第一章 成層圏同盟

     1

「あれええ。ねーえお父さん、これってどこ置くんだっけえ?」


 しんどうりようは両手に抱えていたカラーボックスをいったん床に置くと、額の汗をタオルで拭き拭き。

 まだ三月で、今日は湿度の低い爽やかな陽気のはずであるのだが、朝からの重労働にもうへとへとの汗だらだらであった。


「それは一階の……あれ、そもそも部屋割りどう決めたんだっけ?」


 しんどうだいろう、良子の父親、五十歳は居間の中央に積み上げられた荷物の上にどっかり筋肉質の巨体を下ろして、涼しげな顔で一つ二十キロのダンベルをそれぞれ両手にふんふんと持ち上げている。

 涼しげであるのは怪力であるということと、ただなにも考えてないからというだけのようだ。


 いいやもう、と良子はため息。

 ほんと頼りないお父さんなんだからなあ。


「親父い、おれのタンスは二階の南側の部屋に置いてあるっていってたくせに、姉ちゃんのパンツとかそんなんぎっしりだぞお」


 ぼさぼさ髪の新堂家次男、良子の弟であるゆうが気だるそうな顔で二階から下りてきた。

 その言葉にびくりと肩を震わせたのは良子である。


「ぎゃーーーー、なに開けてんのよお! それ姉ちゃんのタンスでしょおおおっ! 魔法天使プリムラビーンのアリンシモンズのシールが横に張ってあるのが姉ちゃんのだって引っ越しする前にいっといたでしょ!」


 良子は下着を見られた恥ずかしさに顔を真っ赤にして怒鳴った。

 干された洗濯物を見られるのは幼少時より慣れているので別にいまさらなんということもないが、収納にぎっしり詰まっているのを見られるのはさすがに恥ずかしいのだ。


「だってえ、親父があ」


 唇を尖がらせる雄二。


「そうそう、そうなんだよ。お父さんが、おれは司令塔だとかいって動かないでさぼってるから! だから上のこととか分からないし、脳がぐでーっとしておかしなこといっちゃうんだよ。ダンベルなんか持ち上げてるんなら、家具の一つでも運んで鍛えれば一石二鳥でしょ! 非力な非力な非力な非力な兄貴だって頑張っているんだからさあ」


 忍耐力が臨界点突破して核爆発しそうになった良子が、ぐちぐち小言をいうことでベントをしていると、また階段から一人下りてきた。


「非力をそこまで連呼することに、なんの意味があんだよ」


 それは眼鏡をかけてひょろりひょろりとした、青年の一歩手前と思われる風貌の少年であった。


「ま、実際その通りだけどな」


 自虐的なことをいいながら机から引き出しを抜き取ると、ろくになにも入っていないというのになんだか重たそうに両手に抱えて歩き出した。

 新堂家の長男、こう。良子の兄である。


「ねえねえ、これはあ?」


 小さな女の子が、ガタゴトと引きずるように椅子を運んできた。


「いいよいいよ、置いといて、危ない危ない」


 良子は椅子を取り上げると、そっと床に置いた。


「子供扱いしてえ!」


 女の子はまるでフグのように、もしくは餌をたっぷり詰め込んだハムスターのように、ほっぺをぷうっと膨らませた。

 今年から幼稚園年長組に上がる、新堂むつだ。


 だいろうこうりようゆうむつ。これが新堂家の家族構成である。


 子供たちの春休みを利用して、一家で宮城県石巻市からここ千葉県香取市の借家へと転居してきたのである。


 引っ越しを安く済ませるために社内の運送部を利用したはいいが、運送部は当然ながら社員へのサービス業などではないため、運搬後の労力負担はすべて新堂一家にかかっているというわけであった。


 なお転居理由は、月並ではあるが父親の転勤によるものだ。

 転勤というよりは東北復興支援の仕事が終って関東へ戻ってきたというのが正解らしいが、でもそれは親の感覚だ。


 良子ら子供たちは全員が全員とも宮城県石巻市で生まれ、今日までずっと石巻で過ごしたのだから、どこが故郷かと問われれば石巻に決まっている。関東だ千葉だなどといわれても、まるでピンとこない。


 ルーツであるということがどうにもピンとこないというだけではなく、そもそも良子は千葉県など名前を見聞きしたことがある程度でどこに位置するかなどまったく知らなかった。


 場所について漠然としたイメージは持っていたが、先日地図を見てみたところデタラメもいいところだった。


 茨城県の位置もよく分かっていなかったが、とにかくその茨城県と福島県の二県に挟まれているような、そんな感覚でいたのだ。


 でも、東京はまだよく分からないけど、この香取市は気に入っている。

 この近辺だけかも知れないが、これまで暮らしていた石巻と比較して、田舎っぽさにおいて似たようなものを感じるからだ。喧騒にまみれた都会なんかより、こういうところの方がよっぽどいい。


 まあほんのちょこっとだけ、想像していた大都会ではなかったという落胆もあるにはあったが。


 香取市を気に入っている理由であるが、辺鄙な田舎町だからというただそれだけではない。

 入試後の学校見学で佐原南高校にフットサル部のあることを知ったのであるが、それで興味を持って当時住んでいた石巻の自宅に帰宅後ネットで調べてみて、びっくり仰天するような事実が判明したのである。


 佐原南高校が、千葉県での女子フットサル部の名門校であるということ。これが一つ目。


 でもそれは、さしたる驚きではなかった。


 良子を心底仰天させたのは、現在の日本の女子フットサル界を作り上げたといっても過言でない生き伝説的な存在であるゆうが、なんと香取市に住んでいた時期があり、それどころか佐原南高校の女子フットサル部に所属していたということであった。

 これに運命を感じずに、なににビビッとくればよいのか。


 急遽決まった千葉への引っ越しも、学力レベルのそこそこ高いといわれている佐原南の入試が緊張していた割には何事もなく無事にクリア出来たことも、すべては運命だったのだ。


 ならば天が導いてくれたこの香取市、好きにならないわけないではないか。

 いっそ香取市と石巻市で姉妹都市にでもなってしまえばいいのに。いや、都市ではないけれど。どっちも。


 そんなことどうでもいい。

 なんか、ボール蹴りたくなってきたぞお。

 あとで児童公園か利根川河川敷にでも行ってこよっと。

 小さな子供がいたら誘ちゃってえ。

 身体がむずむずしてきたあ。


「よーし、ハイテンションでえ、家具の移動を一気にやっちゃうぞーーーっ。どかああん!」


 良子は右腕を突き上げた。


「また姉ちゃん、自分の世界に入ちゃってるよ」


 雄二はさして興味なさそうに、自分の家具だけせっせと運び続けている。


「ほら、お父さん、一番体力あるんだからそれ運んでっ! 兄貴は、机の引き出し一つずつでも運んでて。それであたしはあ、よおし……」


 とテンションアップで三倍速になった良子。

 びしびし動いて運んで指示出して、一番の力持ちである大五郎もお尻を叩いてしっかりと働かせて、こうして部屋の片付けは予定よりも遥かに早く、夕方までにあらかた終了したのであった。



 でも良子はこの日、外へ出掛けたりボールを蹴ったりすることは出来なかった。

 重労働を頑張り続けたせいですっかり腰を痛め、それどころではなくなってしまったのである。


「テンション、最悪う……」


 二階のベッドで俯せ寝になってローテンションな顔を枕に埋めながら、神を呪う良子であった。


     2

 数日が経過して腰の痛みもすっかり感じなくなったし、無茶しない程度に散策でもしよう。という軽い気持ちでサンダル履きで外へと出た良子であるが、身体を包み込む空気の気持ち良さにいつしか走り出してしまっていた。


 気持ち良いといっても、近くの356線は大型トラックが頻繁に行き来しているし、地図上を広範囲で見れば都会と工場コンビナートに挟まれているわけで空気はそれなりに汚れている。

