第2話 落とし穴を飛び越えろ!
国境から鵠山城へと向かう山道は、途中いくつかの上り坂をへて峰を越えると、徐々にゆるやかな下りへと変わる。
城のあたらしい主である越後守正光こと虎之介は、馬上にあった。
国境で弓組や鉄砲組が加わったことで、行列は獲物を飲み込んだ大蛇のように膨れあがり、ゆるゆると進んでいく。彼の初の国入りを祝うように、陽射しがあかるく射し、よく手入れされた軍装がそれを反射してきらめていている。
列の中央にいながら虎之介は、馬に鞭を当てて飛び出したい気持ちを懸命に抑えていた。
行列を見て回りたいし、これからの居城のことが気になる。なにより、虎之介の関心の多くは、城下の様子やそこに暮らすひとびとにあった。
(さんざん聞かされるだけだった城下町をやっと目にできる。真喜にどう伝えよう。絵は苦手だしな、だれか絵描きに頼むのも、手かもしれない)
江戸藩邸にいた彼の近習たちは、そろって生真面目な男ばかりだった。ためになる話、堅苦しい話は喜んでしてくれるが、城下の様子をいきいきと伝えるのには、適さない。
その意味で虎之介の最大の情報源は、妻の真喜であった。
町は城からなだらかに下って扇型に広がった平野部にあるため、天守からは一望のもとにできるのだ、と彼女は見てきたように教えてくれた。あの時の妻の得意げな顔を思い出すだけでおかしい。
亡くなった先代藩主の娘である彼女は、大名の子女の例にもれず江戸生まれの江戸育ち、実際にその目で国元を見たわけではない。すべて侍女たちをはじめ周囲からの伝聞である。
それでも、あれほど詳しく解説できるとは、どれほど情熱を傾けて城下町の話を聞き、記憶しているのだろう。
これに限らず、真喜について考えるだけで、自然と笑みが浮かんでしまう。
いや、にやにやした顔で城下に入ってはいけない。そう考え、まだ丸みの残る頬を虎之介は引き締めた。
彼の顔の多くは笠で隠れているが、大名の子弟にしては際立って立派な体格は隠しようもない。手足も大きく、背丈はまだ伸びそうだった。
青波と名付けられた彼の馬もまた、騎手に負けないほど大きく逞しい。鞍の上からは行列のかなり向こうまで見渡せた。
閉じ込められるのが苦手な彼にとって、慣例により鵠山の新城主の国入りは騎乗と決まっていたのは嬉しかった。
彼が移動に使う専用の乗物は脇息までついていて、庶民の使う駕籠とは段違いの贅沢さなのだが、中にいるとどうしても息がつまる。
だから、国境を超え里に近づいてから乗馬するという案もありながら、夜明け前に宿場を発つ時点で馬にまたがってしまっていた。
(でも今日は、なんていい天気だろう)
陽射しがここちよいうえ、鼻孔に木々のしっとりした香りが運ばれてくる。
(早駆けできたら、さらに風や光まで感じられるのに)
歳若いあるじの内心を見抜いているのか、用人の筆頭をつとめる榊兵部は油断せずに監視を続けている。そして、村々で名主たちの挨拶を受けたり、小休止するたびに虎之介のもとへと近寄っては、
「くれぐれもお急ぎになりませぬよう」などと、言わずもがなの小言を付け加える。
彼は、虎之介が出立の前に、
「道中、こんなことをすれば面白かろう」
と、妻の真喜と冗談をいいあったのを耳にし、まさか実行しないよう念押ししているのだった。
「わかっている。心配するな」そのたびに、真面目な顔をしてうなずきこたえる。
いくら粗放に育てられた彼でも、槍持ちから熊毛槍を奪って振り回したり、馬の曲乗りを披露したりするつもりはなかった。
なにより、彼の国入り実現までに鵠山藩のひとびとが重ねた苦労を足蹴にするような行為は、つつしまねばならない。
