様、左胸に拳を当てると、ゆっくり、力強く、双葉へと向けて突き出した。


 我が心臓、君に捧ぐ。


「確かに受け取ったあ! よっしゃ、ユズもドンちゃんもいくでえ!」


 双葉は拳を柚葉へと突き出し、捧げた。


「え、え?」


 突然のことに、柚葉はうろたえてしまっている。


「早う!」


 双葉に急かされ、柚葉はよく分からぬまま鈍台洋子へと拳を突き出した。


 洋子は細い目をさらに細めてニコニコ笑いながら、芦野留美へ。


 ぐるりと、繋がった。


「これで新成層圏同盟の成立や!」


 双葉は、右腕を思い切り突き上げた。


「強制的に、加盟させられてしまった……」


 不本意であるような、ちょっと楽しそうでもあるような、柚葉はなんともむず痒い表情を浮かべていた。


「よろしく!」


 洋子は単純に楽しそうな嬉しそうな表情で、仲間を見回して元気な声を出した。


「こちらこそ」


 良子は肩を大きく上下させながら、口元をほころばせた。


     5

 疲労困憊のしんどうりようであるが、プレーは可能であると判断されて、試合が再開された。

 (誤審ではあったが)ふみが倒されたというところからなので、まえばしもりこしのFKである。


 キッカーは津田文江本人だ。

 技術的に精度が高いだけでなくアイディア溢れる仕掛けで佐原南を揺さぶり続ける彼女であるが、このFKでは裏の裏をかいてシンプルなボールをゴール前へと転がした。


 飲まれて畏縮したままの良子であったならば、裏の裏を簡単にかかれて大ピンチを迎えていたかも知れない。限界近くまで疲労してはいるものの心は落ち着いており、集中を切らさず、すっとボールへ寄る4番より先に駆け寄り身体を入れ、クリアした。


