第十三章 死闘の始まり  ―― 対前橋森越戦・その1 ――

     1

「凄いなあ、また4番7番の連係からやで」


 たかふたはなんだか楽しそうな、でもちょっとひきつったような笑みを浮かべていた。

 別に楽しいはずはないのだろうけど、もう笑うより他にないといった精神状態なのだ。きっと自分も同じような顔をしているのだろう。としんどうりようは思っていた。


「そうだね」


 良子はなんとかそれだけ口にすると、喉になにかが引っ掛かっている感じを覚えて唾を飲んだ。

 違和感は全然おさまらなかった。きっと心理的なものなのだろう。


「でも反対に考えれば、あの二人を抑えればうちがやりたいようにやれるってこと。そうなれば向こう、イラついてボロも出るかも知れないしね」


 楽観的な言葉を吐くのは、双葉と反対側の隣に座っているあしだ。

 楽観的というよりは、そうでもいわなければ重圧に潰されてしまいそうということだろうか。


 彼女ら三人の周囲には他の一年生がおり、その後ろには二年生三年生が座っている。


 ここは埼玉県川口市にある試合会場の客席だ。

 第一回戦を終えた佐原南フットサル部員は、同じコートで続いて行われている群馬県代表まえばしもりこし高校と茨城県代表おおあらいせんしや高校との試合を観ているのである。


 このどちらか、勝利した方と佐原南は対戦することになるためである。

 現在後半七分。この時点で前橋森越が8-0でリードしており、既にどちらと対戦することになるか決定しているといっても概ね間違いではなかった。


 双葉や留美のいう通り、得点のほとんどが4番と7番の連係から生まれていた。


 4番、一年生のこと

 小柄で俊敏であり、ボール奪取能力も高い。

 世代別女子日本代表に選出された経歴を持っている。


 7番、二年生のふみ

 女子フットサルにおける東北の名門であるおか中学校出身だ。

 代表に呼ばれた経験こそないが、フル代表に匹敵するようなフィジカルや技術を持つ選手だ。


 二人とも前橋森越でプレーするのは今年からだ。

 久野琴絵はまだ一年生なのだから当然だし、津田文江は二ヶ月前に宮城県から転校してきたばかりだからだ。


 前年までは、強豪と呼ぶにはどこか足りないところがあった前橋森越であるが、現在、欠けたピースがようやく埋まったどころの話ではなく、二人の活躍が呼び水となって完全に強者のチームへと変貌していた。


 勝者の意識に芽生えた前橋森越の中にあっても、やはり津田文江たち二人は群を抜いて目立っていた。

 二人の連係は、これ以上が存在するとは思えないほどの完璧さで、大洗銭写側は来ると分かっていても止められないようでであった。


 この後、さらに二点が追加された。

 二人の連係による撹乱を利用して、攻め上がったフィクソが豪快なミドルを決め、その一分後には津田文江が自ら得た第二PKを決めたのだ。


 10-0。

 前橋森越は、大量得点無失点の文字通り圧勝で初戦を突破した。


     2

 ネットでの下馬評などによれば、おおあらいせんしや高校はライバル校の不祥事などによりこの大会の出場権を運よく手に入れただけであり、初戦敗退はほぼ確定といわれていた。

 そのような相手に大勝したからといって、それは決してまえばしもりこしの実力を否定するものではなかった。

 強者が、弱者に対して一切の手を抜かなかった。ただそれだけともいえるのだから。


 きっかけは4番7番の活躍であるかも知れないが、全員が全員、自信を持って走り、パスを回していた。

 個人の活躍もあれど、全体として強豪。そう考えて間違いないだろう。

 もちろんあしのいう通り、4番と7番を押さえ込めれば勝機のぐんと上がることも間違いではないのだろうが。


 観客席から眼下の赤いユニフォームを見ながら、そのようなことを考えていた良子であるが、不意にぶるっと身体を震わせた。

 全身にぶつぶつと鳥肌が立っていた。


 ピッチ上で大洗銭写との挨拶を済ませて引き上げる前橋森越の選手たち、その中にいる津田文江が、客席にいる良子の方を見上げてにやりと笑ったのだ。


 良子はその視線に耐えられず、蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまっていた。

 彼女と戦うことになるかも知れないと、覚悟してこの大会に臨んでいたはずだというのに。


 先ほど、第一回戦が始まる前に彼女と話をしたが、その時には自分の主張したいこともいえて、かつて抱いていた恐怖心にとうとう打ち勝つことが出来たんだと自分の成長を喜んでいたというのに。