江戸家老など、ただの真喜姫の婿候補として会った際は、ふくよかな男と記憶していたのに、いつしかみるみる豊頰がしぼみ苦渋のしわが刻まれ、一時は幽鬼のようにやせこけた。このごろになってようやく、ただの細面の男ぐらいにまで回復してきているが、いまも自分の健康より、虎之介のそれを気にかけている。
(これほど真剣な家臣たちの願いを、おろそかになぞできるものか)と、内心は思うが、まだ少年と言っても良い年齢の虎之介には、その気持ちの上手な伝え方がよくわからない。
それに、彼らの気苦労はある意味、無理もなかった。国に降りかかった存続の危機が、虎之介によって、ようやく回避されたのだ。
彼の義父にあたる先代藩主は、人柄はともかく大病などとは無縁の健康体であり、夭折をふくめると六人の子に恵まれていた。
ところがある日、昨日まで元気だった彼が突然の奇病に倒れると、世継ぎと決まっていた長男を皮切りに、後継予定者が短期間のうちに次々と急死した。
これほどの事態となれば、幕府による取り潰しを警戒しなければならない。いや、潰されてもおかしくはない。
虎之介が正式に後継者と幕府に認められるまでには、城代家老以下家臣団はまさに綱渡りの日々を送ったはずであり、言葉でいいあらわせぬ気苦労があったのだろうと思う。
しかし虎之介本人だって、ただ流れに乗っていたわけでは決してない。自分のできることは、まさに身を削るほどの熱心さで協力した。その献身ぶりにいまも江戸藩邸の面々は感謝を捧げてくれる。
それでも、小国の厄介者と冷遇される日々から一転、正光と名をあらため十五万石の城持ち大名になったのを、ズルでもしたかのように蔑む向きはいまもある。
まず、誰より、実の兄たちがそうだった。
金もなければ城もない小藩を継いだ長兄は、ゴミ扱いしていた腹違いの弟が手の届かない存在となったのを、いまだ側近たちに当たり散らしていると聞く。
一方の虎之介本人は、ざまあみろいう気持ちより、どこか申し訳なく思う気持ちがいまだにあるのだが、兄が知っても屈辱としか感じないであろう。
とにかく虎之介の人生は激変した。まったく異なる環境へと移行した気分を彼は、「欠け茶碗に乾いたまま置かれていていたのが、急に大鉢に移され、出汁かなにかと一緒にすりこぎでこねまわされたようだ」と、妻の真喜にだけはもらした。
「それでいまは、紋入りの腕によそわれ、立派な膳に並べられてしまった。ますます落ち着かぬ」
すると真喜の返事は、「まあ。ならば、わたくしはきっとその出汁ですね。それとも味噌かしら」だった。
妻は、彼と夫婦になったのを素直に喜んでくれている。いまも気苦労には事欠かないが、この国と縁ができ、真喜をはじめ信頼できる人々と心が通い合えたのだけは、かえがたい喜びであると思う。
「殿。間も無く石仏にございます」
城下にはまだ距離があるが、前方に初代藩主がかつて花を手向けたとされる小さな石仏がある。いったんそこに立ち止まり、花をそなえる予定であった。
暗い茂みの中を、男は背をかがめ、なかば駆け足で進み続けていた。
まだ三十ほどの年齢だが頭髪はすっかりない。尖ったほおに鋭い目つき、顔は黄色味を帯びていて、腰には武器がわりの鎌を持っている。
そして彼の後ろからは狼と見紛うほど大きな犬が四頭、距離をおかずについてきている。いずれも十分以上に凶暴で、人の首を噛み切るなど、造作もなくやってのける。人間よりもはるかに頼りとなる連中だ。
行列が一時停止したようだ。
しかし男の足は、藪にからまれて、もつれた。舌打ちする。
大名行列の速度は遅く、経路もわかっているのだから跡をつけていくのはそれほど苦労しないはずだったが、なぜか今日は思うように足が前にでなかった。
とはいえ、男の頭の中には主人からの指令、
