彼岸花の上がる
拓亜
彼岸花の上がる
平城山中学校3年2組の問題児、葉山恭介はいつも遅刻してくる。彼がホームルームのドアを開いてやってくるのは、いつも昼休みの時間。スクールバッグをロッカーに突っ込んでから、配膳台にある牛乳パックを手に取る。ちびちびと飲みながら午後の授業で提出する課題に取り掛かるのがいつもの風景だ。
彼と同じクラスになるのは今年が初めてだが、聞けば小学五年生のころからこんな調子らしい。高校では通用しないぞ、とぼやく我がクラスの担任は、改善をあきらめているようだ。
一日の半分以上の授業を欠席していることになる葉山君は、決してバカではない。かといって天才というほどでもない。なにもしなくてその成績なのは正直うらやましい。
午後の最初の授業で教室に入ってきた保健の先生が、今日は葉山がいるんだなとぼやく。コクリ、と頷く葉山君の表情は、目元まで伸びた髪の毛のせいでよくわからない。めったにしゃべらないし、かなり地味な男の子だ。
もちろん、私から話しかけたことはない。いじめの標的になりそうなものだが、クラスのスクールカースト上位者たちはそこまで興味がなさそうだ。私と違って。
さて、葉山君は一体午前中に何をしているのだろうか? クラス中の疑問であり、平城山中学校、略して平中に伝わる都市伝説は正確な情報を持たない。
噂は独り歩きし、河原にずっといるだの、図書館で勉強してるだの、果ては彼女と遊んでいるだの。直接葉山君に聞いたことがある子もいるが、『学校より面白いところ』としか答えてくれないらしい。平中七不思議の一角を飾る日も近いだろう。
ちなみに、第六の不思議である『夜になると光る音楽室のCDプレイヤー』の謎は、最近そのいわくつきプレイヤーが買い替えられたために立ち消えようとしている。
くだらない、と吐き捨てる。噂話で右往左往する同級生も、塾に行かずに好成績を取る葉山君に嫉妬してしまう私もくだらないし醜い。鬱々とした気分になってしまうのは、梅雨のせいでもあるし体調不良のせいでもあるだろう。
私は残暑が厳しい中、季節外れのインフルエンザをもらってしまった。一週間ずっと、白い天井を見上げるだけの生活。
やっと解放されるのは嬉しいけども、学校が楽しい訳じゃない。教室に入ったところで、スクールカースト上位の陽キャたちがテリトリーを主張しているくらいだ。満足に勉強もできない学校に、果たして行く意味はあるのだろうか。
でも、日本の同調圧力に逆らって生きていけるほど私は強くないし、実績も持ってない。
仕方ないから、病院で完治証明書をもらい、そのまま中学校へ向かう。いつも川沿いの道は危ないから通るな、と母親には言われているが、今日は通る。
ちょっとした非日常が好きだ。毎日の嫌な繰り返しがあるからこそ輝く非日常のお陰で、繰り返しにも耐えられる。
川の土手には彼岸花が咲き乱れていた。しゃがんでじっと観察すると、微風にそよぐ様子が気持ちよさそうだ。そういえば。彼岸花の群生地は武士の墓場だと教えてくれた友達がいる。ガセなんだろうけど、何もないところで野垂れ死ぬよりは、花が弔ってくれるなら万々歳だと思う。
「彼岸花の花言葉、知ってる? 」
驚いて後ろを振り向くと、葉山君が上から私を覗き込んでいた。どうしてここに。驚いたけど、それと同じくらい『何言ってるんだこいつ』と奇妙に感じる。
「知らない」
葉山君は畳み掛けるようにして食い気味に答えた。
「あきらめ」
「ふぅん」
不吉だな。そして、感じ悪いな。
葉山君は私の隣にしゃがみこむ。柔らかな長い前髪が顔の前で踊る。
「千歳さんがサボるなんて珍しいね」
「サボりじゃない。病院行ってたからこれから学校」
「行くの?」
もちろん、と答えようとして言葉が出なかった。学校行くのがバカみたいに思えた。
「行きたくない」
断言してしまったら、学校に行けなくなってしまいそうだった。葉山君はふっ、と少し笑うと立ち上がる。下から見上げると、いつもは隠れている瞳が見えた。日本人の一般例に漏れず、黒かった。
「学校より楽しいとこ、行かない? 」