 素朴な景観などの網膜に飛び込んでくる情報が良子の感性と相性抜群だという、ただそれだけのことである。


 良子が家族と暮らす新居は、JR佐原駅から北西へ徒歩十五分くらいのところにある。住宅街の外れに面しており、二階の窓からは広がる田園地帯が見えるようなところだ。


 サンダル履きで家を出て歩いていた良子は、途中から足元も気にせず走り出して、住宅街を抜けて佐原駅へと向かった。


 駅を通り超えたところにある通路を渡って、線路の上を越えて駅の北口から南口へ。


 ガラリと景観が変化する。

 時代劇にでも出てきそうな、古風な町並みに。

 ここ佐原は小江戸と呼ばれる、昔の面影を多分に残した観光地なのである。

 だが、祭の時期でもない限りそれほど観光客で賑わうこともなく、良子はすいすいと進んで行く。


 このままさらに真っ直ぐ進むと小江戸も終わって単なる田舎町といった眺めに変わり、そのままうねうねとした坂道に繋がって良子の通うことになる佐原南高校へと行ってしまうのであるが、腰痛治りかけの身体に負荷はかけられず小江戸が終わる直前を右折。

 住宅に挟まれた道をちょっと真っ直ぐ進んで、また右折。

 すると前方に、恐ろしく大きな鳥居が見えてきた。天を突くような巨人にすら、大きすぎるのではないかというくらいの。

 香取神社だ。


「楽しい~っ」


 その鳥居を目にした良子は、人目憚らず笑顔で叫んでいた。

 引っ越してきた早々に腰を痛めてしまい、数日間歩くこともままならない状態であったため、インターネットで地図を見たり観光情報を調べたりして佐原の情報を入手してはいたものの、でもやっぱりそこの空気を味わいながら直接その目で見ることは格別であった。


 格別ではあったが、足の甲がひりひりとして痛くなってきた。

 サンダル履きでずっと走っていたため、皮膚がすれて剥けてしまったのだ。

 仕方なく、走るのをやめて徒歩に切り替えた。


 住宅地を歩き、戻るようにまた線路を越えて駅の北側へと出た。


 コンビニに、ファミレス、ビデオレンタル店に図書館市民体育館。

 特段なんということのない、でも新鮮で楽しい風景。

 人口の密集度合いとしては、石巻よりこちらの方が明らかに都会っぽい気もするが、商業施設の数などはどっこいどっこいのようである。


「まあ、どっちも愛すべき田舎ということだろうねえ」


 ここへ来るまでは、千葉県はどこもかしこも大都会なのだと信じていた。


 子供の頃から兄に、東京都の土地は百パーセント平地で高層ビルのみで構成されており、鉄道も在来線がすべてリニアモーターカーであると吹き込まれて信じ込んでしまっていたので、そんなSF映画のような超大都会東京の、隣の県だって相当に進んだものであろうと思っていたのだ。


 同じ関東に出るにしても、東海関西の人たちはリニアモーターカーで来られるというのに、東北から東京へは従来通りの新幹線で、リニアなど構想すらない。

 これはどういうことだ?

 東北だからか?

 鉄の車輪付きであろうと東京へ運んでやるだけ感謝しろ、ということか。

 そんなに東京というのは偉いのか? 凄いのか?

 偉いのだろう。凄いのだろう。だって東京は坂などなく、土地のすべてが平地で、高層ビルが建っており、鉄道は在来線からしてリニアモーターカーなのだから。自動車が空を飛んでいるかも知れない。


 と、東京に劣等感その他ないまぜとなった複雑な感情を抱いたまま、いざ受験で香取市(東京の隣だから大都会のはず)を訪れてみれば見事に肩を透かされ拍子抜け、そこは石巻とさして変わらない牧歌的な風景であった。


 香取市だけではない。地図で調べてみると、千葉県は山ばかり。千葉県どころか東京都自体にしても、西の方はすべて山ではないか。

 すべて平地で建物は高層ビルしか立っていないと信じていたのに。


 ホテルに戻って、嘘情報を吹き込んだ兄に苦情をいったら、腹を抱えて大笑いされた。

 もう兄貴のいうことなんか、信じるもんか。


「千葉君、いままではね、石巻君をド田舎だと思って散々に上から目線でバカにしてきたかも知れないけど、おんなじだからねー」


 利根川河川敷の遊歩道をのんびり歩き、水面の陽光きらきら反射を全身に浴びながら、良子はなんだかわけの分からないことを呟いていた。


 千葉君からしたら、いやあんたが騙されて勝手に思い込んでいただけだろう、というところであろうが。


     3

 ぶらぶら歩き続け、利根川側から回り込むようにして一度自宅へ戻ると、靴下と靴を履いて、ボールを持って外へと出た。


 また河川敷まで戻り、猫の額ほどの児童公園でボールを蹴り始めた。

 フットサルの公式戦で使われる、ローバウンド四号球である。


「モヨ子ちゃんはサッカーボールがいいっていっていたけどなあ」


 サイズに関わらず基本的にサッカーボールはよく弾む、フットサルのボールは反発係数が低くほとんど弾まない。

 そのためフットサルのボールは遠目から壁に当てても自分まで勢いよく戻って来ないので、跳ね返りを利用しての一人練習が難しいのだ。


 でも良子としては、とにかく足技に自信がないため、試合で使うボールにひたすら慣れたかった。


 恵まれた才能のなに一つない自分には、こつこつ練習するしかないのだから。


 全然成長しないけど。

 でも、実感出来なかろうとも、やった分だけのなんらかの成長はきっとあるはずだ。

 諦めず、真剣に練習さえしていれば。

 ゆっくりでもいい。


 楽しいことばかりじゃなかったけど、でも、フットサルが好きだから。

 だから、少しずつでも前へ。


 そしていつか中学時代の幸恵先輩のような、あんな凄いプレーが出来るようになりたいな。


 それには、まずは練習。

 やるぞ!


 良子はボールにタッと踏み込んで、正面のコンクリートの壁に当てるべく右足を振った。


 空振り、転倒、悲鳴。


 腰をやってしまったかも知れない。

 せっかく治りかけていたのに……


     4

むつは簡単にそういうけどねえ、でもね、もうね、これはね、すっごいラッキーなことなんだよ、ラッキー」


 JR成田駅の改札を通りながら、良子は唇をとんがらせてしきりに今日という日の有り難みを妹に力説していた。


 成田にある競技場へフットサル観戦に行くことになったのであるが、一枚余ったチケットをどうするか困っていたところ妹の六葉が行きたい行きたいと手を上げるから連れてきてあげたのだ。

 それを、まだ向かう途中だというのにもうすっかりくたびれたような、つまらなさそうな顔をしているものだから良子としても面白くなかったから。


 でもいくら価値を力説しようとも、六葉は相変わらず聞く耳持たずの大欠伸であったが。


 土地勘のまるでないところへ一人で行くのも不安なのでチケットを二枚購入したものの、誰もスケジュールが合わずにかような運びとなったわけであるが、そんなに一緒についてくるのがつまらないというのなら道中不安だろうと自分一人だけでくればよかった、と、ちょっとどころでなく後悔する良子であった。


 幼児の気まぐれにいちいち本気で腹を立てるのも大人げないのは分かるけど。

 でもわたし、まだ大人じゃないし。


 今日これから観戦しようとしているのは男子のフットサルリーグ、千葉県浦安に本拠地のあるチームと大阪のチームとの試合である。

 本来ならばホームタウンである浦安市で行われるべき試合なのだが、普及促進のためなのか年に何度か市外で興行されることがあり、今回がまさにそれに当たるのである。


 良子にとっては浦安市も成田市も同じ千葉県であり、遠い近いなどまったく分からないまま勢いでチケットを購入してしまったのだが、後から調べてみたところ距離も移動時間も運賃も相当な違いがあることが分かった。成田の方が遥かに近く安く、それを知った良子はほっと胸を撫で下ろしたものである。