「国入り行列を城下まで追いかけ、途中命令があれば躊躇せず襲え」の言葉だけがめぐっている。体の不調など、なにほどでもない。
一頭の犬が短く唸った。
行列に鉄砲を持った集団がいて、その鉄の匂いが気に入らないらしい。今日は犬たちも本調子ではない。ここで行列に雪崩れ込んでひと暴れしたいところだが、どうにも動きがちぐはぐだ。
仕方なく、男は距離を保ったままでいることにした。
目の前の立派な馬のたてがみが、ぶるっと震えた。
「どうしたのかな」虎之介が聞くと、馬を引く松蔵が答えた。
「茂みの先に狐狸でもいたのかもしれませぬ。この馬はなかなか剽悍にございますゆえ」
「ならば、そのうち私も振り落とされるかもしれないな」虎之介が笑うと、
「いえ、珍しいほど賢い馬にございます。世辞ではなく、殿をお乗せするのをきっと誇りに思うておることでしょう」
馬と武術の稽古だけは生国でも続けていたが、今またがっている青波ほどの馬に乗った経験はなかった。
苦しいことは数々あれど、借り物でない自分の馬を持てたのだけは素直に嬉しい。
行列には、将軍家より拝領の優美な馬もいる。こちらは虎之介より立派に飾りつけられ、横に幾人も供がついている。国元で披露したのちは、この馬にも乗ることができる。気の重い国入りの数少ない楽しみだった。
兵部がやってきて、まもなく休憩場所につくと教えてくれた。
「殿、なにか」虎之介が笑みを含んだような表情で見たので、兵部は聞いた。
「いや、なんでもない。なんでもないぞ」
「まだ、お気を緩められませぬように。だれが見ているかわかりませぬ」
「わかった、わかった」
兵部にはこんな返事をしても、まじめくさった彼との間で繰り返されるやりとりは、決してわずらわしくはなかった。
彼が酷薄そうな顔の中に隠しているものを、この三年ばかりの付き合いのうち、少しは理解したつもりになっていた。
むしろ小言がうれしく感じる時さえある。
兵部は元来、視野が広く万事に見識のある非凡な男だが、用人に就いて以降、なにごとも虎之介に是が非かを考えてから判断を決めるようになっていた。
その献身ぶりには頭が下がる。ふるさとには、これほど虎之介を無条件に気遣い導こうとする人間などいなかった。
(いや、あの二人は違っていたかもしれない)と、虎之介は心の中で条件をつけた。亡くなった母と、扶育係だった板垣の二人である。悲しい記憶がよみがえりそうになって、それ以上考えるのはやめにした。
城下に足を踏み入れる前に、城を遠望できる丘に建つ古い寺で休みをとった。
国境を越えて以来、数百人規模にまで膨れ上がった行列全体が、装備と衣装をこの場所でととのえ直すのだ。ここを降りれば人里、そして城下である。
だから休憩といっても簡易なものではなく、あらかじめ幔幕が張られ、板と筵で拵えた厠も用意されてある。
虎之介は、木々を払って見晴らしをよくした場所に立ち、
「ほおー」と、声をあげた。若い近習たちが思わず微笑んだ。
江戸とも、山がちで狭い故国とも異なる眼下の光景に、目をみはりっぱなしの彼のもとに、家老や年寄衆が代わる代わるやってきては、
「今日はまことに良い日和にて」
「これほどの見事な晴れは、まさに神仏のご加護にござる」
などと、くちぐちに抜けるような青空をほめそやした。
たしかに今年は夏がひどく暑く、九月を過ぎて国入りが近づくと今度は梅雨のようにぼそぼそ小雨ばかりが続いた。それがいざ江戸を立つと天候は落ち着き、昨日今日とすばらしい快晴となった。
「足もとの具合もよい。装束が汚れずにすんだな」少年君主が微笑むと、年かさの男たちも追従笑いを浮かべた。
行列は、ふたたび出発した。
