39 今川義元と松平元康
濡れた着物を脱ぐと、藤吉郎は信定(ウシ)から借りた着替えで身を包み、囲炉裏の前に体を屈めた。
「駿河も遠江も、穏やかで戦の気配は微塵もありません」藤吉郎は両手を揉みながら言う。
「殿、まことに、戦は始まるので、ございましょうか」
「一年後、必ず起きる。いや起きなければ、困るのだ」
今川義元、五男でありながら国主まで昇りつめた幸運の持ち主である。いや、幸運だけではあるまい。能力がなければ、この大国を治めてはいけないだろう。義元は駿河、遠江両国の守護大名である。そして戦国武将に見事に変身した強者である。
守護といえば、美濃の土岐氏、尾張の斯波氏、三河の吉良氏。これらの守護は傀儡化し、没落してしまっている。それに比し、今川氏の発展ぶりは目を見張るものがある。
「今川は、三万の兵を動員できるというのは、まことか」
「二万五千は確実でございます。それに、沓掛、鳴海、大高の同盟軍も加えると、ゆうに三万は越えるでありましょう」
「素っ破どもの情報はまことであったか」
「殿は今川の寄親、寄子の制度をご存じですか」
「聞いたことはある。寄親は義元の家臣であろう。寄子というのは家臣の農民であろう」
「いかにも。この制度で、今川は大量の兵を動員することができるのです」
「それで、三万の兵の構成はどうなっているのだ」
「およそ、家臣団と農民の構成は半々でありましょう」
「一万五千は、農民ということか」
「たしかに、そうではありますが、今川の農民は侮れません。戦功を上げれば、税の免除や新たな土地を得ることができるのです。今川の農民兵を軽んじることはできません。現に、東の北条、北の武田と互角に渡り合っておるのですから」
ぼくの方針は、今川とはまったく異なる。ぼくの率いる兵は戦闘専門職である。少数精鋭で、徹底的に鍛え上げ、完全武装した強者たちの集団である。寄せ集めの集団ではない。例えば、鉄砲隊一人を養成、完全武装させるには、およそ令和のカネで三百万円を要するだろう。だから、時間もかかるし、カネもかかる。尾張を統一しても、まだ戦闘員が増えないのは、そんな事情もあるからだ。
兵数だけでは、勝敗は決まらない。ぼくの率いる兵は実戦で鍛え上げられた鋼のごとき強者たちである。
「それから、殿、今川の領内で徹底されていることがございます」藤吉郎は味噌汁を喉に落とし、むせながら言った。
「なに人も他人の土地を犯してはならない。武家は無断で主を変えてはならないという、制度です」
「ウム……。それは、凄い」
「今川義元は、完全に領内を掌握しているのでございます」
さすが、今川義元。まさに海道一の弓取りである。
「イヌよ、三河の松平元康のほうはどうだ」
「元康殿は十八歳、いまだ実戦を経験しておりません。それに、完全に、義元に従属していて、今もなお今川の人質同然。自らの意思で動くことは、叶いますまい」
「ウム……」
ぼくは吐息をついた。
「しかし、殿もすでにご存じのとおり、三河の兵は侮れません。われらとの戦いとなれば、強敵になりましょう」
「三河の兵にしてみれば、当主を人質にとられ、長い間辛酸を舐めてきたわけですから、思いは複雑だと思います」信定は腕を組んでぼくに視線を合わせた。
「殿は、竹千代時代に、元康殿にお会いしているのでは、ありませんか」
「会っていない」
ぼくはぽつんと言った。
那古野城近くの万松寺に竹千代がいたというのに、ぼくは会う機会を逃していた。今になって後悔するが、後の祭りである。
「殿が会っていなくとも、信長公が存命のころ、竹千代殿に会っているのを見たことがあります」
利家が鼻を撫でながら笑みを浮かべ、ぼくの顔を窺った。
「信長は、竹千代に会っていたのか」
「はい」
利家は大きく頷くと、満面の笑みを浮かべた。
「利家、今年中に、元康に会わねばならない。段取りをつけられるか」
「はあっ。緒川城の水野信元殿、於大の方と相談し、ことを進めてまいります」
ぼくは四人の仲間を見回した。
「今川義元を、何が何でも、桶狭間におびきださねばならぬ。これからは、いままでの調査を続けると共に、その方策も考えねばなるまい。心してかかれ。このままでは、歴史は前に進まぬ」
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