「だってさあああ、浦安はほとんど東京だよ東京。東京といえば東京ディズニーランドがある東京だよ。あれ、あそこって東京だっけ? うら、なんとかって聞いたような。浦賀? 浦和ディズニーだっけ? まあいいやどうでも。それに対して香取も成田もじっつに辺鄙。ヘンピって分かる? 簡単にいうと田舎ってこと。難しくいっても田舎ってこと。新東京国際空港とかいっておいて、詐欺だよね。飛行機に一回も乗ったことないあたしには関係ないけどお。って、なにをいっているのか分からなくなってきたな。ええと、つまりなんだ、なにがいいたいのかというとですね、近場の成田でフットサルリーグの試合を観られるのはとっても運がいいんだってこと。凄いよお、てんびん座と魚座が揃って運勢最高だなんて」


 と、一人ぺらぺらマウスエンジン全開の良子。

 バス乗り場につくと、指差しながら乗り場の確認を始めたのであるが、その顔色がさあっと猛烈な速度で青ざめていった。


「運勢、最悪かもおお……」


 会場までのシャトルバス運行表を見つけたのだが、それによるとどうやら最終便が十分ほど前に出てしまったようなのである。


「どうしたの?」

「バス、最後のが行っちゃったあ」

「えー、どうすんのお姉ちゃん」


 フットサルに興味がない六葉にとって、別に成田近辺で遊んでいてもなんら困るものではないのだが、自分を遠くに連れてきた道案内がこんな様子なので合わせて困ってしまった。


「分かんないよ。どうしよう。普通の市営バスでも行くのかな? 何番乗り場? シャトルバスのことしか調べてこなかったからよく分かんないいいい。タクシーに乗ればいいんだろうけど、でもお金があ……」


 ないわけではないけれど、でもバスで二十分近くかかるほどの距離なのだ。タクシーを使ったとしたら果たして幾らかかることか。

 まだ高校入学前でお金なんかそんなに持っていないし、だからチケット購入にしたってかなり勇気のいることだったのだから。


「もう立ってるのも疲れたあ。タクシーでもなんでもいいから早く行こうよお。着いたらなんか食べようよお。疲れたよお」


 電車の中でおとなしくしていた鬱憤が溜まったか、六葉はふにゃふにゃ両肩を振りながら地面を両足で踏み鳴らした。


「疲れたって、まだ来たばかりなのに」


 良子こそふにゃふにゃ両肩を振りながらダンダンダンダン地面を踏み鳴らしたい気持ちだった。


「一人で来ればよかったよなあ。せえっかく楽しみにしてた試合だってのに、会場に着いたって隣でつまらなさそうにされていても全然楽しくないしさあ」


 行き交う自動車のガアガアとした騒音の中、ぽそりと小さな声で不満をぶちまけた。

 聞こえるはずないのだから声に出す必要などないかも知れないが、とにかくこの思いを口に出したかったのだ。


「そんなことよりも、いまは競技場までどう行くかだっ。やっぱりお金ないし、バスで行きたいよなあ。えっと、市営バスの路面図は、っと、これか。そもそも会場って、どっち方向だっけ? 近辺の地図ないかな。どうせ知らない土地なんだからって、地図をまったく見なかったよ」


 などと、うろうろおろおろしている良子の背後に、


「なあ」


 不意に、少女と思われる若い女性の声が投げ掛けられた。


 良子と同じくらいの年齢の、少女であった。

 野球帽を目深にかぶり、黒いシャツにデニム生地のショートパンツ姿。帽子のせいか小学生男子に見えなくもなかったが、その声はやはり女性のそれであった。


「姉ちゃんたち、ひょっとしてフットサル観戦?」

「え?」


 良子の耳にはっきり届いてはいたものの、突然のことに繋ぐ言葉が分からず、聞き返していた。


「だからフットサルや。シャトルバス、逃したんやろ」


 少女は、目深にかぶった帽子のつばを人差し指でくいと持ち上げた。


「そう。そうなんだよ」


 良子はまだちょっと混乱していたが、


「うちもや」


 ちょっと恥ずかしそうに、でも爽やかに、にかっと歯を見せた少女のその笑顔に、警戒心は一瞬にして解けていた。


「あの、他にバスありますか?」


 どこの誰だか分からない相手に変わりなく、だから言葉使いは全然定まっていなかったけれど。


「うん、どうもなあ、あるにはあるんやけど三十分くらい待つし、さらにそこから十分ちょい歩くらしいねんで。別に十分歩くんはええんやけど、うち初めてやん、道のりなんか全然分からへんしな」

「ええええっ。あたしも初めてだから道なんか分からないよお。それじゃあ、タクシーを使うしかないのかあ」


 お金に翼が生えて飛んでいくう……

 家のお手伝いをこつこつとやって頑張って貯めたのに。


「ああ、ほんでな、そこで相談なんやけどな」


 少女はいったん言葉を切って、思わせぶりな笑みを浮かべた。


「なに?」

「タクシー代、折半にせえへん?」

「しよう!」


 良子は即答していた。

 人数割りということで三分の二を払うことになるのだろうが、どのみちタクシーを使わねばならないのならこれはわたりに舟の有り難い話だ。


「やった! 交渉成立や! バスはそんな理由でNGやけど、タクシーを使うんならまだまだ時間あるさかいな、だから他にドジな女子がいたら相乗り申し出よ思ってな、待っとったんよ。いやあ、待った甲斐もなにもとっとと簡単に捕まってよかったわあほんまに」


 少女はわははと笑いながら、良子の背中を旧来の親友でもあるかのように遠慮なくバシバシと叩いた。


「今日、神戸のチームだから?」


 良子は尋ねた。

 浦安の、対戦相手である。


「ん? なにが? ああ、この喋り方な。関係ない。たまたま近くでやると聞いたから、チケット買うただけや」

「じゃあ、あたしと一緒だ。……それはそうと、ドジな女子い?」


 のんびりの良子も、さすがに聞き捨てならなかったようである。

 怒っているというよりは、やっぱりそう思われているのかあという情けない表情であったが。


「ああ、ゆうたっけそんなこと。まあ、そんなことはどうでもええねんな。ほおら時間のうなるで、早く乗りな」


 少女はごまかし笑いを浮かべながら良子の肩を掴んでタクシーの方へと向けると、後部座席へとぐいぐい詰め込んだ。


「ほら、おチビちゃんも乗りや」

「チビじゃないもん」


 六葉はほっぺをぷうっと膨らませた。


「ん? ああ、悪かったな。チビなんかやないな。大人も顔負けなくらいに、ごっつ膨らんどるわあ。ぷうっとな。じゃ、乗り乗り」

「うん」


 褒められているのかなんだかまだ幼い六葉にはよく分からず複雑な表情であったが、タクシーに乗り込んだことでなんだかテンション上がってぱあっと明るい顔になった。


「北須賀体育館まで」


 少女が行き先を告げながら乗り込むと、ドアが閉まった。


「しゅっぱあああつ!」


 後部席真ん中にちょこりんと座った六葉が、前方を指差して大きな声で叫ぶと、すうっとタクシーが動き出した。


 駅周辺は小さいもののビルの多い賑やかなところであったが、すぐに住宅の多いところになり、そこすらもすぐに抜け、あとはただただ田園風景が続くばかりの風景になった。


「なにこれえ? 騙されたあああああっ」


 良子はきょろきょろそわそわしていたかと思うと、突然に素っ頓狂な声で叫んだ。


「なんや?」


 頬杖ついて景色を見ていた少女が、反対側の良子へと顔を向けた。


「あ、ごめん。えっとね、あたしこの春に香取市に引っ越してきたんだけど、冬に試験受けに来た時に成田駅の近くにあるホテルに泊まったんだよね。結構賑やかって記憶があったからさ、東京にはそりゃあ負けるけど香取市よりは遥かに都会だなと思っていたら、ほおんのちょっと離れたらこうでしょ」

