第6話 城の中の害意

 鵠山城の役員会議室たる小書院は本丸にあって、大小四つの部屋から成り立っている。

 そのひとつ、いま虎之介のいる座所は、冠をつけた一群の男たちの絵によって飾られている。

 先代の藩主が国を継いで早々に、京から絵師を読んで描かせたもので、当初は十哲の間と呼ばせて上機嫌だったという。

 彼は、このあと十大弟子の間や七賢人の間も城中に作らせてから、また元に戻させた。

 理由は不明だった。


 万事長続きしない人という世評通りの気質がそうさせたのか、いまでは誰にもわからない。ただ、その中でもこの十哲の絵だけは捨てがたいと言い、最初の場所に残されたと聞かされた。

 そしてそのいわくつきの襖絵について、実物を見ていない真喜が多大な関心を寄せ、夫にさまざまな想像を聞かせてくれた。

 そのため、興味津々の顔をして小書院に渡った虎之介に、

「今日はいかがなさいましたか」と兵部が尋ねた。

「いや、思っていたのとはかなり違っていた」

 もっと禅画のような、分別臭い男たちの素朴な顔が並んでいるものと想像していたら、顔回も子路も子貢も、儒者にしては顔立ちが妙に若くて艶っぽかった。


 怖い顔の賢者たちに威圧されるのはかなわないが、業平ばりの若衆に背中をじろじろ見られるのも、決して楽しくはない。

 今朝の会議でも、家臣すべてを均等に見ているかのような殿様らしい表情に気をつけつつ座っていると、後ろから色男たちに嘲笑われているような気がして落ち着かなかった。

「茶が冷めております。新しいものを淹れさせましょう」

「いや、かまわぬ」兵部が小小姓に合図するのを制し、あらためて背筋を伸ばして目の前の話に集中した。

(おのれがやらせているのに、真っ先に退屈してどうする)

 自分にそう言い聞かせ、眠気に負けないよう太ももをつねった。



 音を立てないように注意しながら、鴨居忠次は本丸の廊下をゆっくりと移動している。

 彼の身分では、この空間を自由に歩き回ったりできないのだが、いいわけは一応用意してある。だがいまの彼は、叱責など少しも怖くなかった 。

 よく磨かれた廊下は隙間もなく、みしりとも言わない。いや、これは建て付けの問題ではない、と鴨居は思う。

「結縁」からこちら、彼の体も変わった気がする。槍術と馬術で鍛えてはいたが、これまでの体は筋骨が硬すぎた。

(いまのおれは、ずっとしなやかだ)と感じている。

 まるで、獣のようだ。

 悦に入った表情を浮かべ、鴨居は暗い廊下を幽鬼のようにただよっている。

 その姿を見る者がいれば、いつも胸をはっていた屈強な男が、どうして今日は老人のように背を丸めゆっくり移動しているのか、と奇異の念を抱くだろう。しかし鴨居本人は、自分がおかしいとは少しも感じていなかった。

(今日の役目はふたつある。これを果たそう)

 ふつふつ前向きな気持ちが湧き上がる。


「結縁」の前といちじるしく変化したのは、彼自身の気持ちである。大きく力強い、まるで朝日のようにあかあかと輝く存在と意識の底で結びついたように感じる。以来、ろくに人と言葉は交わしていないが、孤独は感じない。

 また、意識が結ばれたせいだろう、覚えのない過去の記憶が唐突に脳裏に浮かんだりして、なかなか忙しい。これも素直にうれしかった。

 かつての彼は凝り性の反面、家族にも同輩にも容易に胸襟を開けず、常に孤独に苛まれていた。そのため、いかにも親しげな態度を見せてくれた若殿に過剰に打ち込んでしまったわけだが、突然の彼の死によって傷ついた心も、あかあかと輝く存在によって、わずかの間に癒された気がする。


 顔を上げ、鴨居は静かな廊下の先を見た。見回りのくる時刻は承知している。

(それにしても、あの円津というおひとだって、たいしたお方だ)

