ケルスス図書館

 肩同士が触れるか触れないかの絶妙なギリギリの間合いで、行き交う人々を颯爽とかわしながら、稲葉いなば総一そういちは目的の建物を目指して、夕闇の迫る繁華な通りを足早に歩いていた。


 この辺りはいつ来てもドブの臭気が漂っている。初めて来たのは中学生の頃だから、もうあまりよく覚えてはいないが、おそらく当時もそうだったに違いない。鼻の粘膜に異臭が纏わりつくようだ。


 交差点で信号待ちをする群衆に合流して立ち止まると、右隣に立つ大学生らしき男性二人の会話が、吹きつけたビル風にのって聴こえてきた。まだ十月の半ばだというのに、今日はいつもより冷えるな、と総一はベージュのPコートの襟を立てる。


「そういや、あの、本出したウェブ小説家、最近SNSでぜんぜん見かけなくね? 作品も更新されてねぇし」


「あー、俺はアイツの小説、とくに興味ねぇわー。まぁ、少なくともエタり確定っしょ。てか、どうせ一発屋だろ。似た作風の作品、また探せばいんじゃね?」


「オレだって別に好きってわけじゃねぇし。テキトーに流して読めるから、暇潰しにちょうどよかっただけだっての。だから内容とか、さっぱり頭に入ってきてねぇし」


「おま、それマジでただ時間潰してるだけじゃん」


「それな!」などと言って笑う二人の声を、所詮、ウェブ小説の扱いなんてその程度のものだよなと、向かい側の歩行者用信号機を見るとはなしに眺めながら、総一は半ば諦観ていかんした気分で聴いていた。


 信号が青に変わり、人の波が動きだしたのに合わせて総一も歩きだす。誰もがコストを掛けずに生み出せるものに、価値を見出すのは難しい。それに支払われた時間や労力を知っているのは、生み出した本人だけなのだから、なおさらだ。


 横断歩道を渡りきると、今度は右手の道路を渡ろうと再び信号待ちをする者、まっすぐ進んで繁華街の中心を目指す者、左へ折れてラブホテルの多いエリアへ向かう者と、三方向へ人の潮流が別れた。


 総一は派手な色のネオンがひしめきながらも、なぜか全体的に薄暗さを感じさせる、ラブホテル街へと足を向ける。そこが繁華街に落ちた影の部分であるかのように思わせるのは、街路灯が少ないだけでなく、エリアを構成する要素それぞれの性質が、どこか後ろ暗い部分をはらんでいるせいもあるだろう。


 ビルの巨大なスモークガラスに映った自分の顔を見やる。鏡ではないというのに、目の下に浮いた隈までしっかりとわかる。高校時代はジャニーズ系などと持て囃された時期もあったが、髭が生えるようになるとそれもなくなった。アパートを出る前に剃ったばかりの顎を撫でる。今日はまだマシなはずだ。


 スマホを出し、保存してある地図の画像で場所と住所を確認する。目指す建物はラブホテル街のなかにあるらしい。


 横道を折れて一本裏手の通りに入ると急に人がいなくなり、積まれたビールケースと電柱のそばにゴミ袋が増え、夜のとばりが下りた空にけばけばしいネオンサインが目立ちはじめていた。


 自分とは無縁の建物内へと消えていく男女を横目に通りを歩く。いやらしい、と総一が思うのは、特定の行為をするためだけに作られた建物、という部分であって利用者や行為そのものではない。


 総一は不安と期待で足が速くなっていることに気づき、一度落ち着こうと歩みを止めて深呼吸をした。生ゴミの臭いを思いっきり吸い込んでしまいせる。焦ることはない。約束の時間までにはまだ十分な余裕がある。むしろ、早く着きすぎても先方を困らせるかもしれない。


 人のまばらな路地裏に立ったまま、およそ十日前にSNSに届いたダイレクト・メッセージを開く。もう何度読み返したかわからない文言を見つめているうちに、逆に心臓が高鳴ってくるのを総一は感じた。


