愚かなる乙女の妄執日記

姫嶋ヤシコ

愚かなる乙女の妄執日記

 初めて彼女を見たのは、中学生の頃、何気なく手に取ったファッション雑誌の中だった。


 他のモデルにも負けず劣らずの容姿、妖艶でいて、けれどどこか可愛らしさの残る笑顔が印象的で、一目見て彼女に心を奪われた私は、買うつもりもなかったその雑誌を親から貰った参考書代と言う名のお小遣いで購入すると、家に帰ってすぐさま誰であるのかを調べ上げた。


 彼女の名前は、澤西 美百合さわにし みゆり


 MIYURIと言う名でモデルとして活躍している彼女は驚くことに自分と同じ中学生で、しかし残念ながら通っている学校は全く異なっていたのだが、幸い同じ年齢であったおかげで、そんな悩みもすぐに解消する事が出来た。

 進路先を決定すると言う瀬戸際に、前々から両親の希望だからと言う理由だけで決めていた第一希望の進学校を、自らの独断でMIYURIが進学すると噂になった学校へと変更し、当然の如く両親や教師と大モメする事になったのだけれど、そんなものは自分にとって最早どうでも良い事にしか思えないくらい、頭の中は彼女の事でいっぱいだった。


 この暴走とも言える行動力は、人生初の恋心が齎した、所謂若気の至りだったのかも知れない。


 とは言え、これを悟ることになるのはまだまだ先の話で、とにかく、既に自身の頭と心はMIYURIにすっかり支配されている状態だった。

 大モメにモメ、それでも自分の意思を頑として変えずに希望校の受験を強行し、目出度くその制服の袖に腕を通す事になったのだが、この一件でこれまで良好だと思われていた両親との関係は破綻し、今では口を利くことも必要最低限のみだ。

 今まで親の言う事を素直に聞いて生きて来た娘に初めて反抗された事が相当ショックだったようで、異常なくらいに口うるさかった母親は何をしても咎めてくることはなくなり、失望した父親は家庭を顧みることをしなくなった。


 そして私はこれ幸いとばかりに、毎日の学校生活を謳歌して行くことになる。


 今まで両親の厳しい監視下で抑圧されていたものを解放するかのように、ファッション雑誌を読み漁っては化粧に手を出し、制服を今時の女の子と同じように着崩した。

 地味で、どちらかと言えば陰気でその他大勢に埋もれがちだった私は、見た目も変わったせいか随分と明るくなって新しい友達も沢山作ることが出来た。


 更に幸運だったのは、その友達づてで、恋焦がれていたMIYURIとも知り合えた事だ。


 けれど、高校生になって以前よりも大人びた彼女の人気は思っていた以上で、毎日彼女を取り囲む女の子や男の子に負けないように自分磨きに精を出さねばならなかった。

 それに比例するが如く勉強する時間は日に日に減って行き、成績は落ちる一方だったが、この時は愚かしいほどに気に留める事はなかった。

 彼女の目にとまるようにオシャレは念入りに、時々差し入れもして、会えば必ず声をかける。

 しかし、それでも彼女にとっては取り巻きのうちの一人としか認識されず、名前すらも覚えてはもらえないままだった。


 ……今まで雑誌を通してでしか見ることの出来なかったMIYURIの近くにいるはずなのに、どうして。


 鏡を覗き込んで、何が足りないのか、何がいけないのか、唸る日々が続いた。


 そんなある日のことだ。

 高校に入学してから間もない頃、体調を崩して休んでいたからと適当に担任から割り振られた図書委員の当番が回ってきた。

 放課後の、ほぼ人のいない時間帯の図書室の管理。

 面倒ではあったけれど、サボれば更に面倒な事が待っていると腹を括り、しぶしぶながらほぼ無人状態の図書室に足を踏み入れカウンターのイスに腰掛けた。

 周囲を見渡しても、思った通り、無人。

 最終下校時刻まで一体何をしていろと言うのかと半ば不貞腐れながら、いつか携帯でこっそり撮ったMIYURIの写真を眺め、本当ならば今頃MIYURIと一緒に(勿論邪魔な取り巻きもいるが)最近できたと言うカフェに行っていた所なのに、と溜息を吐いてカウンターに突っ伏した直後、