虎之介は深々と息を吸い込む。城下も近いのに、まだ森の香りがした。十二、三まで山裾にある家臣の別邸で野方図に育った彼にとって、樹々の間に身をおいているのは心が落ち着いた。
それに、生国 ―― 正確には彼は江戸生まれだが ―― の山は厳しく切り立ち、森も黒々として人を容易に寄せ付けない。それに比べ鵠山の森はずっと西にあるせいなのか、はるかに穏やかに、近く感じられる。
(山と里が離れておらず、手入れが行き届いているせいかな)と、考える。
行列を追いかけていた男もまた、寺の向かいの林に陣取り様子を探った。国入り行列とは知ってはいたが、うかつにもこれほどの陣容であるとは正しく理解していなかった。
藩主の顔でも確認しておこうと、鎌を背に隠し歩いて近寄ろうとするが、膝が砕けた。
(どうしたことだ)男は焦った。馬や人があれほど固まっていれば、激しく反応するはずの犬どもも、ぐったりと元気がなく、しげみに寝そべったままである。
こいつらは、ただの野良犬ではなく主人と正しく縁を結んだ、特別な犬たちである。だが、それが裏目に出たのかも知れない。
彼は行列の中央になにか巨大な力があると見た。これが男と犬どもを寄せ付けぬのだろう。だが、確証はない。
視認できるまでの距離に近づけないためだ。
(せめて、理由なりと探らねば)
主人との結縁以来、複雑な思考が苦手になった男は、ひとつのことだけを考えるようにして、懸命に己の体を叱咤した。
「やれやれ。草深い鵠山などに行かずにすんだのは助かった」
虎之介は、芝にあった生国、有島藩の中屋敷にいて偶然耳にした家臣らのことばをよく覚えていた。
本来なら、彼が国を移る際には近習のだれかが扈従して国を移るべきところ、鵠山側が丁重に断りを入れたとされていた。
「田舎者は、よそ者を恐れるからな」とも言っていたが、気心が知れてから鵠山側に聞いたところでは、あんな無責任な連中がきても百害あって一利なし、来る気も薄そうだから、こっちから先に断ってしまえ、と早い段階で方針が決まっていたそうだった。
ともかく、故郷有島の家臣たちは虎之介を舐め切っていた。
声をろくにひそめもせず、虎之介の縁談が決まってもまだ、江戸屋敷の中で堂々と相手の国の陰口を言い募った。
「北の厄介様は、例えようもない田舎に婿入りか」
「おう。夏暑く冬寒く、土は痩せて人より狐狸が似つかわしい所だ」
「では、あの金もよくよく確かめないとな。葉っぱに戻っているやもしれん」
むろん、その家臣どもが鵠山を見たことはない。だいいち、自慢できるほど自分たちの国は開けておらず、むしろ貧しく不便なのは承知しているはずだった。よほど妬ましかったのだろうか。
「あの金」というのは、婿入りに付随する支度金のことだ。
緊縮財政の続く有島の国庫にとって、御厄介様を引き取ってくれ、多額の金子まで都合してくれるこの縁談は、干天の慈雨に等しいはずだった。
なのに、少しのありがたみも感じられないのは、一刻も国に止まらず借金のカタとして右から左へ消えるためだろう。
それにしても、故国で受けていた扱いをなにげなく鵠山で話すと、誰もが驚くより冗談だと思ってしまう。
御曹司の足袋や寝間着が洗いざらしのつぎあてとは、質素な国柄にしてもまさかと信じてもらえなかった。
兵部を見知ったのは、まだ藩主息女の婿候補にすぎなかった時のことだ。
常に怒っているようなその顔を、怖いと感じて記憶に残ったのだが、それは仮にも藩主の弟に対するあまりの気遣いのなさに、彼が義憤を感じていたのが真相だったようだ。
青波にまたがったまま、虎之介は身なりを見直した。
朝から山道を行進したことによってうっすら土ぼこりはかぶっていても、どれも兵具役や納戸役から用人衆、そして真喜までが意見を寄せ合い、この日のために選び抜いた品ばかりだった。
