零夜くんと多足猫


「あ、猫だ。可愛いな、ねこねこ、おーい、よしよし。よーし、おいで。よしよしよ…………なげえ」

 背後に零夜の呟きを聞いていたキヤは、最後の一言を聞いて思わず振り返った。

「なげえ」

 そして同じことを呟いた。猫、いや猫らしくはあるが猫らしくないその生き物は、にゃーんと鳴いた。


 ミトラとは奇妙な生き物で、本来は粘土の塊のような不定形なのだが、周りにいる生物の擬態をすることで形を得ている。そして目の前にいる猫――便宜上の都合により猫と記載するが、猫は、頭と尻尾こそ普通の猫と違いはなかったが、その間にある長い胴体に脚がいくつもいくつも連なっていた。零夜の数えるところによると、十二対の脚を持つ。猫、らしき生き物。

 ミトラの擬態は大抵がこのように雑かつ曖昧なもので、脚やら目玉やらが増えがちだ。この猫――くどいようだが、便宜上猫と記述する「猫らしき多足の生き物」は、目玉がふたつしかないだけまだましな方だと言えた。


「えーっと、びっくりした。ミトラだよね?」

 零夜が問う。零夜は特殊な能力としてミトラと話すことが出来る。連れであるキヤやティエラにはただの音としてしか認識されないミトラの声も、零夜には意味のある言葉として届く。

 多足猫は「にゃーん」と鳴いた。「何て言ってる?」と問うティエラに、「川の向こうに行きたいんだって」と零夜が翻訳する。多足猫はまたにゃんにゃんと零夜に状況を説明する。

『かわのむっこにかかさんいるんだけどー、かわわたんのこわいのね』

 この近くにある川は、確かに昨日までの雨により増水している。この猫程度の大きさのものが迂闊に入れば、流されてしまう危険はあった。多足猫は長いので流されても途中で引っかかるのでは、と零夜は思ったが、余計なことは口にしない。

『かわのむっこにつれてってくれる? かかさんおいらをさがしてるとおもんだよね』

「そうだな、どうせ川の向こうには行くつもりだし」

 零夜は多足猫を抱き上げた。とは言え猫は長いので、その上半身を抱き上げて立ち上がっても、下半身はまだ地面についている。尻尾が左右に揺れている。

「連れてってあげようか」

「まーた始まったよ。レイヤのミトラ助けが」

 キヤがからかうように言った。零夜はミトラの声が聞こえるゆえか、ミトラに感情移入しやすい。困っているミトラがいればすぐに助けてやろうとするし、それが原因でトラブルに巻き込まれたこともあれば、それが原因で思わぬ幸運に巡り合うこともある。一長一短、やや短といったところだ。

「良いじゃない、連れて行くくらい」

 ティエラも零夜の肩を持つ。キヤも強硬に反対というわけではないようで、「しゃあねえな」と言いながら猫の顎を撫でた。猫はまたにゃーんと鳴いた。


 森の中を行く。木々はそれほど密集しておらず、そのためか比較的明るい。多足猫は二十四本の脚をちょこちょこ器用に動かしながら、一行を先導するように前を歩く。進むにつれて、川の水音が大きく聞こえるようになる。しゃらしゃらと心地よいせせらぎというわけにはいかず、地の底より響くような低い轟きだ。

『わー、みずいっぱい。だっこして、だっこ』

 多足猫は零夜のズボンに前脚をかけ、そのままよじ登り始める。ただの子猫ならば問題のない微笑ましい行為だが、多足猫となればそうもいかない。とにかく脚が多い。その分だけ爪も多い。

「いたいいたいいたい、爪が引っかかってるって!」

 にゃおにゃおにゃお、と鳴きながらなおも零夜に登ろうとする多足猫を、キヤとティエラが無理やり引き剥がす。マントがちょっとやぶけた。

「よーし、こんな感じでいいかな」

 毛皮のマフラーのように首に多足猫を巻きつけ、零夜は川を渡るためにブーツに防水脂を丁寧に塗り直す。川は全てを押し流さんとする勢いで、泥を伴って駆け下っている。対岸へ渡したロープをしっかりと掴んで、零夜は一歩一歩身長に川の中を進む。首元で、多足猫が緊張してこわばっているのが分かった。