 こうしていざ対戦することが決定し、あのような視線を送られると、震えが止まらない。

 せっかく立ち直ってきていた自分の心が、あっけなく粉々に砕かれてしまいそうな気がして。

 でも、やるしかないんだ。


「やるしか……」


 良子は誰にも聞こえないような小さな声を出すと、ぎゅっと拳を握った。

 手の中はじっとりと汗ばんでおり、ジャージズボンの膝にこすりつけて拭った。


「おい、つぼみい、どうすんだよ。あいつら無茶苦茶強いぞ」


 後ろの席で、副主将のあらがみがすっかり動揺した声で隣の花咲蕾の肩を揺らした。

 副主将は大柄な体格にふさわしくいつもはどっしり豪快に構えており、これだけ狼狽しているのは良子の知る限り初めてであった。


 負ければ即終戦であり、無理もないことではあるが。

 地区予選で敗退するなど、佐原南が強豪として有名になってからの二十年でただの一度たりともなかったのだから。


「なあ、あたしら出た方がよくないか?」

「予定を変えるつもりはない」


 花咲蕾主将はにべなく冷静に返した。

「おーい、意地になってんじゃねえぞこらあ」


 荒上真子は、蕾のほっぺたを両手でむぎゅーっとつまんで引っ張った。荒上先輩は、女海賊などといわれ恐れられている花咲主将にこのようなことの出来る唯一無二の人間なのだ。


「離せ。別にわたしは意地になんかなっていない。全体を冷静に考えているつもりだ。戦力温存して、残り三戦を上級生で勝ちに行く。それだけだよ」

「だからあ、ここで負けたら意味ないんだってえ。……ならさ、三人まで上級生を出せるようにしない?」

「断る。それにもう登録は終了している」

「えー、おかしいだろそれ。一試合ごとに登録する仕組みだけど、次の試合まで猶予はもう少しあるはずだろ」

「初戦の分とまとめて提出した。もう受理されて、変更は出来ない」

「蕾! お前なーっ!」


 荒上真子は声を裏返しながら、蕾の頬を千切れんばかりに引っ張った。


 こんなやりとりを背後に受けながら、良子は考えていた。

 花咲主将が一体どういうつもりでいるのか。

 本当にわたしたち一年生を信じているのか。

 それとも試合に負けてもいいと思っているのか。


 いずれにしても先ほどの主将の言葉により、なにかあれば上級生が助けてくれるという期待は水泡に帰した。

 一年生だけで、戦わないとならないのだ。

 あんなに凄い試合をしていた相手と。

 わたしの指揮で。


 責任感で、潰されそうだ。

 だけど、やらなければ。

 ここまで来て逃げ腰になっていたところで、どうしようもないだろう。

 主将代理として選ばれたからには。


 いや……そうじゃない。押し付けられた責任だなんて思うな。

 これは、わたしのための戦いでもあるんだ。

 成長を実感し、未来を切り開くための。

 そうだ。

 やるぞ。


 津田先輩がなんだ。

 精一杯、やれるだけのことをやってやるぞ。


 だけど……

 だけど……

 手の震えが、

 全身の震えが、

 とまらない……


「おおお、試合が近づいてくるう。なんか緊張すんなあ。なあ良子」


 高木双葉が、夏だというのに寒そうにぶるぶる震えてみせた。


「そうだ、ね」


 良子は微笑んだ。

 でもその笑みは、双葉を冗談でなく凍結させてしまうほどに、ぎこちのないものであった。


 演技で大袈裟に震えている双葉以上に、良子の方が震えていたのである。


     3

「……それと、4番7番が出ている時には、なるべく前目でボールを回すようにしよう。引けば止められると思わない方がいい。だったら前に出る方が得点のチャンスも増える。あと、シュートで終わることも大切。速攻には気をつけよう」