「あ、あの…、すみません……、本を…、返却……、したいんですけど…」


 無人と思っていた図書室で、突如としてか細い声が油断していた鼓膜を震わせ、思わず驚き悲鳴とも言えない声を上げながら飛び起きると、目の前には妙に地味な女子生徒が本を抱え、自分と同じ顔をしているのが見えた。


「いるならいるって、言ってよ!びっくりするじゃない!」

「ご、ごめんなさい…、そんな、つもり…なくて…、ごめんなさい……」


 何かに怯えるような彼女の態度と地味な見た目が、昔の自分と重なるせいか奇妙な嫌悪感を覚え、奪いとるように此方に差し出した本を受け取ると、貸し出し・返却ノートの名前欄にチェックを入れる。



 七瀬 美咲ななせ みさき



 見覚えのあるこの名前は、入学直後の学力テストで学年一位を取っていたはずだ。

 大人しそうで(実際そうなのだと思う)特に取り柄もなさそうな地味な女で、完全に名前負けしている。

 あの頃の私も周囲からそう思われていたのだろうかと、更に増す嫌悪感に眉を顰めていれば、地味な彼女はそのまま奥にある自習スペースへと姿を消して行った。

 学校で勉強が終わった後も更に勉強だなんて、息が詰まりそうだ。

 何かに怯えながら自らを変える努力もせず、周囲に埋もれたままのさぞかしつまらない青春を送っているのだろうと返却された本を何気なく手に取って見れば、これもまた何の偶然か、中学生の頃に好んで読んでいた本の最新刊だった。


 ……そう言えばこの話、途中から読むの辞めちゃったんだっけ。


 MIYURIの存在を知ったあの頃から、今まで熱中していた読書を辞め、今となっては手にとる事もなくなるくらいに興味が薄れていた本。

 寝ても覚めても、どうすればMIYURIが私の存在に気づいてくれるのか、そればかりを考えるようになって、大事にしていたそれらは全て買い漁った雑誌や洋服を収納する為に処分してしまったのだ。

 未練があったわけではない。

 けれど何となく手持ち無沙汰になってしまい、適当に流し読みでもしてみようかと表紙を指先で捲った所で予想外の人物が登場し、その行動は中断される事となる。


「MIYU…、じゃなくて、澤西さん!」


 図書室のドアを開けたのは、見紛う事無くMIYURIその人であり、今頃取り巻きたちとカフェでお茶を楽しんでいるはずではなかったのかと高鳴る胸の鼓動を押さえながら、これはチャンスとばかりに話かければ、彼女はちらりと図書室の奥に視線をやった後、人好きのするあの笑顔を浮かべてカウンターの前にやって来た。


「あなた、今日、図書室の管理当番なの?」

「そ、そうなのっ。でも、人が少なくて暇で…っ、澤西さん、皆とあのカフェに行ったんじゃなかったの?」

「今日はそう言う気分じゃなかったから」


 こうしてMIYURIと二人っきりで何気ない会話をする日が来る事を、何度夢見て来た事か。

 普段であれば多くの取り巻きに埋もれ、こうして1対1で会話する事などほぼ不可能。

 これは何と言う幸運が舞い込んできたのだろう。

 けれど、緊張のあまり何をどう話せば良いのかうまく纏められず、これ以降の会話は見事なまでにぷっつりと途切れてしまい、妙な沈黙を保った後、意外にも先に口を開いたのはMIYURIの方で、