 直接「結縁」を施してくれたのは、円津と名乗る怖い顔をした僧だった。

 彼は職場での疎外感も、若殿との間柄も、鴨居の言いたくないすべてがあらかじめわかっていて、なおかつ彼を選んでくれた。

(数日のうちに、おまえの真の姿が明らかになる)と、うれしいことを僧は言った。それから二日が経とうとしている。

 もう、変わっているのだ、おれは。


 自分の言葉にうなずきつつ、立ち止まって額の汗をぬぐう。変わったのはいいが、城に近づくとやけに額に汗をかくのには困った。額だけではない、背中もひどい状態だ。

 長年に渡って武芸の鍛錬を続けてきた彼には、肉体に起こる多少の変調ぐらい無視するくせがついている。それで構わず本丸にまで足を踏み入れたのだが、

(これはかなわん)と苦笑いする。

 体が、無視できないほど重くなってきたのは事実である。だが円津に与えられた使命は難しくはない。時さえかければいい。 

 猫が居心地の良い場所を見つけて休むように、鴨居は誰もいない廊下の隅を選び、動きをとめて軽く背をまげて目をつむった。

 ほんの一瞬、眠りに引き込まれる、「結縁」してまだわずかな日数しか経っていないが、さまざまなことを鴨居は知った。そのひとつが眠りの大切さだ。眠ったら、あの存在がいろいろ伝えてくれる。結縁以来、彼の眠りは短いがとても深くなった。

 そしてまた、夢を見た。

 広い屋敷に彼はいた。どこかの藩邸のようだが、鵠山藩ではなかった。

 だれかがこちらを見て息を荒げている。とても怯えていた。

 まるで、猫に魅入られたネズミのようだ。

 見開いた目を向けるのは年配の男。絹物と思しき寝巻きを着ている。鴨居が怖いのだ。枯れ木のような両手を突き出して顔を背ける。湯が沸いたように快感が湧き上がる。

「ゆるしてくれ」悲鳴が上がった。


 鴨居は目覚め、周囲を見回した。だれかが近くを通り過ぎた。

 ああ、起きてしまった。もっと快楽を味わえたのに。伸びをしてから周囲をたしかめる。その目つきは、なんともいえない、浅ましいものとなりつつあるのだが、当人は気がついていない。

 彼は、ここにやってきた役目を思い出した。完遂はまだだ。のろのろと立ち上がって、磨かれた板の上を歩きはじめる。

 廊下の向こうに、番らしい二人の男がいるのが見えた。素知らぬ顔をして通り過ぎる自信はあったが、やめて迂回した。

(重臣たちの合議の中身は、あとでも探り出せる。探し物を優先しよう)

 のちほどまたくればいい。番人だって上役だって怖くはない。

 もはや彼の怖れるのは、この世にはない。赤い存在以外は。


 虎之介は黙ったまま座所から会議の様子を見ていた。

 一段下がった部屋では、襖絵と同じ十人ほどの重職たちがながながと議論を続けていた。残念ながらこっちには絵のごとき美男はおらず眺めても楽しいわけではない。

 この種の会議に加わるのは、今日が二度目であった。


 先代の藩主は、こまごましたことを決める議事にはまるで興味を示さず、いつも結論だけを報告をさせていたという。

 だが虎之介は、藩主としての役目に少しでも早く慣れたいと、自ら参加を決めた。

 むろん、この段階で口を出すことはできないし、いざ臨席したら、見せるための会議になってしまうのは承知していた。それでも、

(習うより、慣れろだ。とにかくやってみよう)と思うようにしていた。

 大書院を会場に、二十人を超える人数を集めて開かれた前回の会議は、参加者による事前打ち合わせが行き届いていたためか、議事はすらすらと進んだ。

 そこで、出席人数が少なく、多少趣の違うものにも参加することにしたのだが今日は開巻から難航し、こう着状態が続いている。

 たとえ形式的ではあっても、少人数による御前会議というものは、藩主に自己を印象付ける機会と張り切るものがいるのだと、虎之介はやっと理解した。


 家老の首座にある内田がぼそぼそと呟き、また口を閉じた。ここ数年、すっかり油気が失せたという内田は、前回と比べてもほとんどうごかない。歳をとった犬が半睡しているようにしか見えなかった。国入り行列の際に見せた精彩をすっかり失ったかのような姿に、体調でも悪いのかと気になった。

