機内アナウンス
総一が回転ドアのエントランスを潜ると、戸口のそばに立つ黒いスーツ姿の背の低い禿げた老人に、「お待ちしておりました」と声を掛けられた。受付は女性が定番だろうと思ったが、二階まで吹き抜けとなっているロビーには、カウンターどころかオブジェひとつ見当たらない。
建物正面の派手さに反し、壁も床も天井も、材質はわからないが白で統一され、どこか病院のような印象を受ける。
「あの」
「稲葉総一様、でございますね?」
老人はくぐもった声でぼそぼそと喋り、総一が答える前に「ご案内いたします」と先に立って通路を歩きはじめた。約束の時間までまだ十分ほどあるが、この男は自分が到着するのをずっと待っていたのだろうか。
小説家は自称で、実態はコンビニのアルバイトでしかない自分を? まさか、と総一は眉間にシワを寄せ、音を立てずに歩く老人を慌てて追った。
老人のあとに従って通路を進みながら、「あの」ともう一度その後頭部へ声を掛ける。
「瀧田川出版のかた、ですよね?」
「お部屋をご用意しておりますので、詳しいお話はそちらで」
「わかりました」
二階建てでもビルと呼んでいいのか知らないが、どうやらこのやたらと奥行きのある建物まるまる一棟が、瀧田川出版の自社ビルとなっているらしい。たとえ耳にしたことのない企業であっても、莫大な資本金を持っている場合だってあるのだろう。
総一は緊張をやわらげようとして、「自社ビルとは豪華ですね」などというセリフを言いそうになり、それが皮肉に聴こえやしないかと思いなおし、口を開けて息を吸い込みはしたものの、結局は何も言わずに鼻から息を吐いてくちびるを閉じた。
通路の左右に並ぶドアをいくつか通りすぎると、右側の壁の一部、くぼんだようになっている場所で老人が足を止めた。そちらを向いて何やら空中で右手を動かす。わずかな金属音がして壁が左右にわれ、その先に広さ四畳ほどの箱型の空間が現れる。
老人が振り返って何か言い、箱のなかへ足を踏み入れた。背中を向けたままの老人に
再び振動があってエレベーターが止まり、今度は正面の扉が開いた。扉の向こうには、やはり白い壁と通路が見える。老人は無言で箱から降りると左へと進んだ。
つづいて降りた総一は、なんとなく右手に伸びる通路を
総一が追いつくと、老人は右手にあるドアの前で足を止め、壁についた読み取り機にカードキーらしきものを
促されて部屋へ入った総一は、「正面のモニターに説明動画が流れますので、そちらをご覧くださいませ」という老人の声に振り向き、正面を見て壁に何もないのを確認すると、また背後を振り返りながら「モニター」と声を発したが、すでにドアは閉じられていた。老人もいなくなっている。
首を動かして無菌室のような部屋を見まわす。さっき乗ったエレベーターの三倍ほどの広さがありそうだ。天井の数ヶ所には埋め込み式の蛍光灯が透けており、室内を隈なく照らしだしている。ロビーと同様、調度品の類もなければ、窓や照明のスイッチすらもない。あるのは今潜ったばかりのドアだけだ。
椅子もないのかと思っていると、突如、機械の稼働音らしきものが聴こえ、総一は肩を震わせて視線を泳がせた。老人が正面と言った壁の前に、天井から大きなモニターが降りてきている。通常は長テーブルなどを置き、会議室として使っている部屋なのかもしれない。
立ち見をさせられるうえに、最近の打ち合わせはマニュアル化でもされていて、人を介せず動画だけで済ませるのだろうか。説明動画というからには、書籍化するにあたっての出版社との細々とした契約内容や、禁止事項などに関するものを観せられるに違いない。
ならば、わざわざ出版社へ呼び出さなくとも、その説明動画とやらをメールに添付して送ってくれるか、動画のアップロード先のURLを教えてくれれば済む話である。表面上の待遇は丁重なのにも関わらず、どこかぞんざいさをも感じさせる。
モニターを眺めていた総一は、足元が
現れた椅子に腰掛けてモニターを見る。暗かった画面に電源が入り、白い背景の中央に黒で家紋らしきものが表示された。それとも出版社のロゴだろうか。波なのか雲なのか、すべてが流線で描かれている。今風のデザインには見えない。