「ねえ…、折り入って、頼みたいことがあるんだけど」

「なっ、何? 私に出来ることなら、なんでもするっ!」

「ここ……、図書室とその鍵、貸して欲しいの」




   *

   *

   *

   *




 あの日を境に、MIYURIと二人だけの秘密が出来た。

 どんなに多くの人がMIYURIを取り囲んでいても、その輪に上手く入る事ができない日があっても、私には彼女との二人きりの秘密がある。

 それだけで優越感が心を満たし、学校生活は今まで以上に充実したものになっていた。



『プライベートなのに、学校で一人っきりになれる時間ってなくて。たまにでいいから、こうやって一人っきりで静かに時間を過ごせる場所が欲しいのよ』



 彼女も、毎日絶えない華やかな人の輪の中にいて、疲れてしまう事があるのだろう。

 こっそり打ち明けられたMIYURIの本音は、私が彼女の目に止まった証拠なのだと舞い上がる気持ちを抑える事に必死だった。

 しかし反面、MIYURIのこの申し出に戸惑ったのも事実だ。



『勿論、迷惑はかけないようにするし…、時間になったらちゃんと戸締りもする! あなたが当番の時だけでもいいから、何とかならない?』



 いくらMIYURIの頼みとは言え、利用がほぼない図書室とは言え、公共の場であるこの場所を彼女個人の為に貸切ってしまうようなことをして良いのだろうかと。

 まだ心のどこかに残っている昔のマジメな私が、「それは流石にまずいんじゃ…」と否定的な意見を出し、どう答えれば良いものかと頭を悩ませたものの、そんな迷いなど、あっと言う間に霧散させてしまったのは、他でもないMIYURIだった。



『ねえ…、お願い。あなたと私の二人だけの秘密……、作ってみない?』



 縋るような瞳と「二人だけの秘密」と言う甘美な響きに思わず頷いた後、不意に重ねられたMIYURIのくちびるの感触は、今でも忘れられない。

 これを切っ掛けに、どんなに多くの人間がMIYURIの周りを必死で囲もうと、この秘密を共有している限り、私は他の誰よりも彼女の近くにいるのだと、いつの間にかこっそりと心の片隅で自負するようになった。




 今の、今までは。




 図書室の一角で繰り広げられていた思いもよらない光景に絶句し、そして思わず逃げ出してしまったが、アレは決して見間違いなどではなかったと思う。

 MIYURIが愛しそうに、それでいて本能の赴くままに激しく相手を翻弄し、歪で淫靡な行為に耽って行く様を。

 二人の秘密と銘打った裏に隠れていた、MIYURIの本当の秘密を。


 そして、その共有している相手が私の最も嫌悪していた、七瀬美咲であったことを。


 一見して、彼らに共通点など見当たらない。

 殊に七瀬美咲など、MIYURIの目にとまるような存在とは思えない。

 それなのにどうして、いつから、彼女たちはそんな関係になっていたのだろう。

 あんな地味な七瀬美咲など、どう考えてもMIYURIに相応しい人間とは思えない。

 少しでもMIYURIに近づきたくて、今までの私を全て捨て、新しく生まれ変わる努力をして来たはずなのに、どうして私は彼女の目にはとまれないのだろう。

 図書室の当番の日は、必ずと言って良い程に優しく口づけてくれるのに、どうしてMIYURIの目には自分の姿が映っていないのだろう。

 所詮は私も多くの取り巻きのうちの一人であり、彼女にとっては都合の良い道具にしか過ぎないのか。

 突きつけられた現実と気づいてしまった事実に、悔しさとも怒りとも、憎しみとも取れない感情が複雑に絡み合って心を締め付ける。

 それなのに。



 どうして、私は今もMIYURIと偽りの秘密を共有しているのだろう。



 どうにかなってしまいそうだと、散々泣いて喚いたはずなのに。

 七瀬美咲が憎くてたまらないと、歯噛みしていたはずなのに。

 それなのに、今日もMIYURIから与えられるあの甘い口づけが欲しくて、図書室のカウンターでぼんやりと彼女が来るのを今か、今かと待っているのだ。


 図書室の奥にある自習スペースには、今日も七瀬美咲が一人で勉強に勤しんでいるのか、電気がついている。

 そろそろ、MIYURIがここへやって来る頃だろう。

 眩しいほどの笑顔を浮かべながら、常習性の高い毒物を含んだあの艶やかなくちびるで、今日もそれに溺れた愚かな女を誑かすために。

 七瀬美咲と共有する本当の「秘密」を守るためだけに。


【END】

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