いずれも手が込んだ作りなのに、軽くて着心地がよい。相次いだ不幸と質実をむねとする家風のため、「華美を控えやや粗放に」した聞かされた。要は若く溌剌とした虎之介に合わせ、ちまちました柄や刺繍などは選ばなかったということらしい。
馬の歩みに合わせて、真新しい拵えの太刀が腰でゆれている。
彼にとって気になるのは、やはりこちらのほうだ。そっと柄に手をやる。
今日、ようやくたずさえることのできた佩刀は、将軍家へのお目見えに奔走してくれた支藩の藩主から、
「ぜひ、これを腰に国に入られよ」と贈られた。無銘ながら三池典太と伝わる太刀だ。「かの地は古くから河童や一つ目が名物だが、これなら泡を食って逃げ出しましょう」とのことだった。
大名の息子として生まれた身であっても、虎之介が名刀と呼ばれるものを所持するのは生まれてはじめてだった。
なるほど刀身は幅が広く華やかで、よく切れそうに見えた。一度ぐらい試し斬りをしても怒られないとは思うが、まだ持つだけでも緊張する。
体温が伝わったのか、触れるとほんのり暖かく感じた。
樹々の合間から鋭い目をした男が、行列を睨んでいた。さっきの禿頭の男だ。
さいわい、遠くに藩主のものらしい姿を垣間みた。一瞬だったが、見事な馬にまたがって背筋を伸ばしている。間違いない。大柄とは聞いていたが、こういう場合わかりやすい。
藩主に強行接近して以来、目の焦点が合わなくなってきた。当然のことながら目が潰れるほど高貴な存在とは思わない。ただの身体が大きい小僧だ。土埃が入ってしまったのかも知れぬ。
「ふん。駕籠ではなく馬か」
と、馬鹿にした。大勢の家臣団は本気で襲撃があるなど少しも思っていないのがわかる。行列をきれいに保つのに熱心で、周囲を探る気がない。
男は、薄く笑おうとして、
「うっ」手で胸を押さえた。黄色味を帯びた液体が、口から漏れてくる。
原因はわからなかったが、自分の肉体がすでに意思を裏切り始めたのを知った。
焦るが、恐怖はない。数ヶ月前から、無くしてしまった。
かくなるうえは、このまま行列に突っ込んでやってもいい。主人とて怒るまい。
そう考え、後ろ手に鎌を取ろうとするが、うまくいかない。
「これは……?」手の指が曲がったまま固まっている。
もう一度藩主を目だけで追おうとしたが、日輪を正視できないように、眩し過ぎてろくに見られない。。
「なぜだ」男は力なくつぶやき、糸の切れた操り人形のように地に伏すと、忠実な犬たちともどもそこから二度と動かなかった。
馬上の虎之介は、また故郷の国について考えた。
地理的に交通の要衝であったのが唯一の特徴であり、城がなくて陣屋だけなのはもとより名所やめぼしい産物はなく、伝来の名物・名刀もない。まさにないないづくしであり、末弟にかける別れの言葉すらなかったほどだ。
それが婿入りしたら、とたんに銘品づくしといえば語弊はあるが、一挙に目に入り、手に触れる物の質が変わった。
江戸城に参内の際、礼法や口上より、もっとひやひやさせられるのは、彼より官位も国の格もずっと下になった父や兄が、どこかでにらんではいまいか、ということだった。
当たり前だが、父や兄とは着ている装束はもとより、通される部屋、受ける待遇もまったく違う。
当初、城中では人形のようにぎくしゃくとしか動けなかった虎之介を、いわゆる御坊主衆はとても優しく導いてくれた。
「いじめられはしないか」と肩に力の入っていた彼は、拍子抜けしたものだったが、これは神経の行き届いた付け届けのためもあるのだろう。少なくとも、これほど丁重な扱いは、父や兄は経験がないはずだ。
それだけでも恨まれているのに、とどめに弟が伝説の降魔の利剣を伴う姿でも目に止めようものなら、たとえろくにこちらの顔を覚えていなくとも嫉妬で兄は気がふれるかもしれない。