歩く速さを合わせてくれる葉山君に連れられてやって来たのは、土手を市道方面に下って100メートルほど歩いたところにあるあばら屋だった。廃工場なのだろうか。天井が体育館に負けないくらい高くて、テニスコートなら4つは入るくらい広い。日陰だからか、ひんやりとして気持ちいい。
「どうぞ」
「いいの? 入っても」
「まあね」
しかし今日の葉山君は紳士で饒舌だ。学校とは大違い。こんなに喋らないし、口角が上がってない。
お茶を入れてくれるようだ、一人暮らし用の冷蔵庫から麦茶が入ったピッチャーを取り出す。ガレージに冷蔵庫があるなんて、と驚くけど周りを見渡してみてもっと驚いた。
よくわからない機械がいっぱいある。父さんが車のタイヤを変えるときに使うスパナとかジャッキはもちろんのこと、溶接をする時に被るドラム缶の一部みたいなマスクもあった。
「おまたせ」
鉄のタンブラーの中に、麦茶と氷が3つ入っていた。キンキンに冷えていて、飲んだらお腹を壊しそうだ。やけくそで一気に飲む。インフルの時は温かいものしか食べられなかったから、荒涼とした刺激が新鮮だ。
「ありがと、ごちそうさま」
「どういたしまして」
「面白いものって?」
「ふふっ」
あの葉山君が、笑った。前髪を掻き上げて、大きめのバナナクリップで留める。
「平中の七不思議作ってるんだ」
「はい? 」
ドヤ顔で胸を張る葉山君には申し訳ないが、もう葉山君は七不思議だと思う。
「一から五までは上手く行ったんだけど、六が上手くいかなくて」
「六って、あのCDプレイヤー?」
「そ、俺の自作」
CDプレイヤーを葉山君はスチール机の上に置く。いつのまにか無くなったと思っていたけど、葉山君が回収していたのか。
「ゴミ捨て場から回収してきた。折角イルミネーション機能を充実させたのに」
葉山君は再生ボタンを押す。シューベルトの魔王だ。確か、一年生の頃の音楽の授業で聴いた曲。不気味な三連符が鳴り響く。
「ゴミ捨て場にCDもいっぱい捨てられてたからついでに拾ってきた」
「びっくりした」
「なんで?」
「盗んだのかと思ったから」
「合法的に反抗する、俺のモットー」
テノール歌手の声に合わせて、LEDが表情を変える。といっても、光の強さが変わるだけであったが。お父さん、と悲鳴のように歌う声を聞く者は、私と葉山君と、机の上に転がっているじゃがいもを使ったスティック菓子のカップくらい。少年はラストで魔王に連れ去られると、葉山君はうんうんと頷いてから停止ボタンを押す。
「第六の不思議にする予定だったコレが失敗したから、第七の不思議にする予定だった家庭科室のハイテクゴムベラを繰り上げするんだけど、もう一個何かしたいなって」
「葉山君がもう七不思議でしょ」
「なんで?」
「いつも昼にならないと来ないじゃん」
「あはは! それは思いつかなかった!」
でも、と葉山君は続ける。
「七不思議の醍醐味は匿名性だろ? んじゃないと、後世に繋がらない」
その通りだ。私は大きく頷いた。
「じゃあ、なにする?」
「意味のないものがいい。なんで? って考えるのが都市伝説の醍醐味だからさ」
「あれしよう」
「何?」
ずっと荒唐無稽だと思っていたけど、葉山君なら一緒にやってくれそうな気がする。
「真昼間に花火がやりたい」
葉山君は豆鉄砲を食らったようになると、すぐに私の手を取った。
「千歳さん、やろう。できるよ、ここは花火工場だったし」
それから、土曜日だけ私は廃工場に通い始めた。平日にサボると、無闇矢鱈に噂だけ大きくなって、親に心配かけるだろうから。葉山君はいつも通り毎日昼まで工場に詰めてたみたいだけど。
✳︎
十月の運動会が終わり、廃工場のすき間風が手先をかじかませるようになった頃。私たちは無言で作業をしていたが、その日は何故か沈黙が痛くて歯痒くて、葉山君に一つ質問をした。
「あのさ、どうしてここは廃工場になっちゃったのかな」
「ここ?」
「うん」
葉山君は無線機の配線をいじる手を止める。
「さあね」
「知らないんだ」
落胆する私を見て、葉山君は提案した。
「考えてみようよ」
「なんでここが潰れたか?」
「うん」
