血を吸う鬼と護身刀 16

 人の肌と肉を穿ち、血を吸うため。長く尖った犬歯キバに次いで、切歯までもが薄い皮膚を食い破る。

 私が覚悟していたより、ずっと深いところまで。容赦なく沈められた上下の歯がかちりと合わさり、噛み切られた肉片は、そのままと叶の口内へ。あっけなく転がり落ちて、咀嚼され、惜しむようゆっくりと飲み込まれていく。

 そういう気配が、した。


「私を食べてるの」

「そう」

 痛みはない。叶の唾液か魔力には、出血を抑え痛覚を鈍らせるような作用があるから。そのおかげ。あるいはそのせいで、私は自分がされたことの何もかもをつぶさに把握することができてしまっていた。

 叶が褒美としての血を断った理由も、今なら分かる。

「これに懲りたら、古傷のことは諦めるんだよ」

 そう言って、もう一噛み。叶は傷痕のついた皮膚ごと噛み切った私の肉を飲み込むと、ほんの少しも無駄な血を流す様子がない噛み跡を、もう一度丁寧に舌を這わせることで癒やしていった。

 切り傷を塞ぐのとは、わけが違う。なのに叶はまるでそれが、なんてことのないような態度で。ぞわぞわと奇妙なくすぐったさを覚えるくらい性急に盛り上がっていった肉の上、喰い千切られる前と比べてなんの遜色もなく再生され、まともに神経の通った肌へと強く唇を押し当ててくる。

「――どうして?」

 生きたままに肉をまれるだなんて、あまりの悍ましさに想像することさえ躊躇われるくらいなのに。叶から同じことをされる分には、自分でも不思議なくらいなんの感慨も湧き上がってはこなかった。

 生理的な嫌悪も本能的な危機感も、何も。本当に、感情的にならざるをえないほどの情動を、私は叶から与えられた行為に何一つとして覚えなかった。

 ならば。それを躊躇う理由など、どこにあるとも思えない。

……?」

 心底、驚いたような声音とともに目隠しの触手が外されて。同時に解けていった他の触手に代わるようぴったりと体を寄せてきた叶は、慣れた高さよりも随分と低い位置から私を見上げてくる。

「お前、今『どうして』と言ったの」

「そうよ」

 それ自体が目的ではなかったにしろ。結果的に私の血を口にしたせいか、その体はまるで人のような熱を帯びていた。

「お前に体中齧られるだけで、この忌々しい記憶の全てから解放されるのに。それを、どうして諦めないといけないの」

 だから「もっと」と、私は強請る。着せられた黒衣の胸元を、強引に引き開けて。縋るような強さでしがみついてくる叶の目と鼻の先に、別な傷痕を晒した。

「噛んで」

 あれこもれも、それも全部。やっと消し去ってしまえるのなら、これくらいのことはどうってことない。

「今日は一つのだよ」

 ついさっき交わしたばかりの約束さえ、すっかり頭から抜け落ちてしまうほど。この時を、私は心のどこかで切望していた。

「明日になったら、もう一つ消してくれる?」

「お前の体力さえ戻れば、いくらでも」

よ」


 もう少し。

 あと少しだけ待てばいい。


 そう考えるだけで機嫌は自然と上向いて。湧き上がる歓喜に任せ、私は叶を抱きしめた。

 そこへ、着替えを取りにやっていた遮那が戻ってくる。

「あるじさまー遮那がおきがえおもちしましたよー」

 鍵のかからない引き戸をがらりと開けて。脱衣所へと入ってきた遮那はまだ浴室に辿り着いてすらいない私の姿を認めると、さも不思議そうに首を傾げた。

「いつものへやぎでだいじょうぶでしたか?」

「うん。ありがとう」

 それはそれとして。

 持ってきた洋服を備え付けの籠に入れ、ついでとばかり私が脱ぎ落としたままにしていた浴衣を別な籠へと放り込む。

「もうろくじすぎてますから。あんまりゆっくりしてると、ゆうはんもたべそこねちゃいますよ」

 最後に忠告めいた言葉を吐いて、これでは終わりとばかり。本性の刀姿へ立ち戻ると、自分が持ってきた私の着替えに埋もれて沈黙した。

 私の様子がわかり、一度ひとたび喚ばれたなら瞬時に応えられる場所。

 そこが遮那の定位置で、護身刀としての仕事場だ。


「――どいて」

 そういえば朝も昼も食べ損ねていたな……と、今更のよう気がついてようやく。空腹を自覚して妙に気怠く思えてきた体で、しがみついたまま動かないでいた叶をぞんざいに押しやる。

 カウンターから下りるのに、しつこくまとわりついてくる腕が体を支えようとするのは許した。

「シャワー浴びるから、ついてくるならさっさと縮む」

 言われるがまま素直に体を縮めた叶を連れて、浴室へ。

 着せかけられていた黒衣は、私がカランをひねった途端、降りだした水滴に溶けるよう流れ落ちていった。

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