三池典太の太刀は江戸屋敷に届けられたあと、縁起物でもあるため、しばらく祭壇を設けて飾ってあった。
兄のことはさておき、もし真喜が見たら絶対に霊力の実験をしそうだと踏んでいたが、現物を前にした妻の態度は、意外にあっさりしていた。感想も、「思ったより拵が地味に感じました」と評しただけだった。
あとで考えると、こんな名刀が虎之介のもとへ来たこと自体、妻の意思が働いた証拠である。もののけに縁のある刀なんて、どう考えても真喜好みではないか。おそらく彼女と、後ろ盾である明信院が暗躍したのであろう。
妻への想いにとらわれていた虎之介は、目の前に広がる光景にやっと気がつき、思わず嘆声をあげた。馬を曳く従者の松蔵が驚いて振りかえった。
四層の天守閣を中心に、大きく羽根を伸ばしたように街がひらけている。
日の光に、城下町全体がまばゆく光って見えた。
それに、山上から垣間みた際には城とその背後がやや黄色くけぶって感じたのが、一行が近づくにつれ潮が引くように鮮明になり、白い城郭が目に焼き付いた。
「おお、まるで霧が晴れるようだ」
「もしや、邪気が去ったのかもしれん。来年こそ良い年となるぞ」
私語を禁じられたはずの行進中の列の中からも、次々と感嘆の声があがった。
(すると、気のせいではなかった)不思議な現象は、しばらく虎之介の脳裏に残った。
里に下っていくにつれ、道には行列にひざまずく人の姿が増えた。
虎之介はおとがいを引きつつ、笠の内からどんな様子かをのぞき見た。
沿道の人々もまた、いったんは頭を伏せながらも、そっと新しい藩主の姿を目にしようと、姿勢をいろいろ試していた。
(おあいこだ)
ふと、言葉にあらわしがたい感情がわいてくるのに気づいた。地蔵に向かうように小さな童が手を合わせているのを目に留めたせいかもしれない。
飛び降りて菓子でもやりたかったが、余計な振る舞いはするなと釘をさされているので我慢した。
家々の並ぶところまできて、その間の道を進んでいると、人々はさらに増えた。どこからか波のような歓声がひびき、ささやき声も聞こえてくる。
馬上にいるとかえって耳に届きやすいようだ。
「前のお方より若いのに押し出しはええな」
褒め言葉が聞こえてすぐ、
「見た目は立派でも、肝心の中身はどうじゃ」
「いらぬ触れ書き、せぬといいな」
という声が耳まで届き、おもわず鞍からずれ落ちそうになる。
悔しいので、声のした方向に首をかえし、軽くうなずいてみせた。
小さくどよめきが起きた気がしたが、虎之介はすまし顔のまま、馬に身をまかせた。
平らになった道を進み、商家の点在するあたりへと行列は入ってゆく。一挙に沿道に人が増えた。前方に小さな川があり、幅のわりに短い橋がかかっている。その周囲には、あふれんばかりに人がいる。
供頭から短く声がかかった。
「殿、あれを」
「うむ」
町民達はその川から城の外堀に至るまでを掘ノ外と呼んでいた。城下町の中核にあたり、商家も職人もそこに居を構えるのは橋の手前に住むよりも格上とされていた。橋の向こうには緞帳が張られ、紋付姿の男たちがずらりと控えていた。大商人からなる町名主たちが挨拶に出ているのだった。
藩祖の例にちなんで、橋の先で一旦止まって、用意された酒肴に軽く口をつけることになっていた。入城までの最後の山場が、ここだった。
―――― あれ。妙だな。
さっきの太刀に続いて、こんどは胸元がほんのりと温かいのに気がついた。国入りのために真喜の持たせてくれた守り刀を、今日は袋に入れて胸にさげていた。それが、うっすら熱を発しているように思えた。
(おれが風邪でもひいたのかな?)