「ま、ご家老がたの申されるのが筋であるやもしれませぬが」

 一方、小さな声でしつこくまとわり付くようにしゃべっているのが、長時間化の元凶、中老の林原だった。家老の気力の減退を見てとったのだろうか、かさに掛かっている。

 執政のうち最も若い彼は、前回の会議で虎之介と二言三言交わした。それをどう感じたのか今日は冒頭から口を出している。それも、露骨に新藩主にごまをする立場であった。

 いま議題にあがっているのは、明信院の隠居所へ挨拶に行く際の行列の規模だった。


 藩主と跡継ぎたちの不自然極まりない連続死をうやむやにしつつ、虎之介を新藩主として幕閣に認めさせ国を存続させた最大の功労者が院なのは疑いない。問題とされたのは当事者によるお礼参りを、どれほどの規模で行うかであった。

 彼女が隠居所として国元に建立させた寺は、山深く温泉の豊富な場所にある。領内とはいえ、旅程は泊りがけが前提になる。川船を使えばずっと早いのだが今回ばかりはそうもいかない。

 亡くなった先代藩主は院をけむたがり、晩年は時候のあいさつを怠りがちであったが、最後に出向いた際は総勢三百人近い人数が移動した。

 温泉地へ行くのに風呂桶まで担がせていたという前回の行列は、宿坊をはじめ周辺住民から評判が悪く、明信院の側近からもやんわり苦情が寄せられた。

 今回は、前回よりも供揃えを少なくするとの漠然とした合意が得られていたはずなのだが、林原および行列の奉行に任ぜられ張り切った谷口が抵抗し、ふりだしに戻そうとしているのだった。

「このご時勢に二百も人を集めるのは無駄が多すぎる」と、家老たちの意を呈した者がいえば、

「さりとて、見せる格というものがありますぞ」と林原が混ぜかえす。

「それなら、急ぎあちらのご意向をおうかがいすればいい」

「バカな、付き添いがうまく言上すればいいだけ。恥を重ねてどうする」

「たとえご領内でも万が一は絶無ではありませぬ」

 万が一というのは虎之介の身になにかあるということだ。しかし義兄にあたる男たちが死んだのは原因不明の急病であって、野盗に襲われたわけではない。


 林原はとにかく論が否定にはじまり、核心に到るまで時間がかかる。老人たちが疲れて投げ出し、全権を委任するのを待っているのかもしれなかった。

(わたしも家臣の立場に生まれたならば、あんな風に振る舞ったのだろうか)

 そう虎之介は考えた。林原は同じく中老だった父親がささいなことで先代藩主に疎まれ、息子の代になってようやく先年、中老復帰を果たした。

 現在の家老たちは旧体制の持ち越しなので年寄っており、順調にいけば数年のちには虎之介が多少の入れ替わりも含めて新しく執政を任命することになる。その際の抜てきを、いまから狙っているらしかった。ただ、林原の中老復帰は、生まれと欠員とちょっとした幸運のためであり、能力を評価されてではないことは当人以外の誰もが知っていた。

 兵部は、直接の悪口こそ避けたものの、

「なにを話しても密談に思える方で」と、そのささやくような喋り方を評した。切れ者として早くから一目置かれていた兵部を仲間に引き入れるべく、一時しつこくつきまとわれたらしかった。