 床に置かれたリストフォンから空間に投影されている布陣図を使って、しんどうりようは部員に取り囲まれ戦術や戦いの意識付けについて話をしている。


「前目でボールを回せなかった場合は?」


 主将のはなさきつぼみが、淡々とした口調で質問した。


「それこそ、もう練習でやり込んであります。あたし今日になるまでは、先輩怖い津田先輩怖いって、それだけだったから」


 だからこそ防戦一方になることも考えて、超強豪と想定しての戦術シミュレーションで対策を練って、何度も反復練習を行った。


 ただ、その怖い津田文江の個人データを入力してのシミュレーションが出来ていない点が、良子の心残りであった。

 良子の精神がどん底から解放されたのは今朝のことであり、それまではふみの名を聞くだけで発狂しそうになっていたくらいであり、どうしようもなかったのであるが。


「分かった。信じよう」


 花咲蕾主将は、小さく頷いてそれきり口を開かなかった。


「シャク、この前のこと、ほんとごめんな。シャクの子供の頃の話なんか持ち出しちゃって。あたし、なんにも知らなかったから」


 代わりに口を開いたのは、二年生のくちである。


「そんな。隠していたあたしも悪かったんです。先輩には、きっかけを作ってくれて感謝しています。おかげで、いままで逃げていたことに立ち向かう気になれたんです。……確かにまだ怖いけど、でも、新たな自分に会えそうでわくわくしている、そんな自分もいるんです。だから、気にしないで下さい」

「そういってもらえると、救われるよ。ほんと良い子だな、お前は」


 武朽は目を潤ませながらポケットテッシュを取り出すと、豪快に鼻をかんだ。


「対策の話に戻るけど、相手さあ、結構キックインからチャンス作ってたよな。プレーの切れたところから、強引に自分たちのペースに持ってくのが上手な印象。どの選手も、その4番と7番を信じて一気に上がるから、気をつけろよ。一瞬の油断が命取りになるから」


 助言をするのは二年生のぐろふえ

 その言葉を受けて、また武朽が口を開いた。


「早い話が、その二人のチームってことだろ。でも勢いをつけたかったのか、二人とも初戦に随分と出ていたから、次はそんなには出てこないんじゃないの? あっちはほとんど間髪入れずに第二回戦なんだし、負けるつもりでいるわけないから次の試合のことだって考えているだろうし。その場合の攻め方は考えてんのか、シャク」

「いえ。特には」

「おい……」

「入手出来たデータだけでは、あまりにも失点が無くて戦力が分からないんですよ。だって公式戦では一失点もしていないんですから、どういうパターンで失点をしたなんて分かるはずがない。むしろ4番7番がいる時の方が、こちらの攻め時でもあるかも知れない。ハーフタイムになれば、もう少し色々と話せることは出来ると思いますけど。とにかく前半戦に関しては、臨機応変にやろうと思っています」


 わたしの心が津田先輩と向き合うことの緊張に耐えられればの話だけど。良子はそう思ったが、もちろん口には出さなかった。


「前橋さんと佐原さん、もうすぐ試合です。準備して下さい!」


 係の男性が拡声器で、校名をまるで人名のように呼び掛けた。


 佐原南の部員たちは、誰からともなく動き始め、良子を中心として二重円を作り並んだ。一年生が内側で、二年生三年生が外側だ。

 良子は少し緊張したように黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「わたしたち一年生にとっては、これが予選大会最後の試合。残る力を出し切って、先輩たちにバトンを繋げよう」