「大丈夫、もうすぐ渡り終えるからね」

 猫を安心させるように声をかけると、猫はうみゃうと小さく鳴いた。


『わーい、かわむっこ、ついたついた!』

 零夜の首から降りると、多足猫は興奮して鼻をふすふす鳴らしながら、辺りを走り回った。走り出しては急ブレーキをかけ、また走り出しては思い出したように零夜に寄っていってびしょ濡れになったズボンを舐める。ちょこまか動く脚が普通の猫より多いせいか、普通の猫より落ち着きがないように見える。

「ズボンと靴、乾かすついでに休憩するか?」

 キヤの提案により、一行は着替えたのちに濡れた衣服を広げ、その場で一休みすることとなった。荷袋で爪とぎをしようとする猫を制止しつつ、火をおこして茶をわかす。火おこしに必須であるヒグイというミトラは、多足猫とは愛称が悪いらしい。ちょっかいを出されようとしたところ多足猫の顔面を目掛けて灰を飛ばし、大喧嘩になっていた。零夜が仲裁して事なきを得る。


 森を抜ける風が髪をそよがせていく。ズボンも靴も問題なく乾くだろう。濃いめのお茶に滋養のあるスパイスを入れ、旅の疲れを癒やす。

 多足猫は川を渡ったのだから目的は達成したはずなのだが、未だに零夜たちの休憩地点から離れようとしなかった。零夜、そしてキヤの膝に順番に乗るがしっくりこなかったらしい。最後に乗ったティエラの膝で、ようやく長い胴体を丸めてくつろぎに入る。

 ティエラが何も言わず指先で喉を撫でたりするものだから、多足猫もすっかりいい気持ちのようだ。身体を伸ばして三対ほどの前脚をティエラの胸へ置き、ふみふみふみふみとやり始めた。ティエラは困った顔をするものの、猫のやることだし、といった調子でやめさせはしない。目のやり場に困る男性陣は、特に何も気付いていないふりをしてじっと焚き火を見る。

「……やっぱり柔らかいからか?」

 キヤが零夜に耳打ちをする。零夜はこれを無視する。

『やらかいぞー』

 耳が良い多足猫には、キヤのひそひそ声も聞こえたらしい。

『ふみふみきもちいぞ。おまえもやるか?』

 多足猫の誘いに、零夜は無言で首を千切れんばかりに横に振った。多足猫の言葉が解らないキヤとティエラには、零夜の行為の意味も分からないはずなのだが、流れでなんとなく察したらしい。ティエラは少し耳を赤くしながら「はい、もう終わり」と言って猫を引き剥がした。猫は脇の下を持ち上げられながら、満足げにごろごろと喉を鳴らしていた。


 靴とズボンが乾くまで、という名目で充分すぎる休息とついでに夕飯まで取った一行は、日が落ちきる前にとようやく重い腰を上げた。さすがに川の近くで野営を貼るのはリスクが高い。少し高いところまで行って夜を明かそう、というのがキヤの提案である。ちょうど近くに小山が見えたため、そこへ向かって歩き始める一行、と多足猫。

「こいつ、どこまでついてくるつもりなんだ?」

 足元を歩く猫を見ながら、キヤが言う。

『だってかかさんいるのこっちなんだもん』

「お母さんがこの先にいるんだって。せっかくだし一緒に行こうよ」

「お前ほんと、ミトラに甘いなー」

 たまには俺のことも甘やかしてくれよ、などとキヤが言うので、ではと思い零夜は自分より高い位置にある頭を撫でようと手を伸ばす。華麗に避けられた。


 なだらかな傾斜を登るにつれて、頭上にかぶさっていた枝葉の密度は薄くなる。そのため日光が届きやすいのだろう、下草がよく茂っていて足に柔らかい。岩場や泥の道より遥かに歩きやすいが、ただ妙に暑かった。