 兵部がまた聞いた。

「よろしければ一旦お休みになられますか」

「いや、もう少しだけ聞いておこう」


 脂汗をかきつつ、鴨居は夢を見ていた。

 彼は僧からの指令によって探し物をしていたが、あるはずとされる天守に向かう道筋のひとつで、足がどうにも前に進めなくなった。

 いったん下がって、人のこない部屋を選び、そこで休んだ。そしてまた、夢を見ていた。

 ずっと過去か、最近なのかは判然としない。

 薄暗くて家具の輪郭しか見えないが、よく片付けられた部屋なのはわかる。

 化粧道具が見えた。女の部屋だろうか。とぼしい灯りに、白く人の顔が浮かび上がる。

「あなた様ほどのお方が。恥をお知りなされ」

 美しい唇からこぼれたのは、するどく、口跡のはっきりした言葉。女のようで、女より声が力強い。どこか芝居がかってもいる。

「やかましい」それに答える叫び声がした。

「い、いまさらなにを。こ、この増上慢め」こちらは、いらついた若い男の声とはっきりわかる。

 どこかで小さく、猫の声がした。心配しているような鳴き声。どこからだろう。鴨居は考えた。すると重たそうなものが転げる音して、すさまじい負の感情が押し寄せてきた。

 次第に視界が赤黒く封じられていく。



 いきなり鴨居は目覚めた。首筋の汗がひどい。

 仕方ない。物探しはあきらめた。もう一つの役目、人探しに移ろう。

 人とは、新しい藩主だ。動向を探ろうとした。

 居場所はすぐにわかる。小僧どもが前で番をしているからだ。

 廊下を進んで行くと、

 いた。

 若い男がふたり、いずれもほっそりした首をしている。

 鴨居は残酷かつ乱暴な感情が体に満ちていくのを感じていた。さっきの夢の影響かもしれない。

(こいつらの首を、もぎとってやるのはどうだ)

 鍛えられた鴨居の腕に力がこもる。


 軽く首をうごかし、虎之介はいずまいを正した。

 兵部が心配しているように、やや疲労気味なのは事実だった。

 立場上、疲れていても朝寝をしていたりはできないが、体の方が限界にきているわけではない。まだまだ虎之介は若かった。それよりも、芯が疲れているように感じる原因は、頭と心を休みなく使い続けているせいだと思う。江戸では気をつかいすぎて疲れていた。いまは、

(足らない頭を使っているせいかな)などと考える。


 不幸が続いたのを理由に、初の国入りに伴う祝い事は延期もしくは最小限にとどめている。だから祝宴づかれはない。

 その一方で虎之介は、懸命に「話を聞く」ことを重ねていた。

 現執政たちによる政策方針の説明から、各組頭や町奉行、勘定奉行との面談を重ね、さらには各地の庄屋や大商人にも可能な限り会おうと図っている。もちろん、慌てて詰め込んでもすぐさま飲み込めるわけもないし、過度の渉猟はそれぞれの担当に不安と反発を覚えさせるだけだろう。

 それでも、あとで後悔したくはない。少しでもはやく国全体の状況がつかめるよう、彼はもがいていた。

 虎之介が一番気にしているのは、後継問題に伴う家臣間の反発でも怪事件の真相解決でもなく、実は国の財政上の諸問題である。

 婿にくる前後、明信院の紹介によって、経世家(経済学者)の話を続けて聞く機会を得た。

 そのせいでもないが、他国ほどではないものの近年じりじり増えつつあるという借財を、今のうちになんとかしておきたいという気持ちが強くある。

 むろん、誰の思いもそうなのだろうし、若造が軽々とくちばしを挟める問題でもない。

(それでも、努力を怠っては駄目だ)そう彼は思い極めていた。

 兵部ら側近たちはそんな気持ちがわかってくれていて、好奇心の強いお人柄だと言い繕いながら、財政にかかわるさまざまな事象が彼の耳に入るよう、取り計らってくれていた。今日の会議も、問題の芯はそこにある。

(まずは慎重に、まずは慎重に)そう心の中で繰り返しながら、家臣たちの言い合いを見ていた。

 ついには言葉の応酬もなくなってしまい、これではまるで、睨み合いではないかと思える状況だ。

 しかし、内田たち老臣はどうして動きが鈍くなったのかな、と思ったりする。昔は論客だったと聞いたが、歳をとって口が回らなくなったのだろうか。

 

 首をかしげつつそれぞれの顔つきを見ていて、はたとひらめくことがあった。

(おれはなんて気の回らない男だ)