ネジを締めながら考える。そうだな。ここは元々戦前から続いてる工場で、人は五十人くらいいて。
空想を膨らませていると、先に与太話が形になったのだろう。葉山君が口を開く。
「俺はそうだな……ここはすごい職人が一人だけいて、あとの従業員や社長はみんな平凡な人だった」
「それ長くなる?」
「うん、壮大でどこにでも転がってる話」
「何それ面白そう」
「でしょ。たった一人だけの職人の腕で、この花火工場は成り立っていた。稼ぎ時の夏は工場の灯りが深夜になっても消えることはなく、反対に冬は日が沈むとともに工場は沈黙した」
手鏡を板に貼り付けながら大げさに話し始めた。身振り手振りはないが、その声は吟遊詩人のように歌い、語り、創り出す。
「職人は中学を卒業してから働き始め、毎年同じ夏と冬を繰り返す。年月を重ねるごとに職人の腕は比例するように上がるけれども、最後にはその職人しか残らなかった」
「なんでみんな辞めちゃったの?」
「職人の腕があまりにも神がかっていたから。千歳さんも思わないか?天才の隣で仕事をすると、己の凡才ばかり目につく」
その通りだった。学校でのグループ学習だって、結局は頭が一番いい子の回答を写すのが最適解だ。シャープペンシルを持って手の運動をしながら、己の存在意義について考えてしまう。もし答えが間違えていたとしても、間違えてるよ、とは言えない。
だって、一番信頼されているのはその子だから。その子だけ頑張ればあとの凡人は何もしなくても、世界は回る。
スペシャリストだけチヤホヤされるのはしょうがないけど、凡人にも居場所くらい空けておいてほしい。
「うん。自分じゃなくて、職人が仕事した方がいい」
「な? でもさ、それじゃ仕事はこなせないんだよ」
「なんで? 一人いればどんな難しい仕事だってできるじゃん」
葉山君はゆっくりと首を左右に振る。
「会社は、一人じゃ回らない」
「あっ」
私は思い出す。去年の職場体験の時。
近所のよく行くコンビニで、一週間バイトの真似事をした。品出し、掃除、ピッキング。最後の日にはレジ打ちをさせてもらったので、多分信用されてたんだと思う。多分。先生が『レジ任されたら花丸』って言ってたのをそのまま鵜呑みにしただけだけど。
ちょくちょく見てた店長の姿は、それはもう大変の一言に尽きる。新人バイトへの指導、会計、店内整備、クレーマーへの対応とか。
そうか、職人一人だけでは、仕事に集中できないんだ。
「なんとなく、分かった」
工場を運営するのがどれくらい大変かは、正直ピンとこないけど。多分、相当めんどくさいんだろうな。
「ん。そういうこと。一人では会社を立ち行かせることができないと分かった職人は、その類稀なる腕を使うことはなくなった」
どう? と私の顔を覗き込んでくる葉山君は、どこか得意げだ。暗い話のくせに。彼岸花の花言葉を教えてくれたときもそうだ、彼は不吉を嗤う。
なんでかわからないけどモヤモヤした。
だから、無理矢理この話をハッピーエンドにしてやろうと決めた。さっきまで私が考えていた空想が全て弾け飛ぶ。
「工場を変えればよかったんじゃないの?」
「え?」
「天才的な腕があったなら、他の工場から来てください! って言われたと思うんだけど」
驚いた葉山君は前髪を留めていたバナナクリップを一度外した。
数ヶ月前の、見慣れた姿がそこにあった。目を覆い隠す長い前髪は表情を隠す。葉山君そのものが、不吉な存在になったような気がした。
「何人も辞職者が出ているような工場から人を雇いたいと思う?」
「思う」
「いや、思わないね」
「雇うよ」
私は確信を持って、葉山君を否定する。
「だって、職人の腕と工場は関係ないじゃん」
隠された瞳を、怖がらずに見つめ返す。前髪は降り注ぐ小雨のようだった。隠れているとはいえ、その向こうにはぼんやりとだけど輪郭がはっきりと見えるのだ。
「そうだね」
「ならさ」
「でも、この工場はこれで終わりなんだよ」
「どういうこと?」
「いくら終わった後で成功しようと、この工場には二度と灯りがつくことはない」
そうか。もう、取り返しがつかないんだ。
