純粋な憎悪

 耳に入った機械の音声をうるさいと感じつつ、再び微睡まどろみの泥濘でいねいに意識を委ねようとした博史は、薄目を開けた先に見慣れない景色があることに気づき、急速に覚醒して己が置かれている状況を思い出した。


「これより最初の判定に入らせていただきます!」


 そんな馬鹿な。タイムリミットの午後九時まで半日以上、二十時間近くあったはずだ。部屋の照明を暗くしたのが裏目に出たか。ノルマの一万字は達成したが、まだ投稿も公開もしていない。


 オフィスチェアの上で脚を抱えて丸くなっていた博史は、座面から転げ落ちそうになりながらも、「ちょ、ちょっと、待って! 書いてあるって、一万字!」と慌てて抗議の声を上げた。


「右側のモニターをご覧ください!」


「え?」


 釣られて視線を右へ向けると、小型の液晶がいつのまにか正面のモニターと同等のサイズに入れ替わっており、画面内に自分の執筆名と数字、それから中国語のようなものが並んでいるのが見えた。


【屍蝋 兇夜】

・規定文字数未到達 300

・作品未公開 100


 よく見ると日本語だ。判定結果らしい。ということは、本当に丸一日が経過したのか。時間を確認しようと正面のモニターへ顔を近づける。すると執筆画面が消え、順位と数字に挟まれた執筆名が表示された。


1位 紅 朱音 1660

2位 霧海 塔 1120

3位 馬頭間 頼斗 700

4位 屍蝋 兇夜 400

   皇 奇迷乱 400

   トテチテ 400


 同率だが最下位だ。一位とは四倍もの差がついている。そんな、まさか。これで終わり? ほんの少し居眠りしていただけなのに。作品だって完成している。最高傑作とまではいかないまでも、それなりに自信もあった。でも、もう何の意味もない。


 そこでふと、縮小して画面の左下隅に追いやった動画に気がついた。画面では眠る前に見たのと同じ男が施術を受けている。頭を上げてモニター上部の制限時間を見る。『17:57:02』とあり、眺めているあいだにも下二桁が刻々と変化をつづけていた。


 残りが約十八時間ということは、現在は午前三時頃。どうやら眠っていたのは三十分にも満たない、ほんのわずかな時間だったらしい。主催者権限で判定の時間を早めたのだろう。フェアーが聞いて呆れる。


 突如、金属がぶつかり合うような音が部屋に響き、博史はぶるっと肩を震わせると首をすくめて身を強張らせた。顔を左へ振ったところで、正面の壁の左側に『400』という、大きな赤いデジタル数字が現れたのが見えた。


 薄暗がりに輝く赤い数字に禍々しさを感じた博史は、考えるよりも早く椅子から飛び降りると、転がるようにして部屋の隅へと走っていってしゃがみ込み、両手で頭を抱えるようにして身を縮めた。


 最下位は何をされるのだ。死んだ連中は何をした。ルールも隠しルールも、いずれにせよ破れば死に直結するのだろうか。


「え、嘘。俺、死ぬ? 死ぬの? 嘘でしょ? はぁ⁉︎ だって、ずりぃじゃん! 制限時間早めるとか、チートすぎんだろ! こんなの納得でき、ひっ⁉︎」


 恐怖の感情が怒りへと暴走していくなか、唐突なブザー音が響き渡り、博史は悲鳴を上げるなり残りの言葉を呑み込んで顔を上げた。


「皆さん、清算のお時間でございます! 今回、負債の返済義務が生じたのは、こちらの方です!」


 正面モニターに出ていた順位表が黒い闇に溶けてゆくと、今度は左右に二分割された画面が浮かび上がり、椅子に縛りつけられた人物がそれぞれ姿を現した。右が男性、左が女性であるのを認めるや否や、博史が「あ”あ”あ”あ”あ”!」と叫んでさらに身を屈める。


 画面上に彼らの名前は出ていない。が、誰なのかは明らかだ。同率四位の皇とトテチテに違いない。次に拘束されるのは俺だ。どうする。部屋からは出られない。隠れる場所も、逃げ場もない。身を起こして背中を壁につけ、襲ってくるであろうロボットアームに備える。


 しかし、いくら待っても何かが稼働する気配がない。ひょっとすると、自分は椅子から降りたおかげで助かったのだろうか。


「は、はは。ふふ。なんだよ。ふっ、そっか。ああ、そっか、そっかぁ! マジびびったー」


 なんだかおかしくて奇妙な笑いが止まらない。ラッキーだ。椅子だよ、椅子。雑魚どもが。椅子に座らなければ問題ないんだ。それに思い出した。この生き残りゲームの最終的なゴールは、最高傑作を三十万字以上で書き上げることだと隠しルールにあったじゃないか。