 虎之介は自分の幼さを呪った。彼は姿勢を再び正した。

「兵部、口を出すぞ。よいか」

「はっ」

 彼は前ににじり出ると、声を励まし、

「このたびの件、いまここにいる全てのものが誠心誠意ことに当たってくれているのはよくわかった。とてもうれしく思う」

 一同が頭を下げた。

「そのさ中に余が口を挟むのもすまぬことだが、それそろあるところに行きたいと思っておる。同じことを考えるのは、その方らのうちにもおるのではないか。あるいは困難に先んじて備えたいと思うものが」

 そこまで言うと、意味のわかったらしい内田たちは顔を見合わせ、ほっとしたように微笑んだ。

「今回の件は、ここまで論を重ねたのだから、あらためて内田らが人を選び、その者たちに一任すればどうか。その席には林原、お前も入ってくれ」

 林原はじめ出席者は一斉に平伏した。それをみて立ち上がった虎之介は、

「では余はあるところへ参る。あとのものも勝手にせよ」と小書院をあとにした。

 付いてきた兵部に、

「すまぬ。年寄りになると用が近くなるのを忘れておった。さっきお前に言われたとき、休みをとらせるべきだった。みな、わたしをはばかって言い出せなかったのだな。気の利かぬ男だ、おれは。これからは遠慮せずはっきり申してくれ」

 兵部は大柄な主君を見上げていたが、黙って藩主専用の厠へと案内した。


 音も立てず、鴨居はひたひたと廊下を進み、書院と外部を隔てる戸のそばに近づいた。

 そこには小小姓組のふたりが、端坐している。これを越えると、すぐに主君と重臣たちが集う空間である。

(とのさまが、おいでにならぬなら、こちらから参るまでよ)

 合理性を欠いた残酷な感情が彼の四肢を巡っている。

(おれは、けものだ)

 若造ふたりを始末すれば、中に入れる。思考の極端に狭まった彼には、ふたりを殺してどれほどの騒ぎが起こるかに思い至らない。

 一人は鉄扇で喉をつく。もう一人は首をひねる。

(なんなら、とのさまにも一泡吹かせてようか)

 鍛えた武芸の技を使って人に危害を加えることだけが、彼の頭を占めていた。



 廊下を曲がったとき、針でこすられたような感覚を覚え、虎之介は立ち止まった。

「いかがされましたか」

 薄暗い廊下の向こうになにかのいる気配がした。この前の夜、寺にきた気配とどこか通じるものがある。殺気というより、妖気。

「誰だ」虎之介は思わず、声を発した。


 すると、「何者だ」戸の向こうでも声がして、小さな物音がした。

 緊迫したその声音に、扈従していた最側近である床几役二人も人影と主君の間に入って身構えた。兵部が短く指図し、一人が前に出て戸を開いた。


 男たちが睨み合っていた。小姓がふたり、中腰で相手をにらんでいる。

 それを背を曲げ、飛びかかろうとする猫のような姿勢で別の男が見ている。


「む、鴨居ではないか」兵部が言った。「こんなところで何をしておる」

 たけだけしい顔を上げた鴨居と、虎之介の目があった。


 急に鴨居の目から光が失われた。 

「谷口様に」とだけ言って、膝をついた。


 鴨居と聞いて、虎之介の脳裏に馬術の名人とされる男の名が浮かんだ。

「もしやおぬし、陣内流の鴨居か」

 明るく声をかけた虎之介に、鴨居は一瞬間を置いてから、「ははっ」と平伏した。しかし粘るように上体を伏せ、べったり腕も床につけている。

「一度ぜひ、技を見せてもらいたいものだ。江戸にまで名は轟いておるぞ」

 鴨居は首をねじ曲げて主君を見上げた。意外そうな顔をしている。

「おい」

「なにをお考えか、無礼な」床机役から声が次々かかった。鴨居の身分と立場では、城中で虎之介を直視などできない。

 ゆっくりとまた頭を下げた鴨居は、

「ありがたきお言葉」

 と言い直した。

 そして、兵部に促された虎之介が歩みさるまで、その姿勢でじっとしていた。

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