「はあ?」

「いや、だから本物だと思っていた風景が、人形劇のベニヤ板の背景だったみたいな気分で」

「別に誰も騙しとらんやん」

「まあ、そうだけどさあ」

「都会だ田舎だこだわる方なん? 劣等感? めっちゃ田舎に住んどったんやろ自分」

「自分?」


 良子は、少女の顔を指差した。

 少女はすぐさまその指を掴んで、反対方向へと手首を曲げて、


「あなたって意味やん。で、どんな田舎から来たん? こんな成田が都会と思えるような、どんな田舎から」

「田舎田舎ってこっちと変わらないよ! いや、変わる、といえば変わるけど、でも、どっちもどっちというか……。田舎は大好きなんだけど、確かにそう指摘されるとコンプレックスと同居しているんだろうなあ……」


 自分でごまかし続けてきていた劣等感を会ったばかりの赤の他人にずばり指摘されて、良子はしゅんとしてしまっていた。


「なあに情けない顔になってんのや。ごめんごめん、もう聞かんわ。そんなことよりタクシー代やな。健全な十代少女は必然的に赤貧やから、死活問題や。不健全な少女ならいくらでも大金稼げるんやろけど」


 段々と目的地の近づいていることに、少女は小さなバッグから和風柄のガマ口財布を取り出した。


「三人だから、三等分だね」


 良子も財布を出した。


「ええよええよ二等分で。そっち小さな子やん。二人で一人。うち半分出すわ」

「いいの? ありがとう」


 良子は内心驚いていた。


 へええええ、関西人なのにケチじゃないんだああああ。

 なんかさあ、漫画のイメージと違う。


 もちろんそんなこと、口には出さなかったが。


「でも子供料金分くらいは出してくれてもええのになあ」


 少女が景色を眺めながらぼそり呟いた。

 少女は少女で思ったことを知らず口に出してしまう性分のようであった。


「ああ、なんかいっちゃった? ごめんごめん。うちなあ、別に独り言が多いタイプやないねんで。せやけど、たまに知らない間に心の声が口に出てしまったりするねん。おかんもそうやから、遺伝かもなあ」

「はは、いいよ。じゃあ子供料金分出すね」


 やっぱり関西人はケチだったか。ケチというか、しっかりしてるというか。

 まあ、もともと三等分が当然なんだから構わないけど。


「ええよええよ、そんなんいらんわ」

「いいから」

「よくないわ、いらんわ」

「自分で独り言で文句いっといて、なにいってんの!」

「せやかてえ!」


 六葉の頭上でバトル勃発。

 いや、寸前のところで戦争は回避された。


 どちらからともなく、なんだかおかしくなったのかプッと吹き出していたのである。


「じゃあ、半端な分だけそっち出してな。それでええわ」

「分かった」


 良子はにっこり顔で頷いたが、胸の奥では、

 関西人、一見ケチ、でもそうではない、ただ面倒臭い。

 ぶつ切りで心に呟いていた。


「あたしのせいで、フクザツなモンダイになってんの?」


 外交問題の歩み寄り失敗から危うく戦争に発展しそうであったこと、六葉がそれとなく感づいておずおずと尋ねた。


「なっていたけど、解決したから大丈夫」

「余計に仲良うなれたんや、うちとお姉ちゃん」


 少女は身を横へ乗り出して良子の手を掴んだ。


「あたしも仲良くなるっ」


 六葉は二人の手を、自分の小さな両手で包み込むように握った。

 そうこうしているうち、タクシーは無事に目的地である北須賀体育館に到着。

 無事ではあったが、もう試合開始の十分前であった。


「ほな縁あったらまたなあ」

「うん。またねええ!」


 席種が異なるためチケットを切ったところで少女とは別れ、良子と六葉は二人で自由席へと座った。


     5

 すでにウォーミングアップも選手入場も終わっており、ピッチ上には十人の選手。試合開始直前であった。


 サポーターの応援飛び交うなか、ほどなくして試合が開始された。

 良子にとっては仙台セントラル開催に続く、二度目のフットサル観戦である。


 やはりプロ選手の技は何度見ても迫力があり、駆け引きは何度見ても思わずうならされるものであった。

 そうした勉強ということを置いても、単純に楽しかった。白熱する真剣勝負だった。


 来てよかった。

 六葉も、さっきのあの子のおかげでテンションが上がっていて、思いのほか試合を楽しんでくれたし。


 試合は3-3のドロー。


 帰りの時間帯には、またシャトルバス運行が始まっていた。

 あの少女の姿を見つけたら声をかけて一緒に帰ろうかと思い、会場を出る時からずっときょろきょろ見回し探し続けていたが、結局見つけることは出来なかった。


 バスに乗り、成田駅へ。

 そこでセカンドキッチンというファーストフード店に小一時間ほど寄った後、佐原へ向かう電車に乗った。


 三十分に一本だけど、ガラガラの車内。

 かたんことんと揺れる座席に、六葉はいつしか良子に頭を預けるようにして眠ってしまった。

 彼女なりに疲れたのであろう。


 良子も色々あって疲れたけれど、でも振り返ってみればなんとも有意義で楽しい一日だった。


 明後日からいよいよ高校生活が始まる。

 慣れるまでは大変だと思うけど、でも元気をしっかり充電出来たし、頑張るぞ。

 と、張り切る良子なのであった。


     6

 良子は居間の壁にかけられた鏡に姿を映し、髪型や胸のリボンの乱れをチェックしていた。

 今日は入学式。

 新堂良子は、いよいよ高校生になるのである。


 いまは朝の七時、もうそろそろ出掛けなければならない時間だ。


「ご飯食べたしい、歯も二回も磨いたしい、服装も髪の毛もオッケー牧場。荷物もまとめたし、後は靴を履いてカバンを持って家を出るだけだけど、でもなんか忘れているような気がするんだよなあ……」


 なんだべえ、と鏡の前で可愛らしく首など傾げていると、


「おはよう」


 兄のこうが階段を下りてきた。

 細目で眼鏡の似合う、ひょろり体型のいかにも現代風といった容姿の高校生である。


「おはよう兄貴」

「あれえ、もうご飯食べたんだ」

「うん。お父さんが作ってくれて。学校行くのあたしだけだからね、二人だけで済ませちゃった」

「あ、そっかそっか。良子、今日から高校生になるんだもんなあ」

「えへへえ、そう改めていわれると照れるなあ。兄貴こそ明日が始業式で、三年生になるんでしょ。進路のことは大丈夫なの?」

「なんとかなるだろ。まだ関東のことは全然分からないから、まずはとにかくこっちの環境に慣れることからだな」

「ええっ、三年からじゃ遅いよお。でもあれだよね、兄貴は途中からだからいわゆる転校生になるんだな。うわあ、なんだかかっこいいなあ」

「面倒くさいよ、アウェーから始まるなんて。良子の方が構築が楽でいいよ」

「まあそうだけどさあ」


 入学生は良子だけ。弟たちも転校生である。ゆうはやはり明日が始業式で中二になり、妹のむつは一週間後に幼稚園年長になる。


「ふんふんふ~ん」


 転校とも始業式とも遥か遥かの大昔に無縁になっている筋肉質の大男が、二十キロ以上はあろうかというダンベルを軽々しく鼻歌交じりに持ち上げながら、良子の前を横切って居間へと入っていった。