「それでは、返済の様子をとくとご覧くださいッ! さぁ、ご本人から返済部位の発表ですッ!」


 つまり、ゲームはまだ続行中なのだ。ならば、こうしてはいられない。一位との差は四倍といえど、このポイントの入り具合から考えて、逆転させるのはそう難しいことではないだろう。作品を評価される前に死んで堪るか。




 立て続けに五人の生徒が行方をくらまし、集団下校が意味をなしていないとPTAに怒鳴り込まれ、いよいよ学級閉鎖かという話が、冬休みを前にした生徒たちのあいだに持ち上がりはじめた。帰宅時、通学路のあちこちで、制服警官の姿も頻繁に見かけるようになった。


「キクリン、ちょっと」


 放課後、教室で帰り支度をしていると、思い詰めたような顔をした村田に声を掛けられた。背後にはクラス委員の川本の姿もある。


「なに?」


「あの……えっと、俺じゃなくて。その、川本が、聞きたいことがあるって」


「俺に? なにを? てか、用があるならおまえが自分で話せよ、川本」


 挑発されて苛立ったのか、背の高い村田に隠れるように立っていた川本は、奴を押しのけて上半身を前に乗り出させると、「アンタがやったんでしょ」と親の仇でも見るような目で俺を睨んできた。


「なにが?」


「とぼけないでよ!」


 ほとんどの生徒がいなくなり、グラウンドに面した窓から茜色の残光が差し込む教室内に、川本の押し殺したような怒声が響いた。


「話が見えないんだけど。とりま、落ち着いて話せないようなら、俺は帰るわ」


「わたし、見たんだから!」


「だから、なにをだって聞いてんじゃん。てか、委員長さ。俺になんか恨みでもあるわけ?」


「隠しても無駄なんだから!」


「話んなんないわ。ムラッチ、帰ろうぜ」


 川本を無視し、村田に声を掛けたが返事がない。見ると逆光のせいで顔がかげっており、その表情まではわからなかったが、なにやらブツブツと小声で呟いていることに気がついた。


「ムラ」


「聴きなさいよ!」


「ムラッチの様子が」


「誤魔化さないでよ!」


「聴けって」


「アンタが聴きなさいよッ!」


 大声と同時に服の襟元を横から川本に捻り上げられた。『ありえない』と『やりすぎだろ』という言葉が頭に浮かんだものの、どちらも声にはならなかった。


 川本は普段から何かと俺にはうるさいが、今日はいつもとは違った異質な感情、言うなれば、純粋な憎悪をぶつけられているような、言葉のあらゆる面にトゲが生えているような、そんなすさんだ印象を受ける。


「放せよ」


 襟元を掴んでいる川本の右手を振り払い、正面に向き直りながら村田に声を掛けようとした俺は、さっきまで視界の上方すれすれに入っていたはずの奴の顔が見えず、口を開きかけたままゆっくりと頭を動かして視線を上げていった。


 首だけが異様に伸びた村田の頭が、天井の蛍光灯に届かんばかりの高さに浮かんでいるのを見るなり、俺は頭を仰け反らせた姿勢で背後へ倒れ、その拍子に右の脇腹を机の角にしたたか打ちつけた。


 こいつは何だ。


「川本!」


 叫んだつもりが上手く声が出なかった。立ち上がりたいのに、身体が思うように動いてくれない。こいつがみんなを襲ったのか。本物の村田はどうなった。


「川本! 誰か! 先生ッ!」


 尻を床につけた状態でじりじりと後退あとずさりながら、机の隙間から川本の姿を確認した俺は、ようやく自分が罠に嵌められたのだと気がついた。


 土屋と中山が消えたあと、俺の胸の高さあたりまで大きく育っていた黒い人型が、さっきまで川本だと思っていた何かに頭から齧りつかれている。


「誰かッ!」


 掠れて声が出ない。こんな得体の知れない何かに、理由もわからないまま殺されるのか。俺は自分なりに、この黒い人型が何なのか考えていた。こいつが現れたきっかけとなったのは、末永との喧嘩であったのはほぼ間違いない。


「来るな! ヤメロッ!」


 だから、信じられないことではあるが、俺の悪意が具現化したのかもしれない、などと思っていた。それに、俺の嫌いな人間を始末してくれる、便利で使えるヤツだと。


 川本だった物体が、人型の首を齧り取ったのを見たのを最後に、俺の視界は唐突に暗転した。

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