血を吸う鬼と護身刀 19

 冷たい牙。

 熱い吐息。

 肌をなぞる手の感触。


 体の奥底にぐつぐつと熱が湧いて、放り出された意識が落ちていったのはいつか見た白昼夢の底。

 気がついた時。月明かりと落ちた瓦礫の上に、私は座り込んでいた。

「やっと見つけた――」

 意識は深山かなでではない、とっくに死んだ少女の体をまとっている。

 そんなめがけて。漆のよう艶めいた闇の中からまろび出てきた子供の瞳は、仄暗い希望に濁って見えた。


「デクストラ!」


 体ごと飛びついてこようとした子供を、瓦礫の隙間から触手のよう伸び上がった影が打ち払う。

――?」

 埃っぽい床を跳ねるよう転がっていった子供の姿は再び闇の中へと沈み。実体を伴う影はそのまま、私を瓦礫の中へと引きずり込んだ。


 ――どぷんっ。



?」

 その自覚もなく意識を落としていた私が目を覚ますなり。無断で夢へと干渉していたことを隠そうともせず、叶はそう問うてきた。

「しらない……」

「お前を『見つけた』と」

「夢の話よ」

「お前もあれを『アリス』と呼んでた」

「知り合いに似てるような気がしただけ……でも、あれがあの子のはずないわ」

 控えめに頬をなぞる指先が、私の口からするすると言葉を引き出していく。

「だって、あの子は――」

 それでも。致命的な言葉を吐く前に、私ははたと我に返って口を噤んだ。


「ここどこ?」

 どこかに腰を落ち着けた叶の膝の上。横抱きにされた体を起こし、視界の大半を占拠していた美貌を押し退けてみれば。気を失っている間に、どこへ運ばれたかは一目瞭然。

「御寝所……?」

 天井から渡される五色の帯が、まず目についた。それから、本性である太刀姿で帯の先に吊るされているはずの蝴蝶が人型をとっていることに気がついて。御寝所を閉じるための結界が反転してしまっているのだと理解したのは、最後の最後。

 正規の手順を踏むことなく御寝所へと入り込んだ叶が、侵入者を捕らえるため反転した結界へ、どうやってか己の身代わりとして蝴蝶を差し出したのだろう……と。朧気ながらも現状を把握するのに、それほど時間はかからなかった。

「外に出ると、あの蜥蜴に気付かれそうだったから」

 そう告げてくる、叶の判断は正しい。ナカオは鬼王谷の水源池に祀られた水神だ。このあたりで雨が降っているうちは、あの龍神トカゲの目から逃れることはまずできない。

 例外があるとすれば――

「どうやってここまできたの」

「影に潜って」

 雨が降らず、水のない場所にはナカオの目も届かない。あるいは叶が、ナカオをしてその手に余ると言わしめた魔力に物を言わせて監視の目を退けるか。そのどちらかでしか、あの場を逃げ出す私の行き先を誰にも知られずにいる方法はなかった。

「それなら、上出来ね」

 元々、いつになく体を弱らせていた私が超常の移動手段に耐えられず、結果として気を失ったのは不可抗力だろう。

 そう結論付けて。過保護な腕から、充分な魔力に満たされた体を取り戻す。

 場所柄、形状的に人二人が優に腰掛けられるようなものが他にあるはずもなく。私を抱いた叶は、今朝方死体を詰めた石棺の上に座っていた。

 他の誰でもなく叶がそれをしているという点で、その所業を「罰当たり」と罵れるものはいまい。――などと、益体もないことを考えながら。石棺の傍に立ち上がる。

「遮那は?」

 人型にしろ本性にしろ、姿が見当たらない護身刀の行方を尋ねると。叶はいかにもあどけなく、こっくり首を傾げて見せた。

「お前が手放したから、いらないのかと思って」

「置いてきちゃったの……?」

 なんてことだと、頭を抱えながら。考えようによっては、これはまたとない好機なのかもしれないと頭の中で算盤を弾く。

「ナカオと話してた、『鬼王の次』のことだけど――」

「私がそうだよ。……違うの?」

「違わない」

 寡黙な蝴蝶が物言いたげに揺らす体と帯を努めて視界から追い出し、見なかったことにして。つい今し方、下りたばかりの石棺――というか、叶の膝――の上へと這い戻る。

 やたらと構いたがりな叶の手は、喜んで私の動きを手伝った。

「私がお前を『次』に選ぶから」

 ナカオと話していたのはひとでなしとしての鬼王個人ではなく、「鬼王谷の土地神」についてだが。この際、その程度の齟齬はなんの問題にもならない。

「お前を神にしてあげる」

 私は鬼王谷このち鬼王かみに仕える忌子みこ

 こじつけじみているが、鬼王が土地神としての勤めを果たしてない現状、忌子が「仕える主人」として選んでしまえば、誰だってこの地の地脈を掌握することができる。

 そこらのひとでなしが神へと至る片道切符。地脈を開く鍵として、鬼王の忌子はいつの時代も命や体を狙われてきた。歴代の忌子には、深山の本家筋である蝶野の屋敷神に守られながら――つまり、都留媛の結界から一歩も出ずに――生涯を終えたものも少なくなかったと聞いている。

 そうして千年。守られてきた貞節の、今日が終焉だ。

「あんまりいい予感がしないんだけど……」

「そう?」

 本当は、もっとずっと御しやすい手頃な妖を選んで傀儡にしてしまうつもりだったのに。叶と出会ったせいで狂ったは、これでいったい幾つ目だろう。

 御しきれるものではないとわかっていても。叶の魔力ちから、その一端に僅かでも触れてしまえば、もう他のなんて選べはしなかった。

「私に嫌われたくなかったら大人しくしてるのよ」

 これほどの魔性を逃す手があろうかと。部屋着のシャツを脱ぎ捨てて、純粋な魔力によって形作られた黒衣に手をかける。

「かなで、」

「これが終わったら、お前の気がすむまで血を飲んであげる」

「――私の血を?」

「そう」


「そんなことをしたら、人ではなくなってしまうよ」

 口では窘めるようなことを言いながら。はっきり目の色を変えた叶の声には、隠し切れない劣情が滲んでいた。

「どのみち、同じことよ」

 ようやく。確かな意思を伴って回された腕に体を預け、私はおかしくもないのにくすくすと笑う。

 尽きかけた霊力の代わりに体へ満たされた魔力がいちいち反応するせいで。私の言葉を叶が内心ではどう感じているか、わかりやすいほどよくわかる。

「鬼と交わり神を生んでまで、徒人ひと徒人ひとのままでいられると思う?」

 鬼王の次。

 新たな土地神を選ぶことのできる忌子が、古き神を見限ったあと。その身がどうなってしまうのか、本当のところを知っているものはどこにもいない。けれど、その末路を予想することは簡単だった。

 とりあえず、徒人ひととしての私は死ぬだろう。それから別の「何か」になる。鬼と交わった徒人ひと、神を生んだ巫女の多くがそうなってきたように。

 これで最期と、私は嗤う。

「どれくらい私が私のままでいられるか、楽しみね」

 思っていたより、気分はそう悪くもなかった。

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