『このへんでねるといいよー』

 丘を登り切る直前の少し窪んだ場所で、多足猫は立ち止まった。確かにここなら窪みのために風も避けられる。一行は言われるままに荷物を降ろした。まだ薄っすらと夕日の残滓が色付く空には、ぽつりぽつりと星が輝き始めている。天幕を貼るまでもないほど、暖かく穏やかな夜だ。

『おいらのおきにいりのねばしょだよ』

 多足猫はごろりと寝転がり、お腹を空へ向けた。完全に無防備な体勢に思わず笑みをこぼし、零夜も同じように仰向けに寝転がってみる。地面は地面と思えないほど柔らかい。キヤとティエラも寝転がって身体を伸ばす。柔らかくて、温かい。

「ふかふかで気持ちいいねえ」

 ティエラがうっとりとした調子で言う。生まれから羊毛の柔らかさに慣れた彼女には、旅の簡素な寝具は物足りないのだろう。硬めの寝床が当たり前になっているキヤは「柔らかすぎて逆に落ち着かないな」と言うが、それでも言うほどに不満はないようだ。

 一行はそのまま言葉少なになり、やがて瞼が重くなってくる。いくら温かいとはいえ、せめて薄い毛布程度でも用意したほうが良いか。そう思わなくもなかったが、ここまで寝心地の良い地面だと、そんなことはもうどうでもよくなってしまう。

『かかさん、おやすみー』

 夢うつつの零夜の耳に届いた、多足猫の安心しきった声。そして遠雷のような、低いごろごろという音を聞いた。



 頬に気持ちのいいふわふわが触っている。その心地よさに頬ずりをすると、ふわふわはゆったりと上下して零夜の顔を撫でた。

「ん?」

 なんだ、このふわふわは。夢だか現実だか区別がつかない寝ぼけのままに、零夜はふわふわを抱きしめる。

「気持ちい……いや、いやいや、えっ?」

 急に意識が覚醒し、零夜は勢いよく起き上がった。キヤもティエラも、まだ夢の中のようだ。そのふわふわはどこからか伸ばされて、並んで寝ている三人を包み込むようにくるりと丸まっていた。

『しっぽっぽ、きもちいでしょー』

 先に起きていたらしい多足猫が、誇らしげに言った。

「しっぽ?」

『しっぽ。にんげんはしっぽなくてかわいそー』

「しっぽ……」

 この大地の柔らかさと温かさに合点がいった気がして、零夜はひとり頷く。キヤがなにやら寝言を言いながら、大きく寝返りをうった。


 そのまま二度寝を決めこみ、結局三人全員が目覚めたのはもうすぐ昼になろうかという頃だった。キヤもティエラも「しっぽ」のおかげでよく眠れたらしい。礼を言うと、多足猫は『でしょー』と満足げだ。寝すぎて痛むこめかみをほぐす。空は青く、今日も一日晴天なのだろうことを主張していた。

 丘を下りて、また次の街を目指す。目的地は遠く長い旅路だが、その間のこうした小さな出会いが、長旅のつらさを癒やしてくれる。

『かかさんのとこまで、つれてってくれてありがとなー』

 足元に身体を擦り寄せて喉を鳴らす、多足猫の長い胴体を撫でた。猫は丘を駆け上がり、少し高い場所から三人を見下ろす。にゃーん。『またなー』と言った。逆光の中、多足猫がゆっくりとまばたきをした。


 川沿いにしばらく歩き、小山の影も遠くなったころ。空気を震わす低音を感じ、一行は来た道を振り返った。一晩を明かした柔らかな丘が、今まさに身をもたげて移動せんとしていた。

 折り込んでいた多足を伸ばし、草木に覆われた背をぐーんと伸ばす。昼間の白っぽい空を背景に浮き上がった、山のごとく巨大な多足猫のシルエット。長いしなやかな胴体をくねらせながら、猫は川上へとゆっくり歩き始める。木々といくらかの生態系と、小さな我が子を背に乗せて、猫もまた旅をするのだろう。


 得難い安らかな眠りを守ってくれた、優しい尻尾の先が山陰に消えるまで。一行はいつまでも、その後ろ姿を見送っていた。


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