「天六ユウラク座」

「はい、一枚600円ね」


 梅田にある駅前ビルには、多くの金券ショップがある。とはいえ通常、映画のチケットは値引き率が低く、せいぜい定価より10円安いかどうかだ。そんな中、たとえどんな映画が上映されていようが、常に一枚600円から700円でチケットが取引されている映画館がある。


 2006年3月。


 私は大阪市営地下鉄の天神橋筋六丁目駅で下車し、その劇場へと向かった。ここは全長2.7kmの日本一長い商店街、天神橋筋商店街の端っこにあたる町である。


 映画館へ向かう通りでは、阪神タイガースびいきの中華料理屋からおじさんたちのダミ声が外まで響いてきた。


 ショッピングモールなどの大型商業施設が無く、昔ながらの個人経営の店が数多く軒を連ねるこの地域は、その「大阪色」の濃さから、度々ベタな大阪の象徴としてメディアに取り上げられている。もしテレビにヒョウ柄の服を着たおばちゃんが現れたら、大抵はここの住人だ。となると地元の映画館も必然、そういう「空気」を纏うことになる。天神橋筋の大きな道路に面した、昭和の佇まいをそのまま残した天六シネ5ビルがそれである。


「あいかわらずボロいな」


 1階のユウラク座を中心に、5階にあるホクテンザ1と2、それにポルノ映画をかけるコクサイ大劇場とユーラク地下劇場の、計5つの映画館を擁する大型映画施設である。もっとも、誰もこれをシネコンと呼んだりはしなかったが。


「ええと、今日はユウラク座か。1階だから、あの異常に遅いエレベーターに乗らなくて済むな」


 もぎりのおじさんにチケットを渡して入場する。一応、入口に券売機は存在するものの、客のほとんどが金券ショップを利用しているため、もはやそっちが販売窓口のようなものである。


 ロビーの硬い椅子に座って上映開始を待っていると、お爺さんがやってきてタバコに火をつけた。遮蔽物もなしに喫煙スペースが設けられているのは時代錯誤ではあるが、その時代の施設なのだから仕方がない。いったん地下のトイレに避難……したはいいが、そこはそこで臭いが酷い。とっとと用を足して戻ってくると、お爺さんはまだ悠々と煙をくゆらせていた。


(仕方ないな。もう前の上映は終わったみたいだし、ちょっと早いが入場するか)


 全席自由席なのは当然として、入れ替え制でもないので入退場も自由なのだ。ちなみに上映を終了していることが分かったのは、ロビーまで音漏れしていたからである。


(おっ、ちょうどエンドロールが終わりそうだな)


 暗がりの中、姿勢を低くして真ん中あたりの椅子に座る。が、わざわざ気を遣うほど人は入っていないし、なんなら前方からはイビキが聞こえてくる始末だ。


(まあ、この間はラーメン食べてるお爺ちゃんがいたし、今日はまだマシな方だな)


 仮眠がとれて、タバコが吸えて、料金も安い。夜勤を終えたおじさん達にとっては、映画館というより、お手軽な休憩所のような使われ方をしているようだ。上映が終わって照明がつくと、目を覚ましたイビキのおじさんがヨロヨロと外へ出ていった。


(ありがたい。これで少しは映画に集中できそうだ)


 今日観るのは『SPL 狼よ静かに死ね』。サモ・ハンとドニー・イェンという香港映画ファンにとっては夢の共演が見られる作品だ。心を踊らせて上映開始を待つ。


(………………ん?)


 始まらない。どころか、照明も落ちない。腕時計を見る。とっくに上映開始時間は過ぎている。


(……まあ、ここではよくあることだ)


 しばらくすると、やっと場内が暗くなった。


"ただいまより、上映を開始いたします。荷物はお手元にお持ちいただき、置き引きにご注意ください"


 治安の悪いアナウンスが終わると、やっと上映が始まった。


※ ※ ※


「カンフーと香港ノワール、新旧の流行りのいいとこ取りをした素晴らしい映画だったな。監督は……ウイルソン・イップか。覚えておこう」


 天六シネ5ビル。設備は古いし、客層も良くはない。けれど、そこには映画が人の営みと直結した姿を見ることができる。


「あと、セガール映画が観られるのもここだけだ」


 なお、ウイルソン・イップは後に『イップ・マン』シリーズで再び香港映画界に一大ムーブメントを巻き起こし、全盛期を過ぎたと思われていたドニー・イェンを『スター・ウォーズ』に出演させるまでのスターダムへとのしあげることになる。


※ ※ ※


[ホクテンザ1および2:2010年7月閉館]

[ユウラク座、コクサイ大劇場、ユウラク地下劇場:2012年3月閉館]

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