 良子はぐるり一年生の顔を見回した。

 やはりみな一様に緊張している表情。しかし強がって笑みを見せていたり、小さくガッツポーズを取ったりと、それぞれに重圧と戦っているようであった。

 良子はそんな仲間たちをたくましく思うと同時に、緊張を解いてやる術をまるで持っていない小さな自分がもどかしかった。


「頑張れよ。気合いだからな、気合い気合い気合い」


 気合いを連呼する三年生のなるみやもも


「はい」


 良子は微笑を浮かべ頷くと、すっと息を吸い込んだ。


「佐原南、勝つぞお!」


 一気に吐く大声に、精一杯の気持ちを乗せた。


「おう!」


 円を作る部員全員が、良子の音頭に応じて声を張り上げた。


ぜんこんぜんそう!」

「おう!」


 全魂全走とは読んで字のごとし、全ての魂を込めて走りを全うしようという意味だ。

 部の創設後まもなく誰かが考え出して、それが三十年経過した現在でも伝統として残っているのだ。

 かつて雑誌や新聞にも取り上げられたことがある、佐原南の代名詞ともいえる言葉だ。


 この言葉を発するのは通常はキャプテンのみであり、だから良子はまさか自分が叫ぶことになるなどと思ってもいなかった。


 でも、おかげで自分の中に力が湧いた気がする。

 この前まで、前橋森越と戦わないで済むのならそれに越したことはないと思っていた。でもきっとそれは、違っていたんだ。思っていると思い込んでいただけだったんだ。


 二回戦に進めば絶対に前橋森越と当たる。

 そう確信していたからこそ、だから、自分はここへ来たんだ。


 津田先輩と戦い、過去の自分を乗り越えたいと。


 ぶつからなければ、乗り越えることなど絶対に出来ない。

 だから。


 やるぞ……

 やるぞ!


 新堂良子、十五歳、全魂全走だ!


     4

 ピッチ上には十人の選手が立っている。

 深い青のユニフォームを着ているのが佐原南のFP、

 むらたにさく

 たか

 すず鹿すみ

 あし、の四人だ。

 ゴレイロのゆずは、蛍光ピンクの上下である。


 対するまえばしもりこしは、FPは赤の上下で、ゴレイロは緑である。


 ふみはこの中にはいない。

 ベンチからのスタートだ。

 しかしそれは、良子に安心をもたらすなんの材料にもなってはいなかった。


 フットサルは退場しない限り何度でも一人の選手がピッチに入ることが出来るのだ。試合開始一分後に入ってきたっておかしくない。

 おそらく前半戦のうちに一度は出てくるだろうし、もしも出てこないとしても、それは後半戦に備えて翼を休めているだけ。そう思うと、むしろピッチにいないことが安心出来ないどころか不気味ですらあった。


 もう一人の要注意人物であることは、スターティングメンバーの中にいる。

 一回戦では、津田文江以外とも高い連動性を見せていた。

 世代別代表に呼ばれたことがあるくらいだから当然ではあるがボールを扱う能力も非常に高く、決して油断してはならない選手だ。


 油断がならないといえば背番号2番、主将のまつながも同様か。

 去年までは目立った戦績を上げてはいないが、代表クラスの二人が入ったことで芽生えた闘争心か、主将としての責任感か、引退前最後の大会を悔いなく終えたいという思いからか、先ほどの第一回戦では守備に攻撃にかなりの貢献を見せていた。


 この三人がピッチ上に立った時、果たして一年生だけで止めることが出来るのだろうか。

 我々一年生は、先輩たちと違ってまだ連係が完成していないし、みな中学の夏以来の公式戦で試合勘にも不安があるというのに。


 でも、連係の未完成というならば向こうも同じだ。

 確かに4番7番、久野琴絵と津田文江による破壊力は凄まじい。

 しかし第一回戦を見ていて感じたことであるが、連係といってもそれぞれの個人能力に頼ったところを基点としたものに過ぎず、長い間ボール交換を続けてきたことにより生じたようなものではない。

 つまり、能力の高い選手がフットサルのセオリーに従ってコンビネーションプレーを行なっているだけ。

 しっかり集中を切らさず戦えれば、ある程度守り切ることは可能かも知れない。


 ただし、攻撃をどうすればいいか。

 先ほど第一回戦を観察したが、さすが本年度の公式戦で無失点を続けているだけあって、まるで穴がなかった。


 審判のファール見過ごしから決定的といえるチャンスを一度だけ作られてしまっていたが、さして印象強く記憶に残っていない。圧倒的に強かったというイメージのみが残った試合であった。


