またの明日は、ありません

 申し出はすんなりと通った。離職の理由は一身上の都合と、そう告げた。彼には告げていない。正式な雇用主である彼の御父上に直接申し入れた。

 残念だ、続けることは出来ないかと引き留めて頂いたりもした。その言葉は嬉しく誇らしくもあったけれど、完膚なきまでに凍てついてしまったこの心が揺れ動くことは無かった。今はただ、全てから逃げ出して凍え震えるこの心がいつの日か溶け出すまでただただ一人でじっとしていたかった。

 それから、このことはご子息には内緒に、とそうお願いした。表向きの理由としては、私的な理由の離職でお心を割いて頂くのは気が引けるからと。怪しく思われてしまったかもしれないけれど、今の私にはそんなことを気にする判断力も無かった。


 一か月後にこのお屋敷を離れることが正式に決まってからも、表面上はこれまで通りに振る舞った。ことあるごとに、つい彼の表情を数えてしまう自分が辛かった。すっかり被り慣れたこの仮面が無ければ、表面を取り繕うことすら出来なかったと思う。


 残り三週間になり、二週間になり、一週間になるにつれて、心に吹き荒ぶ氷嵐はみるみる激しさを増していった。だから、一つだけ新しいことを始めた。彼への想いを、言葉にしようと。口には出さないけれど、心の中で声にしようと。彼への気持ちを、


 寝息の聞こえる貴方の部屋に静かに入る。隙だらけの寝顔にドキリとします。貴方はあの娘の夢を見ているのでしょうか。


 寝ている貴方の肩をそっと揺すり、声を掛ける。一番に貴方に触れ、一番に貴方に声を掛け、一番に貴方の瞳に映る。私にとって、何よりも幸せな時間でした。


 薄く瞼を開けてはまた閉じて。もう少し寝かせてと甘えた声を出す。ここでしか見れない我儘な貴方が、とても愛おしいです。


 凛とした姿勢で椅子に座り。運んできた朝食を綺麗に食べてくれる。美味しかったと毎回言ってくれるその言葉が、何より嬉しいです。


 出かけてくるからとお洒落をする貴方。楽しそうなその姿が、私に元気を与えてくれます。


 お出かけから帰ってきて。こんなことがあったと口にする。この時間が、毎日の楽しみでした。


 そして、今日もおやすみまた明日と。その言葉が、もう聞けないのだと思うと、悲しい……です……っ!


 ――今日で、お別れ。またの明日は、ありません。

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