 良子たちの父、だいろうである。


「まったくお父さんたら、いまご飯を食べたと思ったら、さっそく趣味の筋トレしてるんだからなあ」


 良子は毎日いやがおうでも見せつけられる光景に、ちょっと辟易していた。


「ご飯を食べたからやるんだよ。摂取したタンパク質が鍛錬によって己の血となり肉となるわけよ。趣味っつうか義務だろ、男の筋トレは」

「あんなこといってるよお、男で男な兄貴い」


 体形百八十度正反対の高貴を、良子はちょっとからかうように脇腹をこづいた。


「親父やお前が挑発しようとも無駄なことだ。おれは分をわきまえているからな。そんな物騒な鉄の塊なんぞを仮に手にし持ち上げようものならば、その瞬間に筋がちぎれ骨が砕けることだろう」


 なんだか格好をつけながら己の非力ぶりを語る高貴であった。


「それならほら、八キロのダンベルから始めろ、な。裏の物置にあるから。バーベルセットもあるから。一緒にやろ一緒に。朝と夜、なんならプロテイン分けてやるから、安価で」


 筋トレ仲間を増殖させようとする大五郎。


「いいってば、そんなの。最低限の筋力があればいいの」

「最低限もねえじゃねえか!」

「こうして生きて日常生活送れてんだから、最低限はあるだろ! そんなくだらない話よりも良子、どうかしたのか? さっきから、なんかそわそわしているぞ」

「うん、あのね、仕度ばっちりと思っていたんだけど、なあんか忘れているような気がしてえ。なにかなあって思って」

「ええ、なんだろう。スカートを履き忘れていることじゃないよな。堂々としすぎだもんな」

「うん、そんなことじゃなくてなんか別の……って、え? え? ええっ? うぎゃあああああああっ!」


 良子は自分の足元を見て、襲いくる衝撃にけたたましい絶叫を上げていた。


 制服の上はしっかり着込んでリボンなども整えてあるが、下はただ靴下を履いたのみの下着姿のままだったのである。


「ぎょおおおおおおおおっ! 見られたああああっ! 小学校以来っ! 小学生の頃は家族とお風呂に入っていたくらいだから別にいいけど、色々芽生えてから初めて見られたあああああああっ!」


 一人大騒ぎをしながら腰を屈めて両手で上着を引っ張り下ろして前を隠すが、その分お尻が上がって思い切り出てしまった。

 仕方なく前部を優先して隠す比重のまま、壁にぴたりとお尻をつけて壁伝いにずりずりと、なんだか不気味な動きで横移動を開始した。


「お父さあんっ! ご飯の時とか分かってたんなら、なんで黙ってんのよお!」


 がなりたてることで気まずい雰囲気をごまかしながら。


「え、え、だって別におれ気にしてなかったから」

「あたし、年頃の娘なんだからね!」

「まだ全然年頃じゃありませえん」

「充分に年頃だよ!」


 恥ずかしさをごまかすべく、良子は凄い剣幕で叫んだ。


「でもまあ、忘れていたことを思い出せてよかったじゃないか」


 高貴は眼鏡を取ると、レンズを拭きはじめた。子供のくせに下着姿を見られたことを何故だか恥ずかしがっている妹に、見てません興味ありませんアピールを仕方がないからしているのであろう。


「違うっ! あ、これも気づかずに外出たらえらいことだったけど。でも違うっ。なんか他のっ」


 ずりずり移動で階段にたどり着いた良子は、二人に正面を向いたまま、後ろへ下がるように階段を上り始めた。


「姉ちゃんっ、さっきからうるせえなうわああああああああっ!」


 二階から雄二の絶叫が轟いて、ぼろい借家の内壁をびりびりと震わせた。


「バカじゃねーの? なにパンツのお尻丸出しで後ろ向きに階段上ってんだよ」

「バカっていうな。つうか見るなああああ! 五十円請求するぞお!」

「こっちの台詞だ!」


 朝から騒々しい新堂家であった。


     7

 それから三分後。良子はしっかりと制服のスカートを履いて、一階へ下りてきた。

 そして、長いため息をついた。

 思い出したのである。忘れていたことを。


 なんのことはなかった。

 まだトイレを済ませてないよね、という、ただそれだけのことであった。


「ああもう恥ずかしい。ことごとくすべてが」


 トイレを済ませて手を洗い顔を洗いながら、良子はぶつぶつと落胆の心境を吐露していた。


「もうお嫁にいけないよお」

「いかなきゃいいだろ」


 大五郎は、まだまだ娘を小さな子供だと思っていたいのである。


「やあだ、あたしは二十三で結婚したいの!」

「無理だろ」


 頬を片方押さえながら雄二が下りてきた。

 仏頂面。なんだろうか、顔がなんだか赤く腫れている。


「どうした、雄二」


 兄貴が尋ねた。


「どうしたもこうしたもないよ。姉貴が変なもん見せておいて殴ってくるんだぜ」


 と、いうことのようである。


「殴ったことは謝ったでしょうが。もおお」


 なにげなく壁の時計をちらりと見た良子の、その目が大きく見開かれた。身体が、ぶるぶるっと大きく震えていた。


「ぷえええ、やばあっ、出掛けようと思ってた時間とっくに過ぎてるうううう!」


 良子は困ったように両手で頭を抱えた。


「だったら車で送ってやろうか」

「ありがと、お父さん。でもいいよ。初日はなにがあろうと徒歩って決めているから、遅れそうなら走るよ」

「転ぶなよ」

「ひゃああああああっ、ちょっとお父さんんっ! それいわないでっていってるでしょ!」

「あ、すまん。ついうっかり」


 良子が石巻にいた小学中学時代、父にこうして注意を促すような言葉を投げかけられると、必ずといっていいほどそれが現実のものとして起きてしまっていたのだ。


 犬に噛まれるなよと注意されたら、噛まれたし。

 牛のフンを踏むなよといわれたら、そんなところ絶対に牛が通るはずもない通学路なのにたまたまいて、珍しさに近寄ろうとして足元への注意が疎かになって思い切り踏ん付けてしまうし。


 下水に落ちるなよといわれて本当に下水に落ちたことをきっかけに、それからは父の注意喚起の声かけは厳禁にしていたはずだというのに。


「もう金輪際そういうこといわないでよね。自動車にひかれないよう注意しろとか絶対にいわないでよね。核ミサイルが飛んできたら避けろよ、とか、絶対にいわないでよね」

「おれはオーメンのダミアンか」


 レトロ映画好きの大五郎はダンベルを床に置くと、裏声でなんだか怖そうな歌声を発しながら、壁の鏡を見て髪の毛を掻き分け始めた。どうやら悪魔の数字を探しているようであった。


「お父さん、邪魔、どいて」


 良子は大五郎を突き飛ばして、最後のみだしなみチェックを行うと、


「よし、オールオッケー。行くぞお。走るぞお。それじゃあ行ってくるね」

「おう」

「しっかりな」

「いってらっしゃーい」


 家族それぞれの声を背に、良子はカバンを手に取って玄関へ。

 靴を履いて、玄関のドアを開き、差し込む朝日を浴びながら外へと飛び出した。


「いってきまあす!」


 勢いよく走り出したはいいが、すぐにブレーキ、袖やスカートの裾をつまんでみるなど、自分の着ている制服を改めて確認した。


 まだ、新しい制服特有のにおいが抜けていない。

 すぐに抜け落ちてしまうんだろうけど、でも、このにおいや、いま感じているこの気持ちはいつまでも忘れないようにしないとな。


「今日から、あたしの高校生活が始まるんだ」


 どんなことが、待っているんだろう。

 どんな出会いが、待っているんだろう。

 自分はそこでなにを学んで、どう変わっていくのだろう。


 早く会いたいな。


 まだ見ぬ友達と。

 まだ見ぬ未来の自分と。


 会いに行くぞ!