 我が部の先輩たちならば、これまで培ってきた連係と抜群の個人技とで、このような不安などものともせず簡単に打破してしまうのかも知れないが。


 とか、そんな役に立たない泣き言をあれこれ唱えていても仕方ないよな。この試合の登録メンバーは、もう決まってしまっているんだ。

 いくら花咲主将に泣きつこうとも、変更することなど出来ないんだから。


「そうだ。やるしか、ないんだ」


 指揮官としてピッチ脇に立った良子は、小さく口を開いて呼気のような声を漏らした。


 第一審判の女性が、ずっと第二審判となにか話をしていたが、それが終わると今度はピッチを横断してタイムキーパーへと向かった。

 試合直前の、細かな打ち合わせをしているのだ。


 もう間もなく試合開始時間だということに、会場はすっと飲み込まれるように静かになっていった。


 静けさを受けて、ピッチに立っている佐原南の選手五人、村谷咲美、高井真矢、鈴鹿澄子、芦野留美、九頭柚葉、全員の顔が決意に引き締まった。


 みんな、頑張って。

 良子は胸の中で念じた。


 簡単な試合になるはずがない。

 でも、やるしかないんだ。

 絶対に、勝とう。

 勝って、みんなで喜び、笑おう。


 おそらくみなが良子のように自分の胸にそれぞれの決意を誓っていたであろう、その時であった。

 観客席からまるで爆音といっても大袈裟ではない、振動に天井が崩れるのではないかというくらいの大声が聞こえてきた。


「柚葉あーーーーーっ!」


 観客席中段の席にて、すっかり禿げ上がった小太りの老人が立ち上がって、叫びながら巨大な旗竿をぶんぶんと振り回している。


「ゆっずっはっ! そおれゆっずっはっ! さあ、みなさんもご一緒にい! 佐原南高校の、あの一人だけテカテカのピンクなのが柚葉です。わたしの孫娘なんです。花婿募集中です。柚葉あーーっ! 柚葉あーーっ!」


 老人はどうでもいいことをいうと、なおいっそうの大声を張り上げ始めた。


「おじいちゃん、やめてよもう!」


 九頭柚葉が堪え切れずに、顔を真っ赤にしながら観客席へと近寄って、見上げ叫んだ。


 会場内のあちこちから笑い声が上がり、柚葉はますます顔を赤くしながら祖父を睨みつけた。


「仕事で来られないっていってたでしょ? どうしてこんなとこにいるの」

「可愛い孫娘の晴れの舞台だ。仕事なんかどうでもいい。仕込みだけ終わらせて、あとはよしひこ君とづきにすべて任せてきた。でも安心するがいい、二人の分までわたしが応援するぞお! ゆっずっはあ!」

「だからやめてってばあ! 柚葉、恥ずかしいよお!」


 泣き出しそうな顔で懇願する柚葉であったが、ちょっと照れているという程度にしか思っていないのか老人は平気で大旗を振り続け、そして……


「やめてください。観客席で大旗を振るのは」


 係員に旗を取り上げられてしまったのであった。


「なにをするんだ君い、せっかく徹夜で作ったのに。くそ、旗がなくたって応援してやるぞ。みなさん聞いてください! 埼玉じゆうまんごくまんじゆうも抜群に美味しいが、佐原駅南口にある九頭和菓子も負けず美味しいぞお! みなさん、佐原観光の際には是非お立ち寄りを。来られない方も安心、ネット通販もやっております!」

「それさあ、応援じゃなくてお店の宣伝じゃん……お仕事どうでもいいとかいっといてさあ」


 柚葉はぼそり呟きながら踵を返し、諦めたような表情で戻り始めた。


「お前、家では自分のこと名前で呼んでるんやな」


 高木双葉が、良子の隣で楽しそうににやにや笑みを浮かべている。


「悪いかよ」


 柚葉は、ちょっと恥ずかしそうに、ふて腐れた表情をぷいと横へ向けた。


「別にい。ええんとちゃうのお。言葉使いも可愛らしくてさあ。柚葉こまっちゃうよおお、なんてなあ。今度学校帰りにお店に寄って、あのおじいちゃんと話してみようかなあ。色々と面白そうな話が聞けそうだなあ」

「やめろ! 蹴り殺すぞ。お菓子ただでやるから絶対来るな!」

「楽しいおじいちゃんだね」


 良子が、微笑ましい表情で柚葉を見ていた。

 柚葉のところは、一人っ子という寂しさはあれども両親がしっかり揃っていて、それどころか祖父も祖母も一緒に暮らしている。母が一緒にいない良子には、なんとも羨ましかったのだ。