新天地で成功したところで、過去の失敗は取り返せない。廃工場の歴史は容赦なく幕引きさせられる。色々なことが終わった後で、いつのまにか自らが必死になって打ち立てた功績は、あっさりと消え去ってしまう。
「それは、嫌だね」
「そうか?」
「は?」
葉山君は、何を言っているのか分からないと私を呆れた顔で見た。バナナクリップで留め直した前髪がところどころほつれている。毛先が、葉山君に漲るエネルギーにつられて小さく揺れた。
「この国はスクラップアンドビルドでのし上がってきたんだ。だから大丈夫」
「すごいかっこいいこと言うね」
「以上、シンゴジラより引用」
「最後の言葉、言わなかったら見直してたのに」
「別にいいよ、千歳さんがシンゴジラを見たらもっとかっこよく聞こえるから」
よかったらDVD貸そうか? という誘いは、丁重にお断りしておいた。
これから受験戦争は佳境に入ってくるだろうから。きっと、見る時間が無い。私の自由時間が少なくなるにつれて、真っ昼間に花火を上げるための作戦は進み。
ついに、決行の日が決まった。Xデーは、十一月二十三日だ。
✳︎
昨日ファブリーズをかけておいた、学校指定のセーターをブラウスの上からかぶる。一枚服が増えてしまったせいで、ブレザーを脱ぎ着するたびに静電気が鳴ってうるさいし痛い。
路を歩いていると、小学生の登校班が道路の先に見える。あ、ついに半そで小僧が消えた。ついに寒さに屈服してしまったのかと思いきや、下半身は半ズボンである。足を真っ赤にしているが、彼の心の中にはまだ反逆の魂が火を吹いているに違いない。親に変な意地はってるだけなんだろうけど。
そう、今日がXデー。作戦開始時刻はヒトサンマルマル。十三時ちょうど。ご飯を食べ終えた後の、休憩時間に私はスイッチを押す。緊張のせいか寒いはずなのに、手汗をびっしりとかいている。机を四つくっつけて、別にとりわけ仲がいいわけでもない同じ班のメンバーと、まずそうに弁当を食べた。
「なあ、千歳。さっきから何気にしてんの? 」
「えっ」
私は飛び上がった。後ろからかけられた質問に応えようと、慌てて振り返ってから後悔した。クラスの、イケイケ系女子だ。しかも四人。オールスター揃っている。最悪だ。
ただでさえ私はクラスでも目立たない方だ。ドッチボールで相手を狙うことなんてせずに逃げてばっかだし、部活をやっているわけでもないし。
「別に何にもないよ」
「ンな訳。胸のあたりずっと触ってんじゃん。ブラでもズレてんじゃね?」
「それな!! おっぱいデカいもんなー千歳は」
「ちょ、ちょっと! 恥ずかしいからやめてよ」
「恥ずかしいことないっしょ。見せて減るもんじゃなくね?」
「ウケる。ほら、ずれてるの直してやるよ」
そういうと、陽キャ女子たちは私のブレザーを脱がしにかかる。
やだ、やだ!
確かに私の胸は他のクラスメイトよりも大きいけどこんな風にいじられる謂れはない。
女子同士だから別に何にも感じないはずなのに。振り払っても振り払ってもやってくる腕に涙が出そうになったがなんとかこらえる。ここで泣いたら相手の思うツボだ。
私の思惑とは裏腹に、ブレザーはあっさりと脱がされた。袖を引っ張られていたせいで、入学当初に買った少しタイトなブラウスのボタンが弾け飛ぶ。セーターが見たことがないくらいに伸びていて、腕を上に拘束されたかと思うとするりと抜けた。
「やめ、」
「ん? 何このスイッチ」
カタリ、と音がして教室の床にスイッチが落ちた。ブレザーのポケットから落ちたんだ! 拾う間も無く、敵の手にそれはつままれる。
嫌だ。
何か言ったら壊される!
直感がシナプスを走り、記憶が走馬灯のように走る。この危機的状況でたった一つだけ思い出せたのは、脳裏に焼き付いた葉山君の言葉だった。
「合法的に反抗する、俺のモットー」
大きく開いた私の胸元も、遠巻きに見つめるクラスの女子たちも、全く気にしていない男子にこちらをチラチラと覗きみる男子も、やけに制汗剤の香りがする陽キャたちも、全く気にならなかった。
私の目的は一つ。その小さなボタンを、なんとしてでも押すこと。
切羽詰まった声で、しかし勝利を確信して叫ぶ!