 放物線を描いて落ちるボールへと、たかふたと2番が肩をぶつけ合いながら走る。

 半歩の差で双葉が先にボールを拾った。


 2番はきゅっとブレーキをかけ、反転して双葉を通すまいと壁になった。


 すっと視線を走らせ出しどころを探す双葉であるが、まだ誰も上がってきていないことを認識するや2番へと躊躇うことなく仕掛け、揺さぶり、抜き去った。

 いや、ボールがついてきていなかった。2番の足に引っ掛けてしまっていたのだ。

 ころころ逃げるボールに2番が走り寄るが、双葉が後ろから追い抜いて拾い、所有権を維持する。


「ワラ!」


 良子が手を上げ、右サイドを駆け上がる。

 双葉は2番を背負いながら、良子の走る先へとパスを出す。


 フットサル教室のような実に丁寧なボールであったが、良子はトラップをミスして前に転がしてしまう。全力で追って、今度こそ足元におさめた。

 だが次の瞬間、背後から抜き去られ、奪われていた。


 津田文江であった。

 彼女はくるり振り返り、ボールを軽く踏み付け良子と相対した。

 にやりとした笑みを良子へと向けた。


「ねえドリ、なんとか同盟とかそんなので、この状況を打開出来ると思ってるの? この点差を逆転出来ると思ってるの? そしたら世話ないよねえ」

「でも、絆は高まりました。絶対に頑張り抜くんだって気持ちが高まりました。それは、あたしにとって……代え難い宝です!」


 良子は、すっと静かに身体を前へ進めた。

 津田文江の足元から、あったはずのボールが消えていた。それと、目の前から良子の姿が。

 一瞬驚いた表情を浮かべる津田文江。舌打ちをすると、


「まだ動けるとは思わなかっただけだ」


 奪われた理由をぼそり自身に弁解して踵を返す。ドリブルする良子の後ろ姿を視界に捉えると、全力で走り出した。

 一瞬にして、良子を追い抜いていた。追い抜きざま、ちょんと足を出してボールを奪い取っていた。


 良子は不意に生じた消失感からバランスを失ってよろけ、踏ん張ることが出来ず肩からどうと倒れた。


 津田文江は素早く反転すると、一気に佐原南の陣地へと駆け上がって行く。

 ゴール前へと、大きく蹴った。


 4番、ことが芦野留美をかわし、抜け出し、背後から落ちてくるボールに右足を上手に合わせた。

 足を当てただけにも見える小さなモーションであったが、飛んで来るボールの勢いや回転も手伝ってぶんと矢のように唸りをあげて佐原南ゴールへと襲い掛かった。

 球速も弾道も素晴らしいものであったが、前橋森越の追加点はならなかった。


 柚葉がそのシュート以上に素晴らしいポジショニング、動体視力、経験やセンスを見せ弾き上げたのだ。

 落ちるボールを押し込もうと6番が突っ込んでくるが、柚葉は慌てず移動して、伸ばした両手でしっかりキャッチした。


「思い切り攻めろお!」


 すぐさま助走をつけて、強肩による遠投。


 前橋森越のフィクソが、駆け上がりながら胸でトラップ。

 いや、双葉が背後から周り込んで、落ちてくるボールを頭で跳ね上げていた。


 ボールは真横へと飛んでタッチラインを割りかけたが、すっと伸びた太い足に当たってラインぎりぎりのところに落ちた。

 太い足の主とは、鈍台洋子であった。柚葉と一緒に空手をやっていただけあって関節は柔らかく、足も見た目から考えられないくらいぐいと伸びるのだ。


 すぐさまドリブルしようとする洋子であるが、タッチミスでラインの外に蹴り出してしまいそうになり、慌ててラインとボールの間にどんと足を落としてラインアウトを阻止。

 ようやく足元におさめたものの、既に正面に6番が密着していた。

 洋子は見よう見まねのフェイントで抜こうとするが、みんなが練習でやっているように上手にはいかず、突破どころか奪われないようにするだけで精一杯。


「ドン!」


 留美がフォローに入っていた。

 見かねたというより想定していたのだろう。

 洋子はちょこんと横へ出し、自分の脇を駆け抜けようとする留美へと預けた。


 6番が慌てて留美の進路を塞ぎにかかるが、既にそこにボールはなかった。

 高木双葉が胸でトラップ。右足の裏で踏み付け落ち着かせるが、背後にフィクソが密着しており前を向くことが出来ない。

 強引に突破をはかろうと考えたか双葉はくるり反転、踏み付けたボールをころり動かした……と見えた次の瞬間には、真横へと蹴っていた。


 サイドから斜めに入り込んだ来た良子が、そのボールを受け、走り抜ける。

 ゴレイロとの一対一。

 迷わず右足を振り抜いた。


 が、宇宙開発。

 ボールはクロスバーの遥か上を越えて、観客席へと飛び込んだ。


「ああ、もうちょいやったのに! でもよかったでシャク、最高の飛び出しや!」


 双葉は、良子へと親指を立てた。

 良子は小さくガッツポーズを作り、応えた。


 前橋森越のゴールクリアランス。


「真面目にやれ!」


 津田文江が、守備陣へと怒鳴り声を上げた。


 その後も試合を支配するのは前橋森越であったが、佐原南も先ほどのような連係から決定的とはいえないまでも期待を感じさせるプレーを時折見せるようになってきていた。

 攻守両面において、集団個人双方において、動きの質が明らかによくなっていた。

 さすがに本年度公式戦無失点の前橋森越を崩すのは、容易ではなかったが。


 佐原南が、また一つチャンスを作った。

 攻め込まれてシュートを打たれたのだが味方に当たってこぼれ、洋子が巧みに蓋をして相手に拾わせず佐原南ボールに変え、柚葉がすかさず得意の遠投で前線に張る双葉へ送ったのだ。