「楽しいなんてもんじゃないよ。ぶっ飛びすぎ。お母さんの高校時代もやっぱりこうして応援に来たらしいんだよな。ほんと迷惑。最悪だよ。畜生め」


 柚葉は床を蹴りつけた。


 良子は楽しそうに、声に出して笑った。

 ……だけども、その足は震えていた。


 もう間もなく前橋森越との試合が始まる。

 それがたまらなく怖く、だから自分の気持ちをごまかすようにこうして他人のことばかり考えていた。

 しかし、恐怖心をそんな程度でごまかせるはずがなかった。


 気づけば足だけではく、全身が震えていた。

 手の、指先まで、ぶるぶると。


 でも……

 そうであるからこそ良子は、あえて津田文江へと視線を向けた。


 向こうも、良子を見ていた。

 こちらの視線に気づいたからではなく、おそらくずっと見ていたのだろう。


 津田文江は、薄い笑みを浮かべている。

 お前の心の中、全部知っているぞ。そういわんばかりの、表情であった。


 良子は、ここから逃げ出したい気持ちをなんとか押さえ付け、津田文江へ視線を向け続けた。


     5

「良子、あんまり気負うな。フットサルは個人戦やないで」


 たかふたが、肘でそっと良子の小さな肩をつついた。


「分かっている。……ありがとう」


 そういいながらもなかなかふみから視線をそらすことが出来ない良子であったが、やがて軽く彼女へとお辞儀をするとピッチへと向き直った。タイムキーパーと話をしていた第一審判が小走りに戻って来るのが見え、それが視線をそらすきっかけになったのだ。


「時間になりました。試合を始めます! 準備はいいですか?」


 第一審判は、自分の持ち場であるサイドライン際に立ち、笛を手に取った。


「いつでもオッケー。よーし、今度こそ無失点で勝つぞー!」


 ゆずは、グローブをはめた手をばすばすと叩くと、両手を振り上げて叫んだ。

 強い相手を前に、あえて平静を装っているようにも見えた。


「まずは練習通りに! 一回戦を勝った自分たちの実力を信じよう!」


 良子も大きな声を出し、おそらくガチガチになっているであろうピッチに立つ仲間たちの硬さを取り除こうとした。


 自分が一番緊張しているくせに。

 足が、全身が、ぶるぶると震えていつまでも止まらないくせに。


 良子は、そう心の中で苦笑していた。

 何気なく後ろを振り向くと、一年生、二年生、三年生、みなピッチに立っている選手以上に硬くなっているようにも見えた。

 自分以上に酷いのはさすがにいなかったが、でもみんなのその態度、表情に、良子はすこしほっとした気持ちになった。


 そうだよな。

 誰だって、緊張して当然だ。

 なんにもなくたってそうなのに、あれだけとんでもなく強いところを見させられれば。

 負ければすべて終わってしまうということを思えば。と。


 さらに良子には、相手の主力選手である津田文江との個人的な因縁があるのだからなおさらだ。

 良子は緊張を受け入れつつも、その緊張を吹っ飛ばすようにぶんぶんと首を振った。


 審判が、手にしていた笛を口にくわえた。

 いよいよ、試合が始まる。

 良子は、拳をぎゅっと握りしめた。


 笛の音が高らかに鳴り響いた。


 この笛が、高校生フットサル史上に刻まれる激闘、いや死闘の始まりを告げるものであったなどど、果たして誰が想像出来たであろうか。


     6

 強い。

 そのような漠然とした感想しか抱けなかったのは、良子だけではなかっただろう。


 ただしそれは、真実を端的に表している言葉でもあった。

 絶対的な重みを持つ言葉であった。

 それほどにまえばしもりこしは、佐原南を圧倒していた。


 選手配置のバランスやリスクにおける比重から、攻撃的か守備的かチームの評価をすることがあるが、前橋森越はすべてがニュートラルなままで強かった。

 前への推進力が後ろの堅牢さを生み、後ろの堅牢さが前への推進力を生んでいるのだ。


 どうやら4番、ことの動きによるところが大きいようである。

 彼女の一見奔放な動きが、要所要所で味方の攻撃や守備を助けているのだ。


 味方の力を引き出して倍加するだけでなく、彼女自身もさすが中学時代に何度も世代別代表に選ばれただけあって抜群の個人技を持っている。


 いまもすず鹿すみが簡単にかわされて、あしがファール覚悟のプレーでなんとか食い止めたところだ。


 澄子は一年生の中では留美に次ぐ経験と実力を持っており、留美より優れた部分もあり、自信をにおわすような言動がこれまでも多かった。

 しかし現在の彼女の表情からは、そのような自信などまるで感じることが出来なかった。

 4番の個人技や、全員の迫力ある攻め上がりに、なりふり構わず食らいつくだけで精一杯の様子であった。


「ありがと、ルミ。助かった」


 澄子は、危機を逃れたことの安堵、留美への申し訳ない気持ちと屈辱、自分自身や敵である久野琴絵への悔しさなど、ごちゃごちゃとない混ぜとなっているような難しい表情で、小さく頭を下げると、きゅっと唇を結んだ。