「そのボタン、押さないで!!」
人間、やるなって言われるとやりたくなる!
「ざ〜んねん」
しめた。真っ赤なボタンが、陽キャ女子の手によって押し込まれた。相手の嫌みたらしい顔なんて見るもんか。私は顔を精いっぱい窓に向ける。
しらすのような、光の筋が空に咲いた。あまりにも目立たなかったし、呆気なかった。
だけど
地を裂くような轟音が、学校中を混乱に陥れた。誰もが窓ガラスに駆け寄り、空を見た。しかし、真っ昼間の花火は何も痕跡を残さない。
花火を消すほどまばゆい太陽に加え、葉山君の調合とお手製の機械により、煙も発射装置も見当たらなかった。
「コラァ!! なんの音だ!?」
怒鳴り声とともに、教室に生徒指導の先生が入ってきた。私は、その声に驚いてへたりこむ。どうしよう。先生に突き出されちゃうかも。服を脱がされているのもあいまって、寒気が背筋を撫でる。刹那、生きた心地がしなかった。
「綿貫が変なスイッチ押してました」
声の主は、先程まずそうに昼ご飯を一緒に食べた、班のメンバーである男子だった。クラスで二番目に頭がいい奴で、先生からも一目置かれている。
そんな彼が言うのだから、先生は疑うことなく綿貫をはじめとする、陽キャ女子のグループにつかつかと歩み寄り怒鳴った。
「まぁたお前らか!」
「は!? ちげぇし、千歳が」
「言い訳は生徒指導室で聞く!」
「ウッザ! 意味わかんない!」
先生と綿貫、その他私を脱がそうとした女子は教室を後にする。台風一過。
今、私はみんなからどのように見られているのだろう。惨めな女の子が教室の端っこでへたり込んでいる。
それでもよかった。私の目的、真っ昼間に花火を打ち上げることができたのだから。どくどくと流れる血液が体全身を巡り、気分を高揚させていた。
誰も動かない教室の、ドアが開く。
スクールバッグをロッカーに突っ込んでから、配膳台にある牛乳パックを手に取る。ちびちびと飲みながら午後の授業で提出する課題に取り掛かる……かと思いきや、葉山君はこちらに牛乳パックを放り投げた。
「ちょ、えっ?」
「いらないならトイレにでも捨てといて」
前髪をまとめるバナナクリップはない。そこにいるのは、陰気で身勝手な葉山君だ。目線すら合わない。
「わかった」
突き放すような沈黙が教室を包む。
これは、葉山君なりの優しさだ。ここで葉山君が露骨に私の手助けをすれば、恋仲かと疑われてクラスメイトからの追求は避けられない。また、私の身なりをここで整えさせるのは一種の見世物のように思ったのだろう。それを嫌ったのだ。
そのぶっきらぼうな優しさを真正面から捉え、私はブレザーだけ羽織るとセーターと牛乳パックをもって女子トイレの個室で駆け込む。
セーターでなんとかブラウスをまとめて、飲む気の無かった牛乳パックの中身を捨てようとした矢先、私の目に文字が飛び込んできた。間違いない。葉山君の文字だ。
黒マジックで四角い文字が書かれている。牛乳は温みきったお陰で結露はしておらず、インクは滲んでいなかった。
「彼岸花の花言葉、情熱……ってのもある」
あきらめ、そして情熱。
悪くないな、と思う。よくはないけど。
ボロボロになって端っこで蹲る人に、優しくぶっきらぼうに寄り添う彼岸花を上手く表現しているような気がした。友達の教えてくれた、武士の死んだ跡に彼岸花が残るというのも好感が持てる。
落武者が全てを諦めていたとしても、心の中にくすぶる野心が花を咲かせる。
真相は知らないけど。そうだったらいいな。
✳︎
やってしまったことはもうどうしようもない。結局私と葉山君は生徒指導室で説教された。許可なく花火を作ることは、犯罪である。だけど、公にしたくなかった先生と両親の間であの花火の件はもみ消され、結局お咎めなし。というか、証拠が残っていないので追求できなかったというのが正しいか。綿貫さんたちが花火が上がったと騒いだところで誰も信じなかったし、話を聞こうとしなかった。日頃の行いのツケである。
つまるところ、すぐ痕跡が消えてしまった真っ昼間の花火をまともに見たのは、私と葉山君と綿貫さんだけだった。残念だけど、まあこれもいいかなって思う。都市伝説に必要な匿名性は守られたからね。