 だがチャンスは一瞬で潰えた。双葉がトラップするより先に、双葉の背後で大きく跳躍したフィクソが頭で跳ね返して再び佐原南ゴール前へと放り込んだのだ。


 良子が頭でクリアしようとしたが、津田文江に背中への体当たりを受けてがくりと膝を崩した。


 津田文江は迷わずシュートを打とうと蹴り足を上げるが、振り下ろされる寸前に留美が詰めて、タッチに逃げるべく大きく蹴る。だが6番の身体に当ててしまい、そこから再び津田文江へと送られてしまう。


 シュートを打たれるよりも先に、と柚葉が全力で飛び出すが、しかし津田文江はここで自分へのパスをスルー。

 ボールの転がる先に待ち構えていたのは4番の久野琴絵。ゆっくり丁寧な動作で、ガラ空きの佐原南ゴールへとボールを蹴り込んだ。


 前橋森越の追加点……は決まらなかった。

 前線から全速力で駆け戻った双葉が、スライディングでゴールへと身体を突っ込ませ、シュートをブロックしたのだ。


 ねじ込もうと津田文江が詰める。

 だがその前に、留美が今度こそ大きく蹴り出してキックインに逃れた。


「……助かったよ、ワラ。見えてなくて、不用意に飛び出しちまった。ありがとな」


 柚葉は、双葉に礼をいった。


「構へん。うちがキープ出来なかったのが悪いんやから。……せやなあ、ありがとって思うなら、一ついうこと聞いてくへんか?」

「なんだよ?」


 訝しげな表情を作る柚葉。


「試合中やねんけど、コートネームじゃなく本名で礼をいって欲しいなーって。せっかく同盟なんやしい」


 双葉は悪戯っ子のような表情で、柚葉にぴたり肩を寄せた。


「ええっ、なんだよそれ! ふざけんなよ、こんな時に」

「別に嫌ならええわ。悪かったな」

「嫌ってわけじゃ……分かったよ、もう。じゃあ、いくぞっ」


 柚葉はすーっと息を吸い込んだ。


「あ、ああ、あり、あり、ありがと、ふ、ふ、ふた、ふた、ふたっ、双葉っ! うわあ、なんか恥ずかしいっ」

「なんの、これくらいお安い御用や、柚葉」


 双葉はにっと唇の両端を釣り上げた。


「ずるいぞそれ……あたしの呼び方、ほとんど変わってないじゃんかよ」


 そのまんまコートネームなのだから、仕方のないことではあるが。

 やがて、にやにやと笑みを浮かべながらお互いを突っつき始める二人。


「バカみたい」


 津田文江は、ふんと鼻で笑うと良子へと話し掛けた。


「ねえドリ、同盟だかなんだか下らないごっこ遊びなんかしてて勝てるの? この時間で、二点差で、この戦力の差で、勝てると思ってるの?」

「分かりません」


 良子は即答した。


「えー、分からないはずないでしょ。もう勝負は決まっているってことを。なんの取り決めがあってやってることか知らないけど、下手くそな一年だけって時点でさあ……試合が始まる前っから、あんたらは負けてんだよ」


