妖猫は満月に尻尾を向ける 鵠山怪猫騒動
布留 洋一朗
第1話 序 跡継ぎの怪死
雲が夜風に流れて月を隠すと、鵠山の城下町は闇に覆われた。
だが、城から半里足らずの場所に建つある武家屋敷では、日が暮れてからもぜいたくに火が焚かれ、門前は昼間のように明るかった。
ふだんなら昼間でも静かな、藩主の別邸だったこの建物には、深夜になっても大勢の人々が忙しく立ち働いていた。
「五番目?六番目?」大きなつづらを広い前庭へ担いできた男が小声で聞いた。「運のいいのはどっちだったかな」
「五男、だったかな。あとはこまいうちに仏になったか、婿に出たはずだ。あ、みんな死んじまったんだったかな。まあいい。とにかく男は、五人でおしまいのはずだ」
さっきの男が、前よりやや小ぶりなつづらを持ってきて、
「息子もおわり、荷物もおわり。めでたし、めでたし」と言った。
「しかしたいそうな荷物だよな。これが最後に残った御身の回りの品だというんだから、どれだけ荷物持ちなんだよ。お武家様なら、槍一筋に鎧一領。あとは死装束ぐらいで済むんじゃないのかい」
「そりゃもっと下っ端のはなしだ。十五万石のお殿様になられるんだから、いいじゃねえか。だいいち、あんまり質素だと俺たちの商売あがったりになるだろ」そう言った相棒は指で荷を数え直し、
「よっしゃ、朝には城から馬がくる。それでおれたちの仕置きは終わりだ。どうにもけちな若様だったけど、最後はお手当てを弾んでくれたし。兎にも角にもめでたしだ」
「そりゃ、お祝儀ぐらいもらわねえと。これから江戸に登って公方様に会って、晴れてお城を貰うんだろう。もっと気前よくしてくれても、バチは当たらんのにな」
「まあな。でも、どうせご本人が頭を下げて選ばれたわけじゃないだろうし。この若様、養子になったり出戻ったり苦労はしたらしいけどさ。兄上たちが見事ぽっくり逝って、冷や飯食ってたのが吉と転じたのは間違いない。他家に養子に出てたら駄目だったところだ」
「へへへ。生きて待ってた甲斐があったな」
「本当だ。親方の話じゃ、死んだ兄上びいきだった連中がいまだにゴネてるらしいけど、どうしようもないわなあ」
「しかし親方は当てたな。厄介者扱いの方に肩入れしてたとは、これで一躍」
そこまで言って二人は口を閉じた。屋敷の使用人に先導されて、目の前を貫禄のある商人風の男が通り過ぎたからだ。
姿が見えなくなると待ちかねたかのように、
「あれも当てたクチかな」と、値踏みがはじまった。「それとも、急いでゴマをすりにきたのかな」
「どうかな。こんな夜更けに供も連れず乗り込んでくるとは、怪しい。うちの親方より深く食い込んでいるとすりゃ、もしやあの噂に一役買った張本人かもな」
そして二人は楽しそうに、城下でひそかに流れる「若様の兄上」らの死をめぐる暗い噂をささやきあった。
商人は途中までくると、「もう、いいですよ」と先導してくれた使用人を帰した。そして、勝手知ったる様子で迷いもなく、家に踏み入り庭の隅を渡り、奥まったところにあるこの家のあるじの居室へと向かった。
そこには泉水があり、苔むした庭があった。商人の影が近づくと、啼いていた虫たちが静かになった。
部屋には男が一人、起きて座っていた。まだ若い。華奢な体に寝間着姿のその男は、なにか思案をめぐらせるような顔つきで中庭に目を向けていた。
「誰か」気配を感じたのか、男が声をかけた。
「さすがのあなた様も、寝付かれませんか」
「ふん、六兵衛か」若い男は言った。「お前のくるのはいつも唐突だが、今宵は特にひどい」
「恐れ入ります、克乃進さま。いや、もう忠親さまとお呼びすべきでございますか」
六兵衛と呼ばれた影は謝った。物陰で突っ立ったままで、言葉に感情はこもっていない。しかし慣れているのか、克乃進と呼ばれた若い男は、とりたてて無礼をとがめたりはしなかった。