あれから。
私は葉山君と一言も会話をすることなく中学校を卒業し、違う高校に進んだ。本人に直接聞いたわけじゃなくて、風の噂でしかない。
暇を持て余していた春休みに今まで持っていなかったスマホを買ってもらうと、コンビニでりんごのカードを買ってシンゴジラをストアでレンタルした。小さな画面で巻き起こる日本の物語は、想像以上に面白かった。葉山君の言っていた例のシーンは、映画でも最後の最後のあたりに出てきて、締めの一言にふさわしいものだったし、聞いていたよりもかっこよくて今でも心が熱くなる。
だめだな、すっきりと話を終わらせようとしたのに、自分のことになるとどうしてもいろいろ書きたくなってしまう。せっかく次のエッセイのネタが浮んだから気の向くままに書いていたけど、これじゃ最後にまとまりがなさすぎる。ボツかな。
賞をもらったのはもう七年前になるが、今でも定期的に仕事の依頼がやってくる。千歳薫、と本名を名乗ることよりペンネームを名乗ることの方が多い。有難い作家ライフだ。気分転換に外でも歩こうと、私は河川敷に行くことにした。
中学生の頃住んでいた街を一度は離れたが、職が落ち着いてからはまたこうして住んでいる。警察官が親身で、治安のいい街として有名だ。近所の河川敷には、あの時のように彼岸花が咲いていた。彼岸花の花言葉は確か、あきらめと情熱だったか。他にもあるのだろうか。ほら、バラだと色違いでも色々な意味があるし、本数でも意味合いが異なってくるらしいし。スマホを取り出そうとして、舌打ちする。家で充電したまんまだった。
「彼岸花の花言葉、知ってる?」
土手で遊ぶ子供たちが、クイズを出し合っている。悩んでいる姿をみて、私は聞こえないのを承知で、小声でつぶやく。
「あきらめと情熱」
聞こえるはずもなく。草むらに寝転がる少年は近くにいる私のことなど気にかけずに、会話を弾ませる。
「えー、知らない」
「なら、平中の第七の不思議、知ってる?」
「平中? 平小じゃなくて?」
「うん」
「そうだなぁ〜、井戸からお化けが出る!」
「ぶっぶー、『悲しいことがあると、花火が上がる』でしたー」
「分かるわけないじゃん!」
「僕だって意味わかんないよ、しかも学校にいる時だから、花火なんて眩しくて見えないのにね」
「ねー」
「ところでしょーへーはまだこないの?」
「はやくキックベースしたいのに」
そんなことになっていたのか。ネタ発見。いい気分転換になったし、家に帰ってエッセイの続きを書こうかな。私は振り返ってその場を後にしようとすると、すれ違いで自転車を押す警官が少年たちに近寄っていた。
「君たち……あ、いや、ランドセル持ってないってことは家に帰ったんだ。まっすぐ家に帰れって言おうとしたのに」
「あ、ネクだ!」
「やーい、ネク!」
「その呼び名やめろ」
「えー? 最初に自分のこと根暗って言ってたじゃん、ネクでいいじゃん」
「あのなぁ、そんなに言うなら担任の原山先生に言っちゃおっかなー」
「嫌だー!」
「それだけはどうかご勘弁を……」
いつもの風景である。子供も大人もじゃれ合っていて、そこに私の入る隙間はない。間に入ることは考える間も無く諦めて、ネタを手に入れたためにむくむくと湧き上がる情熱を抱いてその場を去る。
「あ、そうだ。彼岸花の花言葉知ってる?」
「えー?」
「知らなーい」
「あきらめと、情熱。これは赤色ね、ちなみに白色は」
ちなみに。その先は何だ。とても気になる。つんのめった体を、何事もなかったように止めた。
「思うはただあなたひとり」
「ヒューヒュー」
「ネクにも好きな人いるんだー!」
「やっ、やめろぉ! ああ、でもその通りだよ! 俺だって大人だからな」
何故だか、強烈に照れ臭くなった。道端を見ると、タイミングよく赤い彼岸花の中に一輪白い彼岸花が咲いていた。しらすのような細い花弁が、懸命に空へ手を伸ばしている。あの時の、しらすのような光の軌跡がまぶたの裏に映る。
「そう、昔その女の子と一緒に彼岸花を打ち上げたんだ」
彼岸花の上がる 拓亜 @TuckerKoh
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