 どこか冷酷そうな笑みを浮かべていた津田文江であったが、突然、どこかどころか冷酷残虐そのものといった凶悪な表情に変化し、その声もドスのきいた低いものになっていた。

 ほぼすべての選手が密集している中での彼女の言動に、周囲、いやベンチにまで緊迫した空気が広がっていた。


「負けてません。まだ試合終わってませんから」


 一人、良子はまったく動じることなく冷静であった。


「フミ、相手にそういう態度取るのはやめようよ」


 2番の選手、主将のまつながが苦い顔で津田文江の言動をたしなめた。

 たしなめられた本人は、鼻で笑うばかりであったが。


「失礼なこといって、ごめんなさいね」


 松永千恵子が、代わって良子へ頭を下げた。


「気にしてませんから」


 お気遣いなく、と良子も小さく頭を下げた。


「集中しよ! わたしたちはわたしたちのプレーを! 出来ることをしっかりやろう!」


 留美が突然叫び、手を叩いた。

 松永千恵子の謝罪と、留美の機転によって、緊迫した雰囲気は拡大することなくすっと収束した。


 味方の酷い態度によって作り出された空気に呆然として突っ立っていた前橋森越の6番であるが、気を取り直すと腕を上げ味方へ合図を送り、ボールを蹴った。


 佐原南ゴール前へするすると転がっていくボールに、ゴール前密集から2番が飛び出し向かった。

 その背中を鈍台洋子が追う。


「追わなくていい!」


 良子が叫ぶが、既に遅かった。

 2番は6番へと蹴り返し、ワンツーで鈍台洋子の脇を抜けると、そのまま手薄になった佐原南ゴール前へと身体を突っ込ませた。


 留美が前に立ちはだかるが、2番は踵で後ろへ。

 待ち構えていた4番、久野琴絵が完全にフリーの状態でボールを受け、狙いすましたように蹴り足を上げると一気に振り落とした。


 鈍い音とともに打ち出された弾丸は、一瞬にして佐原南のゴールネットへと突き刺さるかに見えた。


 だが、前橋森越の追加点はまたしても決まらなかった。


 蹴った時の音よりもっと鈍い、痛々しい音が大きく響いた。

 弾道軌道上近くにいた良子が咄嗟のステップで軌道に飛び込み、破壊力抜群のボールが顔面を直撃したのである。


「大丈夫か?」


 ぐらり倒れ掛ける良子の小柄で柔らかな身体を、後ろから柚葉が支えた。

 落ちたボールに、津田文江が突っ込んでくる。

 柚葉は慌てて、良子から手を離して屈んでボールを拾った。


「ユズ、投げて」


 良子はふらふらする頭を押さえながら、走り出した。

 そしてさらに口を開き、叫んだ。


「みんな上がれ!」


 良子の言葉に芦野留美、鈍台洋子が自陣ゴール前から離れ前橋森越ゴールへと走り出した。

 前橋森越の選手たちが、その後を追う。


「いくぞ!」


 柚葉は助走を付け、ボールを持った腕を大きく振った。

 強肩から打ち出されたボールはぐんぐんと伸びて、大きな虹の軌跡を作る。


 先ほどのキックインの守備に参加せず前線に残っていた双葉が、落下地点へと走り込んでボールを見上げる。

 フィクソが背後に密着した。先ほどののように長身を生かして、双葉の頭上から弾き返そうとしているのだろう。


「何度もやらせへん!」

 双葉は背中で押し返した瞬間、力を抜いて2番をぐらつかせると、大きく跳躍した。

 空中で、ボールを跳ね上げた。


 放物線を描いて左サイドへと落ちていくボール、ラインを割る直前に洋子が左腿でトラップする。

 だが落ち着かせる間もなく、2番が圧力をかける。


「ドン! こっち!」


 留美の声に、洋子は踵を使って後ろへ転がした。


 ボールを拾った留美は、2番の脇を抜けた。

 久野琴絵が、留美へと全力で詰め寄る。留美は、それを予測していたかのように、ちょんとボールを浮かせて久野琴絵の頭上を通し、良子へと送った。


 良子が胸でトラップをした瞬間、背後からガツンと衝撃に揺れた。津田文江が身体を当てたのだ。

 膝をぐらつかせながらも、なんとか踏ん張り耐えると、背後に荒い息を感じながら右サイドをドリブル。


 小癪な真似に脳の血管が切れたか、津田文江が叫びながら良子に追い付き、肩をぎゅっと掴んで前へと回り込もうとするが、既に良子はボールを持っていなかった。