「気にしない」


 留美は一瞬だけ笑顔を見せると、すぐに厳しい表情に戻った。


「ここ集中! 絶対に守ろう!」


 しんどうりようが手を叩き、ピッチ内にいる仲間たちへと叫んだ。


 佐原南ゴール前に、両校の選手たちが集まってきた。

 敵味方がひしめき合う中、前橋森越4番、久野琴絵がFKを蹴った。

 その流れからパスを繋がれたが、最後はシュートミスで、佐原南は失点を危機を逃れた。


 しかし、佐原南の選手たちに生じたのは安堵よりも、むしろ不安の方が遥かに多かったかも知れない。

 細かなパス回しに、佐原南の守備陣はすっかり崩されてしまっていたからだ。

 あとは押し込むだけというシーンで相手がミスをしてくれたから運良く助かっただけで、本来ならば早速失点していたところだ。


 みんな、しっかりと集中はしていた。

 でも、崩された。


 相手のこういったプレーを想定しての練習をあまりしなかったから、そこは自分の責任だ。


 良子は自責の念にかられた。

 限られた時間の中、想定練習はどうしても取捨選択をする必要があり、どうしようもないことではあったのだが。


 それにしても、本当にとんでもない強さだ。

 良子は相手の圧倒的な実力を認めざるを得なかった。


 去年までの前橋森越は、全国大会では毎度のように初戦敗退しており、大会出場常連の有名校ではあるものの評価としては中堅以下という存在であった。


 代表級の二人が入ったことによって今年は劇的に強くなったといわれているが、ただそれだけでここまで変われるものなのか。

 二人とも出ているならまだしも、現在一人はベンチにいるというのに。


 ただそれだけでここまで変われるものなのだろう。

 それを今、目の当たりにしているのだから。


 振り返れば、石巻くさぶえFCや、おか中学校にいた頃だって、何度もそういうチームを見てきた。


 弱小チームが、たった一人の存在によりがらりと変わってとんでもない強さを発揮するのだ。


 点が取れるものだから、その一人が出ていない時には全員でしっかりと焦らず守ることが出来る。

 守るだけでなく、自分たちは勝てるんだという自信から、どんどん仕掛けることだって出来る。その選手がベンチにいてくれるというだけで。


 久野琴絵とふみという代表級の二人が、前橋森越の部員たちにとってそのような存在になったということだろう。


 もともと足りぬのは個のみといわれていただけあり、全体が実によく統率されている。

 攻めては稲妻の如く、守っては鋼の如くであり、佐原南としては試合始まって間もないというのにすっかりどうしようもない状態に陥っていた。


 今年の公式記録で失点がゼロということから、守備の硬さは誰にも想像が出来たであろうが、攻めにおいてここまでの破壊力を持っているなど良子以外の誰も想像していなかったに違いない。


 良子にしても単に津田文江を知っているから恐れていたというだけで、ここまでチームとして統率された攻撃を仕掛けて来るなど思ってもいなかった。

 去年までの戦績を考えると、今年の快進撃は代表級の二人以外とにかく守備に徹することで成しているものかとばかり思っていた。


 ところが現実は、代表級二人の個人技のみによらず、チームとしての攻撃力も素晴らしく、佐原南だからこそなんとか守ることが出来ているといって過言ではなかった。


 現在のところまだ得点は動いていないが、でもこのままではいつまで耐えることが出来るか。


 良子の手の内側に、じっとりと汗が浮かんでいた。

 策を考えようとするが動揺して浮かばず、押し込められ翻弄される仲間たちをただ見つめていることしか出来なかった。


     7

 ボールが床の上を疾る。

 次から次へと目まぐるしく。

 前橋森越の選手たちは、ただ回すだけでなく、隙あらば佐原南の守備陣を切り裂こうと果敢に仕掛けてくる。


 現在ピッチに立っている前橋森越の選手は一年生である久野琴絵を除いて、去年までの常に大会初戦を敗退していた者たちであるというのに、この自信に溢れたプレーはどうだろう。

