砂上の楼閣

 柱時計が時刻を報せる鐘の音に隠れ、頭蓋を殴打する硬く鈍い音が客間に響く。振り子の動きに合わせるように、凶器を持った両腕が振り下ろされる。合計五回に及ぶ凶撃のうち、三発目を喰らった時点で那須なすはま縢瑪かなめは気絶し、残り二発で頭骨と脳を破壊されて脳挫滅のうざめつにより即死した。


   ***


雛緒ひなおさーん! いらっしゃるんでしょう? ひなおさーん」


 部屋のドアを乱暴に叩く音と、気の抜けたような大声で名前を呼ばれ、たちばな雛緒は薄目を開けた。朝っぱらから騒々しい。スマホに手を伸ばして時間を見る。午後一時をまわっている。寝たのは昨夜ではなく、今朝の十時頃。まだ三時間ほどしか眠れていない。


「たちばなひなおさーん!」


 フルネールで呼ばないでもらいたい。アパートの他の住人や近所に聴こえるじゃないか。これでも嫁入り前の、うら若きアラサー女子なのだから。


「開いてるー」


 雛緒は布団にうつぶせになったまま、間延びした声でそれだけ言うと再び目を閉じた。頭が痛い。芋焼酎とエナジードリンクの組み合わせが悪かったのだろうか。二度と起き上がりたくないくらい超絶に身体がだるい。


「失礼しまーす。ひな……酒臭さけくさっ! ちょっとちょっと、何ですか、もう、だらしない!」


 姿を見なくとも誰が来たかはわかる。うちを訪ねてくる物好きは一人しかいない。底辺ユーチューバーのこと左京さきょうただしだ。廃墟やら廃村やら心霊スポットやらを訪れ、適当な風景を撮影した動画を配信して小銭を稼いでいる、らしい。二十代後半だと言っていたが、本当かどうかはわからない。


「あのー、俺も一応は男なんで、その、背中が丸見えになってるのだけでも隠してもらえません?」


「うっさい。ここ、私んち。帰れ、デブ」


「あ、あ、あー! 差別発言でた、これ! アメリカだったら起訴されて裁判ですよ、裁判!」


 本当に五月蝿い。ここは日本だ。誰も私を起訴しない。


「何用?」


「雛緒さん、俺と一緒に旅行に行きましょう!」


「死ね」


「あー! またそうやって俺の魂を穢すような無慈悲な言葉をー!」


 何が悲しくて無職のデブ男と旅行しなければならないのか。何の拷問だ。


「彼女作って行け」


「やだなぁ、俺にできるわけないでしょう?」


「私だって行きたくない」


「温泉付きで完全無料でも?」


 目を開いて左京を見る。脂ぎった顔が笑みでほころんでいる。目が合うなり、すかさず「興味、出ました?」と左京の声が飛んできた。


「詳しく」


 左京は「しゃしゃっ!」と奇妙な笑い声を上げ、「えっと、じゃあ、どこから話しましょうかねぇ」と勿体つけるように言い、「実は某県にある島の、新しくできた旅館に招待されまして」と話を切り出した。


「新しく? あんた、潰れたホテルとか工場とか、そんな動画ばっか流してんじゃなかったっけ? それが何で新しい旅館からお呼びがかかるわけ?」


「まあまあ、順を追って話しますから、そう興奮しないで」


「さっさと話せ、クソデブ」


「雛緒さん、そんなんじゃいつまで、痛ッ! 物を投げつけないでくださいよー」


「モラハラだぞ、デブ」


「まだ何も言ってないでしょう。てか雛緒さんこそ、どの口で言ってんですか、まったくもう」


 左京の話の概要はこうだ。コンタクトを取ってきた旅館というのは、もともと心霊スポットとして有名だったホテルを、新しく買い取ったオーナーがリニューアルした物であり、左京が過去に動画を撮影した場所でもあるのだという。たまたまその動画をネットで見つけた新オーナーが、これも何かの縁ということで、プレオープンの客として左京を招待してくれたらしい。


「待って。それ、招待されてんのあんただけじゃないの」


「大丈夫ですよ! 先方と話はつけてあるんです」


「なんて?」


「撮影助手も連れて行きます、って」


 かくして完全無料の温泉に釣られた私は、左京と三泊四日の旅行へ出かけることとなった。


   ***


 日本海側に位置する某県。その沖合には大小四つの島々が浮かぶ。なかでも最大の面積を誇り、唯一の有人島でもある子摺島こずりじまに、左京が招待を受けた旅館天乃屋あまのやがある。県内最北の港町から週三回の定期便が出ており、その日の海の状態にもよるが、島までの所用時間は約十五分から二十分を要するとのこと。


 そして現在、太陽が完全に隠れた曇天のもと、私たちを乗せて荒れる海を航行しているのが定期便らしいのだが、どう好意的に見てもただの漁船である。海遊丸かいゆうまるという船名まで付いているので間違いない。客らしい客は私と左京ぐらいで、あとの数名は漁師であるのが肌の黒さや風体から窺い知れる。


 ウインドブレーカーのジッパーを襟元まで引き上げ、両腕を胸の下で交差させて身を縮める。まだ九月の半ばだというのに、凍えるような寒さだ。日本海側というだけでなく、ことさら今日は気温が低いのかもしれない。温泉に浸かるには丁度いいぐらいではあるが。