「おおやけには、名乗りは江戸で御前に出てからだ」克乃進はそう言ってから、「まあしかし、父に付けられたこの名は気に入らなかったからな。変わるのは素直に嬉しいぞ」と付け加えた。
「結構なことにございます。ご機嫌も麗しいようで」
「ふん。それより、夜も更けて、怪しい奴が入り込んでいるというのに、誰も見にこぬ。その方が姿をあらわすのはいつも人のおらぬ時だが、これからはそうはいかん。もっと警備を厳しくせんとな」
「ほう」
「こんな所に押し込まれて我慢ばかりだったが、お目見えを済ませれば、おれはあの城のあるじだ。不寝番もつく。お前も、これからは前と同じにはいかんぞ」
そう言って彼は尖ったアゴを上げて庭木のむこうをさしたが、城は闇に包まれて見えなかった。
「そうなりますか」
「残念だろうが、仕方ない。この不満だらけで落ち着かぬ暮らしも、やっと終わる。そして、おれに仕える者は、今と比べものにならぬほど増える。くるなと言っても近づきになろうとするだろう。おれを邪険に扱った者を『その方は遠慮せよ』とか『帰れ』などといじめてやれば、どんな顔をするかが楽しみだ」
「わたくしは、そうひどくはなかったつもりですが」
「まあそうだな。だが、こうして会うのは難しくなる。なにせ、当分は江戸暮らしだからな。江戸はいい。金さえあれば、あれほど楽しい場所はない」
当人も突然の幸運を怖れる気持ちがあったのだろう。これまで抑えてきた嬉しさが、にわかに吹き出したように克乃進は言葉を重ねた。
「いいか、この暮らしが終わるとはどういうことか。もうなにも恐れずにすむ。父や兄の機嫌を気にし、犬のごとき忠義面を浮かべる暮らしともおさらばだ」
「ほほう、生々しいですな。そこまでご苦労されていたとは、存じませんでした。なるほど、たしかに我慢は終わりましょう」六兵衛は一歩前にでた。夜だけに顔色は読めないが、表情はどこかさばさばしたように見えた。「それにしても、若様はわたしに帰れとはおっしゃいませぬ」
「なんだ、言われたいのか。どうせなにか用があるのであろう。早く申せ。しかしおれは」
次期藩主は座ったまま、ぐっと伸びをした。
「夜があければ、旅立たねばならぬ。明日は吉日。城に寄って見送りを受けたら、そのまま江戸へ。行きは船、そして次に帰ってくるときは大名行列だ」
六兵衛は立ったまま一礼した。
「まことにおめでたき次第。つつがなく行けば、鵠山城主となるお方とさしでお話しできるのも、これで最後。わたしもわたしの主人も、心から喜んでおります。目ざわりな兄上も取り巻きどもも、あなた様がこころの内に描かれた願い通り、雲散霧消いたしましたからな」
「おい、うかつなことを申すな」はじめて克乃進は慌てる口調になった。「今宵はまだ大勢が夜なべしておる。聞かれればどんな噂をまかれるか知れたものではない。おれは、後ろ指をさされぬ君主になりたいのだ。兄という神輿をなくし、はき違えておれを憎む愚か者もまだ残ってはいる。だが、いずれはそやつらも分け隔てなく登用するつもりだ」
「ほほう、さっそくお心の広いこと」
「おれは、兄よりひとは分かるつもりだ。日陰に捨て置かれて苦労したからな」
「さようで。たしかに兄上様は籠の中の鳥でしたからな」六兵衛は淡々と評した。「鳴き声はまあまあでも、世間を知らない。それにひきかえあなた様は、下々の心がおわかりになると、期待するひとたちもいる」
克乃進はうなずいた。「ぬくぬく暮らした兄や妹とは違う」
「そうそう、江戸屋敷には妹様がおられました」
それまで冷笑的だった商人の態度が、わずかに変化した。
「面白い方のようですな。噂を興味深くお聞きしています。実は前に江戸で一度、遠くからお姿を拝見したこともございます」と言った。その口ぶりは、目の前の若者に対するのとは明らかに異なり、まるで尊敬でもしているかのようだった。
「妹様はあなた方とは違い、母君がご正室でいらっしゃる」
「継室だ」克乃進の指摘が耳に入らなかったかのように六兵衛は続けた。