緊張のせいだろうか。疑問をもったままの虎之介を乗せた青波は、硬質な足音をたてつつ、湾曲した橋を一歩一歩渡ってゆく。
「どうした」
中ほどまできて、青波が脚をつっぱって止まった。
そして、これ以上前に進むのを拒否するかのように首をふり、手綱を持った松蔵に抗う。経験豊富な彼にも、すぐには理由がわからないようであった。
「いかがなされましたか」異変に気付いた周囲の武士たちの声が終わらぬうちに、なにかが引きちぎれるような、嫌な音がした。
急に目の前の橋板がごっそりと、抜けるように川に落ちた。
小さく悲鳴がして、ちょうどそのあたりにいた供が三、四人ほどと、とっさに手綱を離した松蔵の姿が見えなくなった。水しぶきがあがり、あとは大きく口をあけたように空洞のできた橋が残った。
「とのっ」
「慌てるな」
「止まれっ」
声が重なり、行列が乱れる。
青波の後ろから付き従う行列がたたらを踏んだ。
とっさに、虎之介は対策を検討した。
足下に残った橋板も、続いて落ちるかも知れない。大勢いる沿道の人々も近寄ってこようとしている。さらなる危険は無視できない。後ずさりだけはなんとしても避けたい。しかし穴は大きい。避けて通るのは無理だ。しかしすぐ後ろから人の塊が押し寄せてくる。しかし彼らは、主君を押し退けられない。
彼らの転倒を回避するための、最大の障害物は自分だ。
前に出るべし。
顔を上げると、穴の長さは正味四尺四寸ばかり。落ちずにすんだ供たちは、橋の残った部分に爪先立ちになって分かれたところだった。目の前には、大きな空洞。
虎之介はすぐ鐙に足を掛け直し、青波にささやいた。
「飛べるか」
言葉を理解したのか、馬は自ら頭をあげた。後ろ足にぐっと力が入ったのがわかる。ほんとうに賢い馬だ。
「よし、いけ」声とともに、青波は前方に残ったわずかな橋板を蹴って加速して、跳んだ。
人馬は美しい姿を宙に描き、穴を飛び越した。
「ほおっ」
思わず周囲の漏らした声に重なり、蹄が激しく木を叩く音がした。
青波は無事、穴の向こう側に着地した。そして、橋を降りてすぐのところで小さく輪を描きながら、虎之介は声を張り上げた。
「大事ない。進むのはしばし待て。それより無事な者は落ちた朋輩を助けよ」
予期せず目にした新城主の凛々しい姿に、武士も町民も言葉にならない歓声をどっとあげ、動きはじめた。まず侍たちが一斉に馬上の主君に近寄り安全を確かめた。次いで様子を見ていた町人たちが賑やかに橋を取り囲みはじめる。
供の一人、深田新八はようやく水中から立ち上がった。
川は思ったより深く、ずぶぬれになった。両刀は失わず足も無事だったが、これでは行列に再び加わることはできない。情けない気分で川縁を探して近づくと、
「無事か」声がして、手が差し出された。
無意識にそれを掴もうとして、指がずいぶん白いのに不審をいだき、仰ぎ見た。
若々しい顔が笑っていた。
―――― こんないい男、家中にいたかな……。そう思うと同時に、どこかであった気がしてならない。
「お前のおかげで、馬ごと川に落ちずにすんだ。礼を言うぞ」
虎之介の顔を見たまま、新八はあんぐり口をあけて立ちすくんだ。
川岸から、
「ばか、新八」という声が聞こえる前に、新八はもう一度川に膝をついて平伏した。袴も髷もぐしゃぐしゃになった。
「申し訳ございませぬ」とにかく、謝った。
「謝ることはない。面をあげよ」
その横から朋輩たちがわらわらと近寄り、新八を引き上げてくれた。
また声がかかった。
「怪我はないか」
「ははっ、ございませぬ」
虎之介は駆け寄った供頭に、
「あの者の着物をそっくり替えてやれ。風邪などひかぬようにな」と命じた。そして、
「すまぬが、先に行く。あわてず着替えてから参れ。城で会おう」
笑顔で声をかけると馬にまたがり、薫風のようにさわやかに行ってしまった。
陸にあがった新八は、魂を抜かれたようにその姿を見送った。
「思ったより、気さくな方だったなあ」
「馬はなかなか上手でおられるな」
「早く行かんか!」
「へへっ」
供頭の叱責も、中間たちの軽口も聞こえないかのように、新八は無表情でぼんやり突っ立ったままだった。
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