◇5◇ 今夜は飲もう
「僕から仕掛けておいてなんだけどね」
ごく浅い口づけを何度か交わした後で、然太郎が目を伏せる。うっわ、まつ毛が恐ろしいほどに長い。それに何この彫りの深さ。やんなるくらいにイケメンだわ。私こんなイケメンになにしちゃったんだろう。
「マリーさん、僕も一応男でね」
「え? ああ、うん知ってる」
しまった、ナチュラルに見とれてた。
「その、結構頑張ってるんだよ」
「頑張ってる? 何が?」
「理性が戦ってる」
「え」
理性が一体何と戦っているのかはわからないが、それは苦しいのだろうか、然太郎の眉間にみるみると深いしわが刻まれていく。まぁ、苦しいのだろう、何せ『戦って』いるわけだから。
「それ、負けたらどうなる感じ?」
「後ろのベッドに押し倒す感じ」
「う、マジで……?」
「結構マジで。だから、マリーさんが駄目だっていうなら、いますぐ駅まで送る」
「だ、大丈夫なの。然太郎、何か苦しそうだけど」
「苦しいけど、大丈夫。まだ」
まだ!?
ということは、もうじき大丈夫じゃなくなるってことだ。それは一大事よ。だって私、心の準備とか全然出来てないしね? そ、それにそれに、そもそもほら、あれよ。お泊りするにも替えの下着もないしさ、ねぇ?
「そんな顔しないで。大丈夫だから。無理やりなんてしないから、絶対」
なんて言って然太郎は、辛そうに笑うのだ。そんな顔を見れば、ずきりと胸が痛む。ええ、このそこそこミニマムな胸がね!
「……い、いや。大丈夫」
「うん?」
「私、大丈夫だから」
「はい?」
「わ、私だってもう30なんだから。いつまでも怖いとか言ってらんないから!」
そうだよ。そんな後生大事に守るようなものでもないでしょうよ。10代の小娘でもあるまいに! 30ぞ? 我30ぞ?
どっからでもかかってこいやぁ、とぎゅっと目をつぶり、その時を待つ。
ふわり、と、髪を撫でられた。
「ひょええ!」
何つう声出してんだ、私。ただ髪を撫でられただけじゃない。落ち着け、落ち着くのよマリー。
そのまま二往復、三往復していた然太郎の手が、首の辺りにするりと滑ってぴたりと止まった。い、いよいよなのかしら、と身をこわばらせる。と、そのまま、ぐい、と引き寄せられ、彼の肩の辺りに倒れこむ形になった。ここからどうすれば良いのかと固まっている私を、その、案外がっしりとした腕がぎゅっと包む。
「駄目だよ、マリーさん」
「な、何が」
「無理したら駄目だよ。身体かっちかちじゃないか」
「し、仕方ないじゃん。怖いものは怖いのよ」
「僕のことが怖いの?」
「然太郎が、っていうか。何が起こるかがわからなくて怖いのよ。あ、あと、かなり痛いって話だし」
痛いのはね、ある程度我慢出来ると思ってたのよ。私昔骨折したこともあるし、車のドアに指を挟んだこととかもあるしね? そういうのを思い出せば案外乗り越えられるような気がしてたっていうか。でもどっちもまぁ事故みたいなやつなのよ。全く予期せぬところにそういうハプニングが起こったわけでね? はい、いまから骨を折りまーす、とか、指挟みまーす、とかね? そういう風に言われたらめっちゃ怖いじゃん? それと同じっていうか。絶対嫌でしょうよ。
それに、はい、じゃあいきなり痛いことしまーす、じゃないわけでしょ? 何か色々したりするわけでしょ? えええ、一体何するのよぉ。何されるのよぉ。何もかもわからないから、何もかもが怖いのよ、こっちは。
「そうか、そういうものなのか。ええと、何が起こるかというと……」
「ちょっと待って。手順を逐一説明する気?」
「うん、それでマリーさんが怖くなくなるなら」
「それはそれでどうなの。雰囲気とか、大丈夫なの?」
「うう、確かに。僕としては、そんなに怖いことをするつもりではなかったんだけど……」
然太郎は、まるで小さな子をあやすようにとんとんと私の背中を優しく叩きながら、低く落ち着いた声で、ううん、ううん、と唸っている。
「とりあえず、マリーさんの全身にキスするつもりでいた」
「ひええ」
「何で『ひええ』とか言うの」
「だってされたことないもん、そんなこと!」
「そりゃまぁそうだろうけど」
「恥ずかしい! 恥ずかしくて死ぬ!」
「死なないで、そんな簡単に」
「じゃ、じゃあ尼になる!」
「ならないでよ、マリーさん」
「ううう」
「だから、無理にしないってば。安心してよ。ちゃんと待つから」
優しい声だ。
きっとその言葉に嘘はないんだろう。
それだけに自分が不甲斐ない。
「ほんとごめん」
「マリーさんが謝ることないんだよ」
「そうかなぁ」
「そうだよ。僕らのペースで行こうよ」
「まぁ、そうだけど」
いや、私もね、聞いたことがあるのよ。
『彼女がヤらせてくれないから、別れる』みたいなやつ。高校生の時、それで年上の彼に振られたっていう友人がいたのだ。まぁ、高校生に対してそういうことをするの?! って私はそっちの方がびっくりしたんだけど、イケてるグループの子達なんかはむしろ未経験の方が少ないなんて噂もあったし。まぁ、私の友人はやっぱり類友っていうのか、その子も含めて未経験の子しかいなかったけど。
……まぁ、
「あのね、然太郎。これだけは言っておくけども」
「何?」
「私、別に然太郎と『そういうこと』をしたくないってことじゃないからね」
「わかってる」
「わかってるの?」
「わかってるよ。じゃないとぎゅってしたりとか、キスしたりしてこないでしょ」
「うう、それを言われると」
その『何もかもお見通しだよ』みたいなのがちょっと腹立つ。ちっくしょぉ、年下の癖に。4つも! 4つも!! ううう。
「僕はマリーさんの準備が出来るまで、いつまでも待つよ」
「そのうちおじいちゃんになるかもしんないよ」
ちょっとした意地悪のつもりでそう返した。
へへん、『いつまでも待つ』なんて紳士ぶっちゃって、枯れちまっても知らないんだから、くらいの気持ちで。
「それじゃあ僕がおじいちゃんになるまで一緒にいてくれるってことだね。良かった」
「ぐぅ……っ」
何その切り返し! こいつ無敵かよ!!
「僕達、本当に和菓子とお茶が似合う年になるまで一緒にいようね」
「う……うん」
何よ。
何このちょっと良い感じのキャッチコピーみたいなやつ。保険とかのCMに使われそうじゃんか、畜生。私がコピーライターだったら確実にパクってるわ。
ていうか何、プロポーズみたいじゃん! 何よ、涼しい顔してさらっと言ってくれちゃって! てことは違うんじゃん。プロポーズじゃないじゃん。
ああもう今日はウチに帰ったら飲んでやる!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます