第6話

 イザングランは盛大にいらついていた。

 理由は明白。猫に逃げられたのだ。


 また逃げられた。


 茂みの向こうに走り去っていった後ろ姿を未練がましく追う。とはいえ、見えるのは植え込みだけだった。

 隣の金髪はほおをつねっておいた。猫に逃げられたイザングランをまだ笑っていたので。


 イザングランは猫が好きだ。大好きだ。

 ふわふわの毛皮。ぷにぷにの肉球。ゆらゆらたしたし、長くても短くてもかわいらしいしっぽ。存在すべてが愛おしい。

 残念ながら飼ったことはないのだが、将来使い魔を持つならばぜったいに猫系統の使い魔を持とうと決めているくらいには、猫が好きだ。

 しかし悲しいかな、イザングランは猫にふられてばかりだった。こんなにも好きなのに。

 触ろうとすれば逃げられ、近付こうとすれば逃げられ、視線を合わせれば逃げられ、気配を悟られては逃げられを繰り返してきた。

 暖かな陽光のふりそそぐこの庭で、猫の昼寝スポットになっているこの場所で、イザングランは恨めし気にアレクを見た。

 アレクは白地に黒ぶちの猫と戯れている。うらやましい。

 イザングランにはちっとも近よって来ないし、避けるばかりの猫がアレクには目を細め、あまつさえ喉を鳴らして懐いているではないか。なぜだ。

 じぃっ、っと猫を見つめていればアレクと視線が合い、すぐさま顔をそらされ、吹き出された。

 イザングランの眉間に皺がよっていく。

 アレクは餌付けていたのだから懐かれるのは当然だ、別に僕が特別嫌われている訳じゃない、と自分に言い聞かせる。

 そうだ、猫は人見知りをする生き物じゃないか。そんなところも彼らの魅力じゃないか。

 けれどやはり懐いてもらいたい。

 イザングランはしぶしぶアレクが作ってくれた猫餌を取り出した。猫に逃げられ続けるイザングランを見かねてアレクが作ってくれたものだ。

 食べ物で釣るのは気が進まないが、背に腹は代えられない。


 僕だって思うさまモフモフなでなでぷにぷにしたい。


 手の中の餌に気付いた黒ぶち猫がイザングランを見る。正確にはイザングランの持っている餌を。

 鼻や耳を小刻みに動かし、警戒心もあらわにじりじりと距離を詰め餌に食いついた、かと思えば餌の大半をかじり取り、脱兎のごとく逃げていく。

 そうしてアレクの膝上に戻りゆっくりと食事を始めた。

 さすがに心が折れる。

 何もしていないというのにこの嫌われっぷり。

 もしかしたら気付いていないだけで何かしてしまったのだろうか。それとも前世で何かやらかしたのだろうか。

 なんてことだ、前世の自分しね。しんでた。

 いいんだ、近くで見られるだけで十分じゃないか。いつもは逃げられてゆっくり観察することすらできないのだから、たいしたものじゃないかハハハ。

 表面上は悟りきった物静かな美少年、といった風に落ち着いて見えるイザングランだったが、心ではもちろん泣いていた。熱帯雨林に降る集中豪雨もかくや、という泣きっぷりだった。

 拗ねて、落ち込んで、普段の冬の朝のような冷涼さを欠いているイザングランにアレクは小さく笑みをこぼした。

 やはりどんなに頭が良くて、複雑な魔術を扱えてもまだたったの十三才なのだと再確認する。


「ちょっと失礼」

「?!」


 猫を膝からおろしたアレクがやおらイザングランに近付いてその首元に顔をうずめた。

 何をされているのか理解できず固まるイザングランの耳にアレクの呼吸音がわずかに聞こえる。


 なにが、いったい、おこって? 体臭を嗅がれている? 臭うのか?! いやまさか、毎日シャワーは浴びているぞ?!


 混乱の極致に追い立てられたイザングランには気付かないのか、アレクは顔を上げると淡々と言った。


「んー、イジーは香水つけてるよな」


 声が出ずに、うなずくだけのイザングランにアレクは続ける。

 かすかに鼻を掠めた匂いはアレクの匂いだろうか。


「たぶんそのせいだと思うぜ。猫の苦手な匂いがしてるんだと思う」


 香水の匂いを確認していたのか、と混乱から一歩抜け出せそうだったイザングランに、俺は好きだけどな、とアレクは付け足す。


「別の香水にするか、付けないほうがいいと思う。そうすりゃむやみやたらに逃げられたりはしないと思うぞ? この辺の猫はイジーと顔見知りだし、人懐こいやつばっかだし」

「………そうか」


 あとから思い返せば、アレクの目は泳いでいたし、声にも動揺が現れていたように思う。

 だが、この時のイザングランは顔の熱が頭にまで登ってきてしまい、それどころではなかった。

 恥ずかしさと、おそらく少しの嬉しさと、それ以外の何かが体中を走り回っていて、それこそ叫びながら地面を転げまわりたいくらいだったのだが、なんとか踏みとどまっていた状態だった。

 アレクに不審がられれば理由を問われてしまう。問われれば答えない訳にはいかないからだ。

 アレクのほうは見られなかった。疑いもなく今の自分は人に見せられるような顔をしていない。

 ごろごろと猫が喉を鳴らす音ばかりが聞こえる。

 他は鳥の羽音や鳴き声、風が草木を揺らす音が二人の間を通り抜けていく。

 小さくかわいい猫の声が聞こえても、やはりアレクのほうは見られなかった。

 だから、イザングランはアレクの耳が赤い事についぞ気付かないままだった。

 弟に接するつもりでした行為が、予想外に気恥ずかしく感じたアレクの胸中には気付かないままだった。


 後日、イザングランはアレクのアドバイス通りに香水を変えた。

 香水を変え、なおかつもとから少なかったつける量をさらに抑えた結果、猫に逃げられることはなくなり、手ずから餌を食べてもらえるようになった。


「よかったなー」

「ああ。

 ………ありがとう」

「どーいたしまして」


 別に意識した訳でもないのに、あの日に嗅いだアレクの匂いに少しばかり似てしまっていることに気付いたのは調香を終えてからだった。

 ふとした時に意識に引っかかって跳ねる鼓動に、母親以外にあそこまで近付かれたのは初めてだったからだし、と言い訳するようになったイザングランだった。


 アドバイスの礼として香水を贈られたアレクも同じように、イザングランの匂いを嗅ぎ分けてしまい、高鳴りそうになる鼓動を打ち消すため、頭を振るのだった。

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