「わたくしなど、妹様が婿取りをされて跡を継がれるかとも思うておりました。たいへんなお方が後ろ盾についておられますし」
「明信院さまか」次期藩主は不満そうに鼻を鳴らした。「おれにとってもだ」
「ほほう」
「妹のことをどこまで知っておる。あれは身もこころも子供のままだ。ずっと前からだし、これからもそうだ」克乃進はせかせかした口調になった。
「あれにまともな婿はこぬ。どこからか男をあてがい、別家を立てさせる話を聞いたが、その後は誰もなにも言わぬ。言うわけがない。おれの気に入らない案だからな。潰れたのさ」
「ほう、あなた様の。それは存じませんでした」
「それに、明信院さまはおれが気に入っているのだ。兄や妹とは違うからな」
「それはそれは」六兵衛はうっすら笑った。「たいそう人を見る目のある方とうかがっておりましたが」
「この歳まで貧乏くじを引き続けた借りが、ようやく返せると言うものだ」
六兵衛の皮肉には気づかず話し続けていた克乃進は、「ん。わかった」と、障子のむこうの誰かに向かって小さくうなずいた。
「用とはなんだ。そろそろ言え。おれは、もう休んで明日に備えねばならぬ」
「お約束どおり、百日がたちました。それをお伝えにまいりました。それと、お願いが」
「そのことか。しかしお前の主人とやらは、底の知れぬやつだな。そやつの言葉どおり、この三月ほどは目が回りそうだった。たしかに兄上がたも気の毒ではあったが、ここまでくれば、おれが道を開くための人柱になってくださったと考えるより、ない」
悲しげな顔をつくってはいたが、こみあげる笑みをこらえるように口元は歪んでいた。「よろしく伝えておいてくれ。むろん、主人にも礼はするぞ」
「それがですな」六兵衛は言った。
「わたくしにとっても意外なことになりました。実を申しますと、わが主人はこのところ、ほかの国にこころを寄せておりまして、この鵠山についてはすっかり頭から離れておったようなのでございます」
「……」
「それでわたくしも、すんなり貴方さまに跡をついでいただき、それからじっくり借りを取り立てるのだろうと思うておりました。ところがここにきて主人め、わたしからすれば実にもったいないことを申してまいりました。やはりあきんどとは、よほど違った考えをいたします」
「なに、お前の主人は商人ではないだと」
「ええ。違います。申しませんでしたか。それゆえ、銭勘定にはあまり興味が」
「噓をつけ」克乃進は鼻で笑った。「隠さずとも良い。もったいぶっておれに会わせなかった主人とは、江戸でお前の店に舟や人を世話している日本橋の但馬屋であろう。調べさせたぞ、図星か」
いつの間にか克乃進のいる部屋の隅に壮漢がひとり、座っていた。脇差を帯びているだけだが、鉈のように厚みのある剛刀なのはすぐに分かった。腰に添えた手も大きく骨ばっていて、力強い。
「いいえ、まったく違います」六兵衛はため息をついてみせた。「手の者に人を得ないお方と思っておりましたが、ますますもって残念。どなたに調べさせたかは存じませんが、頼りない隠密ですなあ」
「図に乗るな」若殿はようやく怒りはじめた。「なんだと、おれを愚弄する気か」
「正直に申したまでです。主人は商人ではございませぬし、詳しく説明するのはとても難しゅうございます。しかしかの者は、約定どおりあなた様に期限がきたとお伝えせよとだけ命じ、この六兵衛の言葉など聞いてはくれません。たしかに、夜が明ければちょうど百日。お気の毒ですが、あなた様は江戸にお発ちにはなれませぬし、ましてや大名などなれぬとのことです。あっ」六兵衛は軽く手を挙げた。
「むろん、かく言うわたくしも、この世から消えて無くなります。因果はめぐる。仕方ないですな」
「百日の間、おれの望むままに事が進むとは聞いた。それ以外になにがあるのだ。つまらぬ脅しはよせ」