「よおおし、これからの三年間、超超超超ハイテンションでえ、いっくぞおーーーーーっ。どっかああああん!」


 良子は右腕を天へ突き上げながら、大きくジャンプした。


     8

「というわけで、誠に月並みではありますが、本分は勉学であるという根底は胸の奥にしっかりと置きながらも、若さ故の可能性というロープを長くぴーーんと伸ばして、自分がどこまで飛べるのか、チャレンジしていって欲しい。そんな三年間を送り、それが将来においての様々な困難に打ち勝つための糧となることを願っております。以上です。ちょっと長くなっちゃったかな? ごめんね」


 十五分ほども続いたであろうか。

 かけ校長の話が、ようやく終了した。


 壇上脇に立つ教頭先生の指示で、起立礼着席。

 あまりにも話が長くてみんな疲れていたのか、新堂良子の周囲いたるところで安堵の声が漏れていた。


 良子はまったく疲れてなどいなかったが。

 おとなしく真面目に話を聞いていた風ではあったが、その実ろくに話を聞いてなどいなかったからである。


 別に拒絶していたわけではない。

 これから待っていることを想像して込み上げてくるわくわく感に、聞くことそっちのけになってしまっていただけだ。

 さりとてまったく耳に入っていないわけではなく、気持ちを盛り上げるためのBGM的には校長の話は大いに役立っていた。


 とにかく、これにて入学式は終了である。

 新入生たちは体育館を出て、それぞれの教室へと向かった。

 良子は一年五組である。


 どんな生活が待っているのか。

 自分が、どんな可能性のロープを持っているのか。


 分からないけど、分からないからこそ、飛び出してみよう。

 全力で。


     9

「ふえええええ、消しゴム持ってくんの忘れちゃったよおお」


 新堂良子の歎き節。

 入学式が終わって自分の教室にやってきた良子たちは、先生から「素晴らしい一年にするために」というアンケート用紙を受け取った。

 あまり真面目に答えても仕方なかろうと思っていた良子であるが、なにげなく鉛筆を手にしてみたところつい真剣になってしまい、「ああ間違った、書き直し!」というところで消しゴムを忘れたことに気がついたというわけである。

 別に今日は授業をやるわけではないので、それほど困るわけでもないがいま困ってしまっていた。


 先生が用紙を配ると、余った用紙を回収してすぐに職員室に戻ってしまったので、もう貰えないし。

 ほとんどの子はアンケートなど後回しにして騒いでいるから、わたしも適当にやろうかなあ。

 いやいやいや、たかがアンケートされどアンケートだ。

 でもどうしよう、消しゴム。

 取り消し線を引こうにも、文字を大きく書きすぎたあ。


「なんや、消しゴム? うちのでええんやったら貸すで」


 前の席のショートカットの女子が振り向いて、消しゴムを差し出してきた。

 その瞬間であった、


「あーーーーーーーーーーーーっ!」


 二人は思わずお互いを指差していた。

 先日フットサルの試合観戦でシャトルバス運行時間が終わって途方にくれていた良子に、タクシー相乗りを提案してきた少女であった。


「ふえええええっ、まさか同じ高校とはあ」


 良子は思わぬ再会に、ちょっとくすぐったそうに鼻の頭を掻いた。


「それこっちの台詞や。おんなじ一年生、しかもおんなじクラスとは」

「あの、ひょっとして春に大阪から越してきたばかりとか?」


 関西弁がまったく抜けていないようなので、だから良子はそう思ったのだ。


「いや、ちゃきちゃきの佐原っ子やねん。親の親の親の親の代からやから、随分やな」

「へええええ、佐原ネイティブってなんだか関西弁っぽいんだねえ」

「ボケていっとるん? そんなわけあるかい。うちが勝手に関西弁をしゃべっとるだけや」

「え、なんで?」


 意味が分からない。


「別にええやん」


 確かに別にええけど、でも意味が分からない。


「大阪行ったことあるの? で、好きになって抜けなくなったとか」

「一度もないな。修学旅行で広島に行くのに新幹線で通過して、タコ焼きのにおいを想像したくらいや。この喋りはオール独学やねん」

「そうなんだあ。どうりで、なんか違和感ある変な関西弁だと思ったあ」

「ほっとけ。漫画からのイメージとテレビだけが情報源なんやから、しゃあないやろ。NHKでも放送大学でも関西弁講座なんかやってくれへんし。住んだことどころか行ったこともないんやから、しゃあないやろ」

「えええ、意味がまったく分からなあい。しゃあないやろって、だったらしゃべらなきゃいいのにいい。でも、なんか面白いねえ」

「自分こそどうなんや。関西弁を語るっちゅーんなら、行ったことくらいあるんか」

「別に語ってはいないと思うけど。行ったことは一度もないよ。東北を出たことも、ほとんどないからね」

「ああ、前に会うた時にド田舎から来たいうとったなあ」

「ド田舎から来たとはいってないと思うけど」


 少なくともドは付けてないぞ。


「どこやったっけ?」

「石巻」

「そこ確か宮城県、だっけ?」

「そうそう、よく知ってるねえ。仙台のね、ずうっと東の方なんだけどお」

「仙台って?」

「ええええっ、石巻を知っていて仙台を知らないのおおおお?」


 いくら関東の人とはいえ、それはちょっと如何なものか。だって、札幌を知っていて北海道を知らないようなものではないか。


「知らんもんは知らんわ。自分こそアメリカ村は知っとってでんでんタウン知らんのか?」

「いや、どっちも知らないんだけど。とにかく石巻はね、宮城県の東の東、海も山もある田舎の田舎」

「そうなんや。でも自分、ばり標準語やん」

「え? そう? 嬉しいな、そう聞こえる?

「まあちょいちょいイントネーション訛っとるけどな」


 少女のにひひっという笑いに、良子はがっくり肩を落とした。


「ああ、でもまあ、そんな気にならへんから」


 気をつかってくれるのなら、訛ってるなどと直球を投げないで欲しかった。頭に直撃したじゃないかあ。


「まあいいや、もうそのことは。そうだ、名乗るのまだだったね。あたしはね、新堂良子」

たかふたや」

「よろしく高木さん。高木さん……双葉さん……下の名前の方がしっくりくるな。じゃあさじゃあさ、双葉ちゃんて呼んでもいい?」

「ええよ」

「あ、でもうちの妹が六葉なんだよなあ。なんか被って紛らわしいなあ」


 良子は腕を組み小首を傾げた。


「別にここにおらへんやん。ほな、うちはなんて呼ぼう」

「良子。ずっとそうだったから」

「じゃ……良子」


 高木双葉は、ちょっとしかめっつらになって、ぽそっと良子の名を口に出してみた。


「はい。……双葉ちゃん」


 良子は応じた。


「……」

「……」


 どちらも無言になり、そして十秒、どちらからともなくプフッと吹き出していた。

 それは一瞬にして、お腹を抱える大爆笑へと変わっていた。


「やっぱりさん付け以外で初めて名前を呼ぶ時って、なんだか恥ずかしいねんな」

「ほんとほんと。こそばゆい感じが一時間くらい続くよね。ああ、そうだそうだ、入る部活決めた? ……双葉、ちゃん」

「そりゃ決まってるわ。……良子」

「どこ?」

「愚問。もちフットサル部や」

「だよねええええええ! リーグ観戦してんだから。やったああああっ、仲間だああああ! うおっしゃああああっ!」


 良子は勢いよく立ち上がり、両拳を突き上げた。


「関西弁よりも喋り方が鬱陶しいって、どんだけやねん。あ、ほんでなあ、うちのおとんとおかんがな、ここの卒業生やねん。二人とも、フットサル部だったんやって」

「ふええええ。歴史あるらしいからねえ、ここのフットサル部。色々なロマンスもあったわけですかあ」

「あいつらの場合、純愛とかロマンスとかそんなんやないで。おかんクラスの男子と浮気して食いまくっとったしな。だいぶ経ってから芋づる式に全部バレて、それは喧嘩してちょっと別れてた時期だから浮気やないとか苦しい弁解しとったけど」