 前線へと飛び出した双葉が、くるりと反転しながら良子からのパスを受けるところであった。

 双葉はそのまま前を向く。


 ゴレイロが飛び出した。


 双葉は迷わず右足を振り抜いた。

 狙い過ぎてしまったか、シュートはポストを直撃した。


 だが跳ね返りに、良子が詰めていた。

 クリアしようとするゴレイロとぶつかり、もつれるように倒れそうになったが、必死に踏ん張って爪先でボールに触れ、押し込むと、がくりと膝を崩し、前のめりに倒れた。


 すぐに首を上げて、ボールの行方を追う。

 ゴールへと、そろりそろりとゆっくり転がり、そしてラインを割った。


「入ったあ!」


 くちが叫んだ。

 どっ、と沸く佐原南ベンチ。


 だが、ゴールは認められなかった。

 良子がゴレイロを倒したと判断されたのだ。


 落胆する佐原南の部員たち。

 残り時間は十分を切っているというのに、まだ二点のビハインドを負っており、せっかく決まったと思った得点を取り消されたとあっては当然だろう。


 だが、良子、留美、双葉、洋子、柚葉、ピッチに立っている五人は、まるで落胆の色など見せてはいなかった。

 むしろ、ようやく反撃の狼煙を上げたのだと、みなのその顔には自信すら浮かんでいた。


 負の感情の爆発は、むしろ対戦相手側にこそ起きた。


「なにやってんだあああああ! やられるとこだったろ、バーカ! 無能!」


 突然、津田文江が怒鳴り声を張り上げたのである。

 ゴレイロへと怒っているのだろう。


 そこまでいわなくても……


 敵のこととはいえ、良子は前橋森越のゴレイロが気の毒になった。

 確かにゴレイロの選手は、見ていてそれほど能力は高くない。本年度公式戦無失点という記録は、ほとんどFPフイールドプレーヤーの働きによるものだろう。


 だからといって、仲間を信じないでなにがフットサルだ。

 わたしなんかこんなに下手だけど、信頼関係があるから助け合える、頑張れる。それが仲間、チームだろう。

 負けられない……

 いまの津田先輩に、負けるわけにはいかない。

 わたしたちの絆で、チームワークで、絶対に勝つんだ。

 まだ時間はある。

 諦めない。

 諦めないぞ。


「次は必ず決める! 絶対に逆転するぞおおお!」


 良子は右の拳を握り、天へと叫んだ。


「そうだ、どんどん攻めろ! 守りなら任せとけ。あたしと留美とで、もう一点も許さねえから!」


 佐原南ゴール前で、柚葉が勢いよく拳を突き出した。


「わたしも機会を見て攻めに加わるけど、とにかく守備は任せて思い切り攻めて」


 留美が汗だくのなか笑顔で、どんと自分の胸を叩いた。


「ああ、任せたで。おっしゃ、絶対に逆転したろやないか。ドン、シャク」

「そうだね」


 と返す良子の声は、震えていた。

 先ほどまでの、津田文江との過去に恐怖しての震えではない。

 仲間たちがこの逆境の中で諦めず闘志を燃やしていることが嬉しくて、声が、全身が震えていたのだ。


「せや、シャク、久々にやってくれへんか? を」

「えー、恥ずかしいよ」


 は、自分で自分を前向きで明るい性格だと騙していたから出来たことだぞ。


「うちも一緒にやったるから、恥ずかしくない恥ずかしくない。ほら、早う、試合止まっとるうちに」

「仕方ないなあ。……よおおおおし、残る時間を全魂全走ハイテンションで駆けまくって、絶対絶対ぜえーーーったいに、勝つぞおおおおおおおっ。どっかーーーーん!」


 どっかーん、で良子は右腕を天へと突き上げた。

 双葉は、ようやるわといった表情で、黙って良子を見つめていた。


「えーーーーっ、一緒にやるっていったのにい!」

「ああ、堪忍な。久々やったから、どのタイミングでどっかんが来るのか分からなくって。せやから、もう一回やって欲しいんやけど」

「やだよもう! 二度とやらない!」


 餌一杯詰め込んだハムスターよろしく頬をぷっと膨らませる良子。

 間もなくして、どちらからともなく二人は笑い出した。

 思えば、良子にとって久し振りに腹の底からの笑いであったかも知れない。


     6

 ふみは、呆然とした表情で、楽しそうにしている良子を見ていた。


 何故笑っていられる?

