◇3◇ スミスミシン、営業中

 私専用となっているえんじ色の湯呑がカウンターの上に置かれた。今日は営業中だから、さすがにテーブルまでは出さない。だから、椅子ももちろん出さない。ありがと、と言って、ずずず、とそれを啜る。


「何だか新鮮だなぁ、お仕事モードのマリーさんって」

「そうかな」

「そうだよ、服の感じがいつもと違う」

「そりゃ、まぁね」


 ブルーグレーのチェスターコートにセンタープレスの黒いテーパードパンツ、雪がないから足元は踵の低いショートブーツだ。中は白いシャツに、Vネックのセーターである。然太郎の言う『いつもと違う』というのは、たぶん、このコートと、パンツだろうな。木曜にここに来る時はもっとカジュアルなダウンのコートだし、ボトムスもちょっと緩めのジーンズだったりするし。


「いつものマリーさんも素敵だけど、今日はまた一段と素敵だね」

「――ごふっ!? げっほ! ちょ、何?!」

「あああ、大丈夫? ティッシュ、ティッシュ」

「ありがと。大丈夫かな、そっち濡れてない?」

「大丈夫大丈夫」

「ちょっともう、然太郎が変なこと言うから」

「変なことなんか言ってないじゃん」

「す、素敵とか言ったじゃんか」

「素敵だから素敵だって言ったんだよ。何も変なことじゃないよ」

「うっ……その目やめてよ」


 もう『クゥーン』みたいな、あのしょんぼりした時の犬の鳴き声みたいなのが聞こえてきそうなその目やめて!


「その目って言われても、僕の目が青いのは生まれつきだよ」

「そういう意味じゃなくて! ああ、もう良いや、それより。これ、差し入れ」


 そうそう、思い出した思い出した。ここに来たのはこれを渡すためなんだった。


「え? 何これ。うわぁ、カステラ!?」

仙北庵せんぼくあんの『電氣カステーラ』だよ。一個ずつ包装されてるから、お客さんいない時とかにちょっとつまんで」

「良いの? マリーさんの分は?」

「私は仕事中に食べたから」

「仕事中に? 貰い物ってこと?」

「いや、通勤途中に買ったんだけど、いつもの癖でたくさん買っちゃったんだよね」

「いつもの癖……、もしかして、僕の分もってこと?」

「そう。恐ろしいよね、癖って」


 言ってて何だか恥ずかしい。だから、ぷい、と顔を背けてあははと笑った。その勢いで湯呑に口をつけたけど、お茶はまだかなり熱い。


 ――と。


「ちょ、然太郎?! あっ、あっぶないって、お茶! 私お茶持ってる! これ、まだ熱いからね?!」


 カウンターの向かいに立っていた然太郎が、突然その身を乗り出して私に抱きついてきたのだ。


「ごめん、嬉しくてつい」

「何が?! カステラ? そんなに好きだった? また買ってくるから、一旦離れよう? 一旦、ね? 然太郎、営業中! ね? 営業中だから! ね?」


 そこまで言うと然太郎はやっと私を解放した。何やらにまにまと締まりのない顔をしている。ちょっと、イケメンが台無しだぞ。


「マリーさん、もう癖になっちゃうほど僕のこと考えてくれてたんだね」

「えっ」

「だってそうでしょ? そういうことでしょ?」

「う――……、うん、そう、そういうこと。うん」

「嬉しいなぁ」

「そんなに? 然太郎、何か顔に締まりがないよ」

「ほんと? 困ったなぁ。僕も一応いまお仕事モードなんだけどなぁ」


 そういや然太郎もいつもとちょっと違う。

 木曜の然太郎はチェックとかドット柄のシャツにジーンズだが、今日は真っ白いシャツにチノパン、それに抹茶色のエプロンである。何かこじゃれたカフェの店員さんみたい。オーダーするのも面倒な長ったらしい名前のコーヒーとか淹れてくれそう。


「お仕事モードの然太郎も中々良いよ」

「えっ、ほんと?!」


 丸メガネの奥の青い瞳をまん丸くして、然太郎が、ぴょこ、と跳ねた。

 その反応、小学生かよ。


「いつもより好青年」

「そ、そうかなぁ。何か照れるふふふ」


 その言葉通り、然太郎は顔を真っ赤にして、もじもじとエプロンをいじっている。仕草が女子だ。女子だったのか、お前。


「ほら、もっとしゃんとしないと! お客さんに変な店員さんだと思われるよ?」

「そうだね、気合! 気合い入れろ! 僕!!」


 目をぎゅっとつぶってパンパンと頬を叩く。ほお、締まりがない顔はあれで直るのか。


 これ以上長居したら支障が出るな。


 そう判断し、少し温くなったお茶を一気に飲む。


「そろそろ帰るね。お茶、ご馳走様」


 と言うと、然太郎は「帰るの?!」と何やら驚いていた。


「帰るのって何よ。そりゃあ帰るよ」

「だ、駄目だよ、マリーさん。もう遅いじゃないか。外、暗いよ?」

「だから、これ以上遅くなる前に帰るの」

「お、送ってくよ。送ってく」

「駄目駄目、お店どうすんのよ」

「え! あ、そっか。うううう。もう少しで閉店だから、それまで待っててくれれば……」

「大丈夫大丈夫、普段もこんな時間に歩いてるし、第一、暗いは暗いけど、まだ7時にもなってないんだから。ナンパだってされたこともないし。私みたいな地味女、だぁーれも襲ったりしないから。そんじゃあね」


 また木曜日に――とドアに向かって歩き出した時、腕を、ぐい、と掴まれた。


「駄目」


 そのまま引き寄せられ、バランスを崩して後方に倒れた私の頭は、何やら柔らかいものに着地した。それが然太郎の胸筋だと気付いたのは、そのまま抱き締められたからだ。


「え? ちょ」

「駄目だよマリーさん。自分のことをそんな風に言わないで」

「いや、だって……」

「僕はマリーさんに襲いかかりたいと思ってるよ」

「は?」

 

 なんてこと考えてるんだ、こいつ! あっぶな!!


「マリーさんは、マリーさんが思ってる以上に素敵だよ。それは僕が保証する。それともマリーさんは僕の目が節穴だって言いたいの?」

「いや、そんなことは……ない……かな?」

「そうでしょ? 僕はね、人を見る目は確かなんだ。その僕が好きになった人なんだから、マリーさんは素敵なんだよ。自覚してよ」

「わ、わわわかった! わかったから! 一旦離れよう? 今日ちょっとボディタッチが多すぎる!」

「好きな人に触れたいと思うのは自然なことじゃない?」

「かもしれないけども! いまあなたは仕事中!!」

「はっ、そうでした!」


 その意外に分厚い身体がパッと離れた隙に、私はいまがチャンス! と駆け出した。


「ちょっと、マリーさん?!」

「ダッシュで駅まで行くから大丈夫! 後で連絡する!」

 

 と、店の奥で呆然としている然太郎に向かってそう叫び、あとはもう一切振り返らずに走った。


 恋愛未経験女に過度のボディタッチをするのはほんと止めていただきたい。心臓が持ちません!


 このドキドキは慣れない全力疾走のせいなのか、それともさっきのボディタッチのせいなのか。

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