「それはちょっと、なんて返せばいいのか」


 急にそんな生々しい話をされて、良子は笑みを浮かべながら額の汗を拭くしかなかった。


「まあ人間としては最低最悪の畜生以下なんやけど、でもおかんな、よくは知らんのやけど日本代表に選ばれたこともあるらしいねん」

「へええええええっ! 本当おお? それは凄いねええええ!」

「良子さ、その語尾の母音をめっちゃ伸ばすのって癖?」

「えええ、そうかなあああ? 別に伸ばしてなんかいないと思うけどおおお。でもそれ凄いなあ、代表かああ、かっこいいなあああ。なんていう人なの?」

「いうたところで、知らんやろなあ。たかっていうんやけどな」

「タカギーノ? 外国の人?」

「タ カ ギ リ ノ! うちが高木なんやから! うちの顔が、外国人混じってみえるか?」

「あ、そうだね」

「名前、聞いたこともないやろ」

「うん。ごめんね」

「なんで謝るん。サッカーやバレーやあるまいし民放でばんばか代表戦をやることないから、日本人が誰でも知ってるフットサル選手なんかほとんどおらへんやん。でも、ゆうは知っとるやろ?」

「あったりまえさああああああ」


 良子は立ち上がり、腰に手を当て、なんだかいばるような得意な表情。


 佐治ケ江優、日本女子フットサル界の神様である。

 フットサルに携わる端くれとして、名前を知らないはずがあろうか。


「この学校にいたことあるらしいで」

「そうそう、そうなんだよおおおおおお! あたしもねえ、最初はここってフットサル部があるんだ凄おいってくらいに思ってたら、後からネットで調べて知って、ほんとびっくりしたよお」

「なんでもなあ、うちのアホおかんのことを恩人いうて尊敬していたらしいで。ま、人間性の下劣さとフットサルの技術は別もんやしな」

「え、双葉ちゃんのお母さんのことを神様が? まあ代表に選ばれたんだから、実力があるんだろうしね」

「実力のほどは実際のところ分からへんけど、でも佐治ケ江優が尊敬しとったいうんはほんまのことらしい。この高校で、おかんの指揮のもと、めきめきと頭角を表したんやて。つまり、あのW杯の日本優勝も、そのあとに起こった女子フットサルブームも、いうなればうちのおかんが作り上げたんや。最低最悪畜生以下の下劣人間やけど、そこだけは認めなな」

「最低最低って、もうゆるしてあげなよお。若気のなんとかってのでしょお」

「大人になってからもや。病気や病気。兄貴やうちがもう生まれとったのにやで。バレたのがつい最近で、いままさに火中や」

「無事に鎮火しますように」


 良子は両手を合わせ目を閉じた。


「でもその話さあ、ああフットサルの方ね、そう考えると、なんだか凄いことだよねえ! 代表が二人もだなんて。だってここ、名門とはいえ公立校だよお。それじゃあ双葉ちゃんも、運動神経抜群なんだ。遺伝でさあ」

「遺伝いうな!」


 双葉は、ちょっとだけ声を荒らげた。


「あ、えと」


 良子は口ごもってしまった。


 そんなお母さんを嫌わなくてもいいのに……

 いるだけでも、素敵なことじゃないか。

 しかもフットサル代表だなんて、凄いことじゃないか。

 だいたい、そもそもそっちがそういう話を振ってきたんじゃないか。


 もう、お母さんの話はしない方が良さそうだな。

 お互いに……


「ごめんね。でも見た目、運動得意そうな感じに思えるのは本当」

「うちこそごめんな。でもうち、運動神経鈍いで。ほんまたいしたことないで」

「またまた謙遜してえ」

「謙遜やないねん。まあ体育の授業はな、そこそこええんよ。でもフットサルはダメだ。中学、別に強豪校でもなんでもなかったけど、完全に埋もれとった。いや、そういうとまだ聞こえがええな。正直、誇張抜きで一番下手くそやったわ。アホ死ねって毎日怒鳴らてボールを投げつけられとった。おかげで耐性が出来たけどな」

「うわ、あたしもそんな感じだったよ。もう下手で下手で、いつも誰より怒られてたよ。怒られるほどに頭が真っ白になって、変な方にばっかりパスしちゃって。それでも、フットサルが好きだってことだけは誰にも負けなかったけどね」

「それはうちもやな。ところで良子は、ポジションどこやったん?」

「アラ。ミニゲームくらいでしか出場することなかったけど。双葉ちゃんは?」

「ピヴォ」

「おお、被らないねえ。共存出来るねえ」

「そこで使うてもらえるか分からんやろ。そもそも試合に出させてもらえるかもな」

「夢ないなあ。確かにここは千葉有数の強豪校だって話だけどさあ」

「夢をかなえたければ、お互い死ぬほどの練習が必要いうことや。さっきいっとったヘタレいうんが本当ならな。少なくともうちはそうや。才能ないんやから、努力するしかない」


 などと二人が話し込んでいるところ、一人の女子生徒が近寄り声を掛けてきた。


「あのさあ、二人ともフットサル部に入るんだ?」


     10

 野太い、ちょっとかすれた声。

 百七十近くはあろうかという、大柄な女子であった。


「わたしもなんだ」


 大柄な女子は自分を指差すと、大柄で声も野太い割に可愛らしい顔をくしゃっと破顔させた。


「え、あ、なに、フットサル部に入るんだ?」


 いきなり会話に割って入られてちょっと驚いた良子であったが、フットサル仲間と分かってすぐにその顔がふにゃりと緩んで笑顔になった。


「おー、仲間やん。よろしゅうな」


 双葉はすっと手を伸ばした。


「わたし、あしっていうんだ」


 芦野留美は、大柄な割に柔らかそうで小さな手を伸ばし、双葉とがっちり握手をかわした。


「高木双葉いうねん」

「新堂良子、よろしく留美ちゃん!」


 良子は、握手する二人の拳を両手で包み込むように握った。


「よろしく高木さん、新堂さん。って、あれ……新堂さんって……」

「良子でいいよ」

「じゃ、良子。さっきから、なんか見た顔だなと思ってたんだけど、分かった、あれだ! 入試の時に校門の近くで他の受験生たちに、頑張ろうね一緒に合格しようねってやたら元気な大声で一人一人に話しかけてた変わった子だ」

「良子ならやりかねんなあ。って、まだよく知らへんゆうのに、でもそう思うわ」


 双葉はしみじみと頷いた。


「確かにそれあたしだあ。でも変わった子ってのは心外だな。みんなで受かろうねって、別に当たり前のことでしょ」

「そう思えるのが、変わってるんだよ。蹴落とすべきライバルでもあるというのに」

「せやな。変わっているな。ええ意味でな」


 留美と双葉に笑われて良子は釈然としない気持ちであったが、食いついても仕方がないしと頭を掻いて一緒に笑った。


 それからまた、三人はフットサルの話に夢中になっていた。中学の時はどんなだった、代表の誰が好きだ、など。


「それじゃあ、一緒に願書を出そうかあ!」


 三人すっかりハイになった中、芦野留美が大きな声を出した。


「おーーーーっ!」


 負けず劣らず大音量で、残る二人は腕を突き上げた。


「なんだかさあ、運命って感じで楽しいよね。わくわくしてくるよね。あれだよね、このまま三人で代表に入ったりしてえええ。そしたらどうしよおおおおっ。まあ、あたしは初心者レベルなんで絶対にそんなことないけど、でももしもそうなったらどうしよおおおお」


 良子は恥ずかしそうに、きゃあっといいながら両手で顔をおおってぶんぶんと振った。男子代表のいのはたゆうとのツーショットを想像して、テンション高まってしまったのである。