「いえ、嘘ではありませぬし、脅しでもない。百日の間、なにごともお望みのようになったのが、明朝終わるとお伝えしただけにございます。あなた様もわたくしも、主人にとっては旬の過ぎたくらげのようなもの。干物にできぬし、種も取れぬ。それに、わたくしもようやく知りましたが、はなから主人の真意はあなた様を城主にし、一生ものの恩を売ることではなかった」
「真意とは、なんだ」克乃進の声が一挙に冷たくなった。
「はい。つまりは、かつて遺恨を含んだ者どもと、それに関わりの深い者に、意地悪く仕返しをしたいだけでした。人を期待させて操って、面白がって、裏切って、すうっとしたいそうです」
「斬れっ」克乃進は叫んだ。「無礼討ちだ、構わぬ」
縁側へと膝行してきていた壮漢は、声と同時に庭へと飛び降り、
「ごめん」と一言発して六兵衛に斬りつけた。
ところが六兵衛は、意外なほどしなやかに身をさばいて抜き打ちをかわすと、軽い動作で大きく飛び下がって、笑い声をあげた。とても肥満気味の年配の男には思えない身のこなしだった。
「あはは。ああ、おかしい。ここで逆らってもいいのですが、やめておきます。主人はこの六兵衛がこの場で消えるのを望んでいるようですからな。わたくしが昔、しでかした悪事の報いにございます」
言葉の終わらないうちに、壮漢が六兵衛の胸を突いた。そしてすぐ引き抜いて首筋を抉った。
「むっ」壮漢が戸惑った声を出した。思ったほど血が飛ばす、手応えもおかしかったからだ。六兵衛はそのまま、崩れるように地面に倒れた。
「うっ、これは……」暗い庭には、六兵衛の着物と血肉の混ざった汚物のようなものが混ざってわだかまっていた。ひどいにおいがした。「片付けさせろ、せっかくの門出によけいなミソがついたな」
壮漢はうろたえた顔をして汚物の山をつついていたが、諦めて奥へと人を呼びに走った。
翌朝、克乃進は夜明け前に起床し、朝食をしたためようとしていた。
昨晩の騒ぎの後始末のせいで、当初の予定より出立が遅れてしまった。しかし家臣たちは「殿のお目覚めになる時刻にすべてを合わせます」と言い、気にせずゆっくり休むよう勧めた。
(考えれば、駕籠であろうと舟であろうと、すべておれに合わせるのだな)
それでも早く起きてしまい、わざとゆっくり支度をした。
膳に向かうと、少量の粥、漬物に魚の煮付けが置かれている。別の膳には勝栗などが並べられているのを目にした彼は、
「気が早いな」と嬉しそうに言った。
粥の入った茶碗をとったとき、部屋に朝日がさした。雲のせいだろうか、いきなりの現象に「うむ」思わず声をあげる。
「きっと、天もことほいでいるのでございましょう」給仕にあたった若い家臣が言った。
「おう、そうだ。よい兆しだ」
機嫌よく粥をすすりあげ、また茶碗を手元に戻した。
硬質な音がした。
「うん、なんだ」碗のなかに何かが落ちていた。
白く光る、歯だった。朝日に光っている。臼歯のようである。
また、硬い音がした。こんども歯が落ちていた。眉をひそめて見つめる。どうも、自分のものであるらしいのに気がついた。
軽く咳き込むと、碗が真っ赤になっていた。次に口から落ちたのは、血と肉だった。
「おい、これは」
白い絹の寝間着が朱に染まった。口からわけの分からぬどろどろが落ちて、止まらない。
かたわらで家臣の口から押し殺した悲鳴があがった。
自分でも悲鳴をあげたつもりだったが、かなわなかった。舌も唇も一緒に落ちてしまっていたからだ。手で押さえようとして、赤い中に白く骨が見えているのを知った。
そのうち、堰を切ったように彼の上体は崩れはじめ、次第に原形を留められなくなって、膳の上につっぷした。
鵠山藩主の第五子であり後継予定者であった男は、人の形を失った赤い塊となって、居間に堆積した。
悲鳴を聞きつけてやってきた江戸行きの担当者は、自分でも大声をあげながら、
(また跡継ぎを探さないといかんな)と、頭のどこかで考えていた。
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