『貴方の作品に書籍化の話がある』


 そういった旨の出版社を装った詐欺メールを、総一はこれまでに何度も受け取っていた。どうせ今回もそうだろうと高を括りつつも、出版社と編集部の存在をいつものようにネットで調べると、実在していることがわかった。


 だが、まだそれはネット上の情報としてであり、実際の建物を見るまでは過剰な期待は禁物である、と総一は自分をいましめて歩みを再開させた。


 読んで吸収するだけだった趣味に、書いて放出するという行為が加わったのはいつの頃からだっただろうと、異臭に顔を歪めながら総一は考える。自己満足のために書いた作品だったが、人とは不思議なもので、そのうち他人からどう思われるのかと気になりだし、評価を求めるようになった。


 複数の小説投稿サイトに登録して作品を上げたが、はじめのうちは誰も読んではくれなかった。参入者が多いだけでなく、書籍化作家などの絶大なる人気を誇る作品がランキング上位を占めるファンタジーのジャンルでは、ポッと出の素人が書いた小説など読まれるはずもない。


 まず、読まれる以前の問題として、小説サイトに投稿しただけでは誰も知らないのと同じであると気づく。読んでもらうには作品を知ってもらわなければならない。知ってもらうには宣伝が必要だ。


 一人でも多くの人間に、知られよう読まれようと地道な努力をつづけるかたわら、不正かもしれないような際どいことにも手を出した。あからさまなPV数の上昇が起きたのはそれからだ。


 サイトの日間ランキングに載りはじめ、さらに上位に食い込むようになったところで、条件付きで感想とレビューをSNS上で募ってみた。なんだって試してみる価値はある。質は玉石混淆ではあったものの、予想していた以上の数が集まった。


 感想やレビューの増加にともないPV数も増え、平均的な読者数が安定してくると、日間から週間のランキングでも上位に載りだし、話題の作品としてサイトのトップページにも表示されるようになった。


 自分でいうのもなんだが、己の小説がとりわけ優れているとか、同ジャンルの競合他者より面白いとか、特別なものだと思ったことは一度もない。ましてや書籍化の話が舞い込んでこようなどとは、それこそ夢にも思わなかった。


 作品をサイトに投稿するようになってから一年半ほどが経つ。この期間が書籍化の声が掛かるまでのキャリアとして、長いものなのか短いものなのかはわからない。


 ただ、事実として総一が学んだ、作品に付加価値を与えるために重要なこととは、内容にこだわったり質の向上を図るのではなく、どれほど多くの人間の目に触れさせたかということだ。単純に数字がものをいう。


 電柱を見上げて貼られている住所を確認すると、松山一丁目とある。知らぬ間にどこかで町の境を越えてしまったらしい。目的地の所在は枕坂まくらざか町となっている。


 番地を確認しながら来た道を戻る。町名が変わったところで建物同士のあいだに、街路灯のない狭い路地を見つけた。軽自動車どころか大人が二人並んで通れるかも怪しい。


 保存した画像ではなく地図アプリを開く。画面をつまむようにして地図を広域へ縮小する。路地の先に位置する大きな建物に、瀧田川たきたがわ出版と表示された。


 裏手に建つ雑居ビルの一角にでも押し込められているに違いない。電子書籍が台頭してきた今の時代、無名の出版社が街中に居を構えているだけでも奇跡のようなものだろう。などと、業界のことを知りもしない総一は考える。


 路地をまっすぐ進んで突き当たりを道なりに左へ折れると、正面奥のどん詰まりにライトアップされたギリシャ神殿のような建物が見え、総一は意味もなく背後を振り返り、再び前へと向き直ってそれを眺めた。


 初めて来た場所なのに見覚えがある。あれは一昨年、大学の卒業旅行でトルコをまわったときに見た、エフェソス遺跡にあるケルスス図書館の正面部分を模したものだ。


 正面を飾る、知恵、知識、知性、美徳をそれぞれ擬人化させた四体の女性像もさることながら、各八本の柱で支えられた上下二層の豪奢な構造も、一度見たら記憶に焼きついてしまうほどの個性を放っている。


 それでもラブホテル街にあると没個性だななどと思いつつ、総一は建物へ向かって歩きだした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る