「いやあ、それはさすがにないでしょお。いくら強豪校で鍛えられたとしても、三人が三人とも代表だなんて」


 一緒にハイになりながらも、そこは冷静に受け答えをする芦野留美。


「三人は無理でも、一人でも出たら凄いやろな。ほな、いまのうちに二人のサインもろとこかな。うちのサインもあげるさかい、なんか紙出しな」


 双葉は、筆箱ごそごそマジックペンを取り出した。


「い ら な い」


 二人にぴしっと声を揃えて拒絶され、双葉はがっくり肩を落とした。

 それを見て、良子はプッと吹き出した。


「サインもいいけどさあ、せっかくこうしてわたしたち三人、良子いわく運命的な出会いを果たしたわけだし、同盟でも結ぼうか」


 留美は、ちょっと照れたようにいった。


「それ、昨日のセーラー服刑事でしょお。妹が好きで、あたしも一緒に見てるー」

「ああ、ばれた? 十話目にしてようやく、バラバラだった三人が集結したよね」

「よし、考えよう。同盟の名前」


 良子は、腕を組んでちょっとしかめっ面で目をそっと閉じた。


「まじまじ見ると、良子ってちょっとアゴしゃくれとんのな」


 双葉がそっと手を伸ばして、良子のアゴをさわさわと撫でた。

 良子は甲高い悲鳴を上げ、


「しゃくれてないよ! お母さんが熊本出身で、ほんのちょっっぴり微妙にガシッとしてるだけ。失礼な。双葉ちゃんもちゃんと同盟の名前考えてよね」

「せやかてうち、観てへんもん。そんなブルセラ刑事とか」

「観てなくてもいいんだよ。あたしたちのグループ名を考えようってことなんだから。お笑いグループの名前、たくさん知ってるんでしょ? そういうのから、なんかしっくりくるものない?」

「あんなあ、うちは関西弁を勝手に喋っとる佐原っ子であって要はちゃきちゃきの関東人やで。それに関西人はみなお笑い好きゆうのは偏見やろ。だいたいなあ、良子の方がそういうセンスあるんちゃう? スカート履き忘れに気づかんで裸でうろうろしてそうやもんな」

「ぎゃあああああ、なんで今朝のこと知ってんのおおおおお!」


 良子は両手で耳を被い、顔を赤らめ絶叫した。


「ほんまの話かい! 適当にいったのに。……ほな、一人変なのがいるよ同盟」

「やあだ。そんなの同盟の名前じゃない」

「それじゃ、高みを目指そうぜ同盟」


 と、留美が提案。


「いいな、それ。または高みを目指すなら、宇宙同盟とか」


 と、良子。


「宇宙じゃ、もうこれ以上上に行かないからな目標がなあ。ということで、ロケット同盟」


 双葉。


「ああ、いいねそれも。それか、宇宙の手前の、えっと……なんだっけ、ラーメン屋みたいな名前の」


 良子が難しい顔になった。


「ひょっとして、成層圏のこと?」


 留美の言葉に良子は身を乗り出して、


「それだ! 成層圏同盟。常に高み、宇宙を目指して頑張るってことで」

「語呂はなんやけど、意味合い考えるとそれ悪くないんちゃうか?」

「うん、そうだね。悪くないどころか、いいんじゃない?」


 留美はぽんと手を打った。


「え、それで決まり? じゃあ早速、成層圏同盟の結団式だっ」


 良子はさっと手の甲を前に差し出した。

 その上に双葉が、そして留美が手を乗せた。


「では、なにかリーダーの言葉をいただきたく」


 留美はちらりと良子へと視線を向けた。


「え、え? どうしてあたしっ?」

「そらあれやろ、名前を考えたわけやし、あと一番変な子だからやろ」

「変じゃないです普通ですう。それはともかく、あたしは名前を考えただけで、同盟を結ぼうっていったのそもそも留美ちゃんなのにい」

「分かった分かった、その話はあとで聞くから、とりあえず結成にあたっての言葉をお願いしますよりーダー」

「ええーー、もうリーダーって決まっちゃってんじゃんかあ! それじゃあそうだなあ……わたしたち三人はまだ一度も一緒にフットサルをやったことないけど、でも、フットサルを通じて友達になりました。これからもフットサルを中心としながらも、人間としてお互いに助け合い競い合い、人間として精進していくべく、ここに同盟の結成を誓います。……これでいい?」


 おずおずと尋ねる良子。


「凄い、上出来上出来」


 留美は胸の前で小さな拍手をした。


「自分そっち方面の才能あるんちゃうか? よし、結団式も終わったところで、なんかポーズでも考えようかあ」

「ポーズ?」


 良子は双葉へ不思議そうな顔を向けた。


「せや。ゴール決めて、やったでえのポーズとか、交代する時のタッチの仕方とか、なんか個性的なのをな」

「えええ恥ずかしいよおお、それえ」

「良子が恥ずかしいくらいなんだから、わたしはもっと恥ずかしいよ。まだ一年生だし、ゴール決めてなんか妙なことしてたら間違いなく先輩にいじめられるよ。でもさ、自分たちだけのそういう仕草って仲間意識を強めるよね。じゃあとりあえずさ、我ら成層圏同盟、ってことを示すポーズ、それだけ考えようか。例えばさあ…」


 留美は、自分の左胸に右の拳を当てると、その拳を良子へと突き出した。


「我が心臓を君に捧げる。っていう、信頼の証なんだけど。例えばこんな風なの、考えようか?」

「それがいい! かっこいいよ、それ!」


 良子が身を乗り出すように飛びついた。


「せやな。考えるまでもあらへん、採用! えっと、なんやったっけ、拳を左のおっぱいんとこ当てて」

「左胸ね。なんでそういう表現するかな」


 双葉のボケを留美が冷静に指摘した。


「まあええやん。で、こうやな」


 双葉は右拳を、自分の左胸に当てた。

 良子も、留美も、同じように手を胸に持っていった。


「当てる瞬間に、心臓をぐっと掴むようにするのがポイントね」


 と、留美。


「ポイント、って、オリジナルはなんや?」

「内緒」


 照れたように笑う留美。

 鉄鋼の進撃隊。子供向けのアニメである。


「我が心臓を、君に捧ぐ」


 三人はそれぞれ呟きながら、

 双葉は良子へ、

 良子は留美へ、

 留美は双葉へ、

 右の拳を突き出した。


「おおおおっ、なんか気持ちいいいいいいっ!」

「ええなあ、ええなこれ!」


 子供のようにはしゃぐ良子と双葉。


「ほな、次は勝利してやったねえ、のポーズや!」

「それはやっぱり、こうでしょお、両手上げてえ…」

「双葉! 良子!」


 留美のこそこそっとした、でも語気の荒い声。

 なんや、と留美を見る双葉の顔が、一瞬にして凍り付いていた。

 留美のすぐ背後に担任の徳村先生が立っていたのである。


 それだけではない、教室がいつの間にやらしーんと静まり返っていた。

 呼吸音が端から端まで聞こえても不思議でないくらいに。


「楽しそうだったが、気は済んだか? アンケートは書いたんだろうな」


 先生は回収しようと、手を差し出してきた。


「すみません、まだです。すぐ書きますう」


 良子は肩がなくなるのではというくらい小さく縮こまり、自席に戻った。双葉も、留美も。


 改めてアンケート用紙と向かい合うと、消しゴムを手に取り、先ほど書き間違った部分の記述を消した。


「我、借りていた消しゴム、君に返す」


 良子は、先ほどのポーズとフレーズを使って、前の席の双葉に消しゴムを返した。


 まだ先ほどのテンションが脳内にたっぷり残っている双葉は堪えきれず、ブフフッと吹いてしまった。


 次の瞬間ゴチン、ゴチンと良子と双葉の頭上に、先生のゲンコツが容赦なく落ちたのであった。


 真昼だというのに、成層圏に流れ星二つ。

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