ロゴがフェードアウトして部屋へ案内してくれた老人の顔が映る。見ていると、雑なGIFのような動きに合わせ、「ちゅうもぉく! それじゃあ次に、大事なことを説明するよ!」と女性の快活な音声が部屋に流れはじめた。陰気な顔の老人と朗らかな
「ルール、いちッ! 時間厳守! 締め切りは守らないとね!」
飛行機の機内アナウンス時に鳴るような軽い音がし、画面の中央にあった老人の顔が縮んで右下へ移動すると、代わりに『時間厳守』という文字が浮かんできた。
いきなりルールの説明とは意味がわからない。書籍化の打ち合わせのつもりで来たというのに、はじめに禁止事項のようなことを口にするとは、少しばかり性急にすぎやしないだろうか。これではまるで、すでに契約が済んでいるかのようである。それとも、流す動画を間違えているのか。
「ルール、にッ! 不正禁止! やったら厳罰処分だぞッ!」
また気の抜けたような音がして、画面内の『時間厳守』の下に『不正禁止』の文字が現れた。「シートベルトをお締めください」というアナウンスでも流れそうだと思っているうちに、早くも「ルール、さんッ!」と女性の声が響いてきた。
「他言無用! 他の人に教えちゃダーメ!」
それでは宣伝ができない。ルールという言い方が気になるが、それでも前のふたつが禁止なのはわかる。もしや、この出版社独自の戦略だかポリシーだかがあるのかもしれない。たとえば、作家には執筆に専念してもらい、宣伝は担当の編集者が代行してくれるとか。
「そして最後ッ! これらのルールを破らないこと! いいかい? それじゃあ大事なことだから、もう一度はじめから説明するよ!」
ルールを破らないことがルール、というのは蛇足や重複表現にも聴こえる。そもそも、破らないことが前提にあるのがルールだろう。
はじめから説明すると言った音声は、画面に並んだ文言を上から繰り返しただけで、「次に、一番大事なことを言うから、よく聴いてね!」とすぐに先へと進んだ。さっきから大事なことばかりではないか、と総一は心のなかで文句を言う。
一番大事なことの説明が始まるのかと思いきや、唐突に動画が消えて画面が暗くなり、中央にデジタルで赤く『24:00:00』と数字が表示されると、今度はその上におかめの面がじわじわと浮かび上がってきた。
「想像力あふるる紳士淑女の皆々様! 今宵はわたくしども、瀧田川グループの主催するショーにお集まりいただき、誠にありがとうございます。これから皆様に体験していただくことは、生涯一度きりの、
男性とも女性ともつかない、高音と低音が悪い感じで入り混じった、不愉快な機械の音声が部屋に反響する。最近の自然な合成音声にはほど遠い、ノイズだらけの粗雑な音だ。面なのでわからないが、おそらく画面のなかのおかめが喋っているのだろう。
「さぁ、それでは、ショーのはじまりでございますッ!」とおかめが威勢よく言い放つ。何もかもがあまりに突然すぎて理解が追いつかない。
お集まりも何も部屋には俺しかいないじゃないか、と思いながらも、総一は首を左右に捻って背後を確認してみた。当然、誰もいない。それにショーとは何のことだ。モニターではおかめの背後に見える左側の数字が、いつの間にか『24』から『23』へと変わり、右側の二桁の数字は今も刻々と変わりつづけている。
「ルールはすでにご覧いただいた通り。至ってシンプル、かつフェアーなものとなっております。そちらに従っていただければ、あとは何をするのも皆さんの自由! 想像力をフルに活用し、思い切りショーを盛り上げていただきたい!」
ルール、ルールと、一体さっきから何のルールだというのか。そんなことよりも、『一番大事なこと』の説明はどこへ行った。
「つづいて、こちらの動画をご覧くださいませ」という声が響くと、おかめ面と背後の数字がモニターからフェードアウトして消えた。
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