 自分がここにいるというのに。

 しかも、あんなに楽しそうに。


 というところであろうか。

 やがて、不快極まりないものを見るように顔を歪めると、どん、と激しく床を踏み鳴らした。


 しんどうりようはちらりと彼女の方を見たが、すぐ視線を戻し、


「残り、集中していくよ!」


 たかふたどんだいようたちと声を掛け合った。


 吐き出した負の感情を完全に無視される格好になった津田文江は、もう一度、砕かんばかりの激しさで床を踏み付けた。


 それぞれの思いを胸に、試合が再開された。


 6番が小走りしながら、ことへとパスを出す。

 留美が読んでおり、ぐんと飛び出し軌道上に入り込んでカット、そのまま速度を落とさず駆け上がり、一瞬にして人数有利の状況を作り出した。

 寄せられる前に、洋子へとパスを出した。


 トラップに少しあやしいところのあった洋子であるが、段々と慣れてきており、走りながら上手に受けた。


 反対のサイドを、周囲を広く確認しながら良子がゆっくりと上がっている。

 良子は、ちょっとした違和感を覚えていた。

 これまで自分にぴったりくっついていた津田文江が、少し離れたところに位置するようになっていたのだ。

 攻撃時を考えてのことかも知れないが、でも先ほどから、かたくなまでにぴったりくっついて、執拗なまでに良子に対して一対一の戦いを挑んできていたというのに。


 佐原南のパス回しがよくなってきているので、堅実に追加点を取って勝負を決めてしまおうということだろうか。

 なにがあろうと、自分たちは自分たちのフットサルをやるだけだ。


 良子は走り続ける。

 ドリブルで駆け上がる洋子は、なんとかかんとかではあったが2番をかわし、


「ワラ!」


 斜め前方の高木双葉へとパスを出した。


「ワラ!」


 良子も双葉のコートネームを叫び、全力で走り出した。

 足首に電撃が走り、顔を歪めた。

 関節をへらでほじくられるような激痛であったが、痛くなどないと自分を騙し、走る。


 双葉は良子の声に気づいてスルーを選択、ボールはするする転がり続ける。


 これを受ければ、相手が一人戻り切れていないこともあり佐原南が大きなチャンスを得ることになる。

 だから良子は全力で走った。

 ゴールラインを割る直前、なんとか足を伸ばして受けた。


 いや、受ける寸前、津田文江に追い越され、奪われていた。

 きゅ、と急ブレーキの津田文江の背中に、良子は思い切りぶつかり、後ろへとよろける。踏ん張ろうとしたが、足をもつれさせて倒れた。


 津田文江は振り向き、クリアもパスもせずボールを踏み付けると倒れている良子を見下ろした。

 怒っているのか、悲しんでいるのか、苛立っているのか、なんとも名状しがたい、ただベクトルとしては完全に負といった表情の彼女は、良子にしか聞こえないような小さな声で、ゆっくりと、しかしはっきりと、言葉を発した。


「どうせ悪役なんだから、正直にいってやるよ、ドリ。……あんたが笑ってるの見てるとさあ、むかつくんだよ。天才だかなんだか知らないけど、ずうっとあたしたちを上から見下ろしてたこと、知ってんだよ」


 津田文江は、良子を睨み付けた。


「否定は……しません」


 良子は、膝に手を置くと、身体をぶるぶる震わせながらゆっくりと立ち上がる。


「でも……いまのあたしは、見ての通りです。常にみんなのことを見上げて、ただ全力で頑張るだけです。……そんなことを考えるよりも、あたしは……この仲間たちと勝つことで、精一杯ですから!」