「いやー、すっごい荒れてますね、海!」


 左京と連れ立って動きたくない理由のひとつがこれだ。雨男などという生易しいものや、その上位互換である嵐男などとも違う。左京はトラブルメーカー、正確には問題を引き寄せるトラブルドロワーである。本人に自覚はないし、むしろ奴からすると、私が原因ではないのかと疑っている節があるから堪らない。私は巻き込まれているだけだ。


「誰かさんのお陰でね」


 まだ雨が降っていないだけましだが、空模様からするとじきに振り出すだろう。そうでなくても、かつて左京と行った出先が晴れていたことなど一度だってないのだ。


「え⁉︎ なんて言いました?」


 漁船のエンジン音や波の音に吹き飛ばされ、前に立つ左京に私の声は届かなかったらしい。答える代わりに、前方に見えてきた三つの山頂を冠した島影を指差す。左京は前を向いて島影を確認すると、もう一度こちらへ振り向き、「あの島ですかねぇ?」と自信なさげに言った。


 知るか。「あんた前に来たんでしょ?」と怒鳴り返す。ダメだ。大声を出すと喉が痛くなる。


「いや、山が三つもあったかなって! てか、マジであったっけ、あんな山?」


 左京が前回あの島を訪れたのがいつなのかは知らないが、誰かが意図的に作りでもしない限り、数年やそこいらで自然に山はできない。多くの場所を訪れている左京のことだから、おそらくどこか別な場所と勘違いしているのだろう。


「電磁波でアタマやられたんじゃない?」


「え⁉︎」


「なんだっていいよ。タダ飯、タダ温泉にありつければ」


「なんですって⁉︎」


 私は返事をせず、島にある中央の山の頂をじっと見つめ、少しでも船酔いをしないように努めた。


   ***


 退職後、初めの一ヶ月は何もしなかった。何もする気が起きなかった。精神を病んだのではない。疲れたのだ。単純に。それと、毎日あくせく真面目に働く自分が馬鹿らしくなった。人生は短い。退屈な連中とつまらない仕事をしている時間など、本来あってはならないのだ。それは、かけがえのない人生を無為に食い潰すのと変わらない。


 失業手当と少しばかりの貯金を切り崩しながらの生活も、三ヶ月も続ければ日常となる。どこかへ再就職という気にもなれず、ただだらだらと日々だけが過ぎていた。


 私が左京と出会ったのは、そんな自堕落な生活を続けて半年が経とうとする頃だった、と記憶している。




 目の疲れを感じて執筆を中断した夏子は、オフィスチェアの背凭れに身体を預けると、「ふぅ」と長いあいだ溜め込んでいたかのような重い息を吐き出した。天井を仰いだ拍子に、両耳につけた多くのピアス同士がぶつかり合い、シャラシャラと軽い音を立てる。


 クソ暑い。おかめ面のアナウンスが流れたあたりから、急に部屋の温度が上がった気がする。「氷入りの、オモクソ冷えたクラブソーダ、レモンフレイバー付きで」と夏子は虚空へ向かって呟き、右手でキャミソールの胸元を摘んで左手で風を扇ぎ入れつつ、もう一度モニターへと視線を戻した。


 ダメだ。駄文しか浮かんでこない。描写もところどころ抜けている。冒頭も薄い。状況を曖昧にしすぎている。これを投稿するには、大幅な加筆と、ある程度まとまった話数が必要だ。


「あ”ぁ、クソッ!」


 集中できないのはアイツのせいだ。刑罰は犯罪を行った人間に科せられる、だと? あのイカレおかめ野郎、一体どこまで知っているのだろうか。ただの金持ち風情が何様のつもりなのだ。


 視界の端にひかりを捉え、ふとキーボード脇に置いたスマホへと目をやる。手に取り画面を見ると、SNSと連動させてあるソフトからの通知で、『動きを感知!』と出ていた。


 ポップからアプリを開く。御手洗みたらい良昭という、フォロワーが二千人以上いるSF作家のアカウントが表示されている。有名なのだろうか。SFを読まないせいで、有名無名に関わらず、SF作家の名前は一人も知らない。


 先ほど御手洗良昭から十六人のアカウントへ、『馬頭間頼斗へ中傷のDMを送れ』というメッセージが飛ばされた、と詳細にある。


 正面モニター右隣の小型液晶へ視線を移し、『ショー参加者 執筆名一覧』のなかから馬頭間頼斗の名前を探す。あった。ファンタジー作家で参加させられている。


 どうやらこの良昭という人物、このショーの参加者で間違いなさそうだ。まったくの部外者が、偶然ショーに出ている小説家をピンポイントで攻撃するとは考えにくい。


 いわゆる妨害工作。精神的な攻撃で筆を鈍らせようとしているのだ。稚拙な手段ではあるが、対象に与えるダメージは思いのほか大きい。物書きならその効果が絶大であることは重々知っている。それにこの極限状態では、些細な言葉でも強大な武器となりうる。ペンは剣よりも強し、とはよく言ったものだ。


 執筆画面の隣に新しくタブを作り、特定のサーチエンジンを開いて、とあるブラウザのダウンロードを始める。


 余計なお節介なのは承知している。が、私はこういう奴が嫌いだ。憎んでいると言ってもいい。自分が上に行くためなら他人を蹴落とす、競争社会の権化のような、腐った性根の人間を。


 ダウンロードしたブラウザを開き、任意のアドレスを打ち込んでいく。こいつが誰なのか見つけ出してやる。


 夏子はエンターキーを叩き、ディープウェブのさらに下の階層である、ダークウェブへとアクセスした。

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