 心の奥底すみずみにまで勝ち癖が広がっているようであった。


 特に2番、主将のまつながの動きが、時に堅実で、時に狡猾で、良子にはある意味で久野琴絵以上に厄介に感じられた。


 部の設立以来、初めて全国大会で初戦を突破出来たということに加えて、強豪として名高い佐原南を現在のところ圧倒出来ているということで、すっかりと波に乗ってしまっているのだろう。


 あしと、5番が競り、こぼれたボールが高く上がった。

 長身のむらたにさくが自信を持ってハイボール処理をしようとしたが、前橋森越主将の松永千恵子に密着され動きを封じられてトラップ出来ず、落ちたボールを4番の久野琴絵に拾われた。


 久野琴絵は、すぐさま踵を返して走り出した。


「みんな戻って!」


 良子の指示を待つまでもなく、佐原南のFPはみな自陣へと走り出していた。


 前橋森越の2番と5番の二人が、守備陣を完全に突発して佐原南ゴールへと向かっていた。ハイボールの守備からの奪取が、チーム攻撃のスイッチだったのだろう。


 ゴレイロのゆずは、引いたまま動けずにいる。

 ボールを持つ久野琴絵はまだ後方であり、5番と6番のどちらにパスを出すことになるのか、または自分で攻め上がるのか、そこか分かるまで動きようがなかったのだ。


 久野琴絵はゆっくりとドリブルをしながら、奪おうと飛び込む村谷美咲をさっとかわし、大きく前へ上げた。

 右と左に分かれて佐原南ゴールへと加速する5番と6番。久野琴絵のパスは、5番へ向けてのものだった。

 5番の背後からボールが落ちていく。


 柚葉はゴール前から飛び出して、5番へ向かい全力で迫る。

 だが、経験もしくは本能が怪しいと告げたのだろうか、足の回転に急ブレーキをかけた。


 読みは正しかった。

 5番は、ヘディングで6番へとパスを出したのである。柚葉が向かってこないと分かっていればパスを出さずトラップしていただろうが、まさか急に止まるとは思わず、判断が間に合わなかったのだろう。


 横へと走り、そして大きく飛んだ柚葉は、6番の頭上へと落ちようとしていたボールを、振り回した腕で思い切り弾き飛ばした。


 柚葉は床に倒れた。

 絶体絶命といってもよいピンチを救ったファインプレーに、観客席からざわっと声が上がった。


 だがまだ前橋森越の攻撃は終わっていなかった。

 落ちたボールを久野琴絵が拾い、遠い射程ではあるものの、無人のゴールへと狙いすましてシュートを放ったのである。


 代表クラスの個人技を考えれば、今度こそ決まったと誰もが思っただろう。

 確かに枠は捉えていた。

 弾道、球速、決まって当然のシュートであった。


 だが、決まらなかった。


 素早く立ち上がった柚葉が、改めて横っ飛びし、かろうじて指先をボールに触れたのだ。

 わずかに軌道が変わり、クロスバーを叩き、真下に落ちた。


 低くバウンドするボールに6番が詰め寄るが、全力で駆け戻った留美がなんとか間に合い、ボールを蹴り出しキックインに逃れた。


「ルミ、サンキュ。助かったよ」


 柚葉は起き上がると、明るい表情で立てた親指を突き出した。


「こっちこそ、その前にユズに助けられたよ。迂闊に上がりすぎてた」


 留美は軽く笑みを浮かべた。


 二人とも本当の気持ちをごまかして笑みを無理やり作っているように、良子には思えた。自分がそうしておかしくない状態だから、他人のこともそう思えてしまうだけかも知れないが。


 なんとか難を逃れた佐原南であるが、だからといって希望の沸いて来るような状況ではなかった。

 このままでは、開始数分ともたず疲れ切ってしまう。

 身体よりも、精神が。


 柚葉が神業のようなプレーで失点を防げば防ぐほど、良子の気持ちは絶望的になっていく。

 だって、ゴレイロが活躍するということは、それだけ攻められているということに他ならないのだから。


 現在すでにこのような状況で、さらに津田文江までがピッチに立ったらどうなってしまうのか。


 なにか、手を打たないと。

 このままなにもしなければ、絶対に負ける。

 分かってはいるものの、考ようとすればするほど焦るばかりであった。

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