 良子は津田文江へと飛び込み、脇を駆け抜けた。

 津田文江の足元から、ボールが消えていた。振り向くと、良子がふらふらとした足取りでドリブルをしている。


「勝つことでもなにも……負けてんじゃんかよ! 手も足も出ないでさあ!」


 津田文江は怒鳴った。

 良子へ、というよりは自分にいい聞かせているようでもあった。負けてなどいない。現に圧倒している。現に二点もリードしている、と。


「ワラ!」


 良子はドリブルをしながら、こちらに視線を向ける双葉へ表情で合図を送った。


 双葉は小さく頷くと、マーク相手をかわしてゴール前へと走り出す。


 ドリブルをする良子の前に、2番が立ち塞がった。一瞬立ち止まる良子であるが、次の瞬間には動き出していた。

 ちょこんと右に転がし、切り返して左へ。

 イメージの中では2番、相手主将の松永千恵子を完全に抜き去ったつもりであった。


 現実は違っていた。

 奪われたのならばまだしも、切り返しの際に足の踏ん張りがきかずに転んでしまったのだ。


 思いもよらぬことに慌てた2番がボールを扱い損なってタッチを割ったことは佐原南にとって幸運ではあったが、前線へ出しさえすれば決定的な得点チャンスが訪れていたであろうことを考えれば不運以外のなにものでもなかった。


「シャク、大丈夫か?」


 双葉が近寄り、良子の手を引っ張った。

 良子は膝を震わせながら、双葉の助けを借りてなんと立ち上がった。


「ありがとう。でも、ごめんね。せっかく最高のタイミングで抜け出してくれたのに。今度は、きちんとパスを出すから」

「ああ、待っとるで」


 双葉は良子の肩を撫でるように叩いた。

 力を入れるとそれだけで良子の膝が崩れてしまうと、不安になったのだろう。


 二人のやりとりを聞いていた津田文江が、ぷっと吹き出した。それは瞬時にして、大きな笑い声に変わっていた。


「通じないんだよ、そんな子供の遊びみたいな個人技や連係なんか。しかも自分で転んじゃって、バカじゃないの」


 彼女は、審判に注意を受けるまでいつまでも笑い続けていた。こんなに楽しいことはこれまでの人生でなかったというくらいに。


 確かに、津田文江のいっていることは間違っていない。

 連係に自信があるといっても、それは一年生の中ではの話。

 ましてや、個人技において鈍台洋子と新堂良子は並に劣っている。

 さらには、後半戦にずっと出続けていることによる疲労の蓄積。

 今期公式戦無失点という鉄壁の牙城を崩すことが、容易であろうはずがなかった。


 ボールを持った良子に、津田文江が嬉々とした顔で急接近し、自身の顔を良子の顔へ近付けた。


「神童だったかなんだか知らないけど、もうそんな能力はなく、いまもろくに走れず、肝心の連係とやらでも一向に点が取れず、試合終了まであとわずか」


 にいっと笑みを浮かべながら、津田文江は良子の脇を抜け、振り向いた。その足元にはボール。駆け抜ける際に、良子から奪い取ったのだ。


「すべてを奪われ封じられた絶望の中、お前にあとなにが残っているんだあ? いってみろお!」


 下品に笑う津田文江であったが、次の瞬間、その目が驚きに見開かれた。


「あとは、勇気だけだあ!」


 良子が絶叫しながら津田文江へと突っ込んだのである。

 生じた一瞬の隙に、ボールを奪い、抜けた。

 膝の力が抜けてがくりとよろけるが、なんとか踏ん張り、走る。

 とても走っているとはいえないかも知れない。

 それでも良子は、勇気を胸に力の限り走っていた。懸命に、死に物狂いの形相で。


 怪我を恐れない勇気。

 逆境に立ち向かう勇気。

 仲間の心へ飛び込む勇気。

 自分を信じる勇気。

 小さな勇気が集まり合って後に大きな奇跡を生むことになるなど、全魂全走中の良子が知るはずもなかった。

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