この手はもう、届かない
そして、今日。別れの日がやってきました。
瀟洒に飾られた廊下をゆっくりと歩んでいる間、頭の中にはこれまでの記憶が走馬灯のように次々と脳裏に浮かび上がってきました。
初めてこのお屋敷に来た時のこと。見たことも無い豪勢な内装に感心したこと。多岐に渡るお部屋の種類に戸惑ったこと。
でも、アルバムのように一面に並べられた思い出の欠片。その殆どが、貴方の、記憶でした。ずっと数えてきたその表情一つ一つが、鮮明に思い浮かびました。
笑顔でよろしくと言ってくれた貴方。寝ている貴方。子供のようにいじける貴方。不機嫌な貴方。御機嫌な貴方。真面目な表情の貴方。寂しそうな貴方。私に笑いかけてくれた、貴方。
そして、そこに着きました。毎日欠かすことなく通い詰めた、あの扉の前に。
目を瞑ってもその様子は鮮明に思い出すことが出来ます。どんな色をしていて、どんな形で、どんな木目が走っていて、どこに傷があって、どんな感触か。
何故ならここは、扉を開ければ貴方に会える、私にとっての幸せの入口だったから……。
だからここを最後の場所に選びました。
貴方へ繋がるこの扉こそ、貴方への気持ちを諦めるのに相応しい場所だと、そう思ったから。
この扉の向こうの貴方はどんな表情をしているのかと。そう考えてしまう私に、閉まったままで開くことのないこの扉が、もう貴方には手が届かないのだと、そう教えてくれた。
まだ寝ているであろう貴方。その肩を揺する為の手は、もう届かない。
どれだけ時間が経っただろうか。ほんの一瞬だったかもしれないし、一時間だったかもしれない。縦横無尽に駆け巡っていた思い出の、最後の一欠片が泡のように溶けていきました。
思い残すことはもうありません。想いはもう、この扉の向こうに残してきたから。
だから、そろそろ……終わりにします。
足を揃えて背筋を伸ばし顎を軽く引き、両手を身体の前で軽く重ねます。本当の最後はせめて、私に出来る精一杯で別れを告げようと思います。
そのまま、枝が風に揺られるようにしなやかに背を曲げていき、深く、深く、お辞儀をしました。もう言葉で表現するのも難しい、万感の想いを込めて。
その想いは凝縮された一滴の雫となって固く閉じた私の目から零れ落ち、私の顔を濡らしました……。
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