第50話 時間はこれからたっぷりある

 目黒のライヴハウスは、当の昔に閉店時間も過ぎていたのに、フロアには結構な数の人々が集合していた。

 何故か備え付けの椅子が残っているこの会場は、人を待つには好都合だったのだろう。


「ああ良かった、無事だったのね、DBちゃん」


 たまきさんが座ったまま声をかける。

 ママは近づくと、全体的に薄暗い照明の下、見せてごらん、と彼の肩を掴んだ。

 ざっと姿に目を通すと、ちっ、とその格好に似つかわしくない舌打ちをする。手首にはまだあざが残っている。


「大丈夫だよ、ママ…… できればタオルか何か、貸してくれると嬉しいんだけど……」

「あ、おしぼりならありますよ」


 ライヴハウスのマスターが聞きつけて、声を張り上げる。


「ありがとう、二本ほど、貸してくれますか?」


 そう言って、彼はポリ袋に包まれた暖かいタオルを二本受け取った。一本で化粧がはげかかった顔を拭き、あと一本で、足をざっと拭く。


「……男の子って判っていても、なかなか目の毒だねえ」


 TEARは座席の背に腕を置いて、じっとその様子を眺める。


「でも確かによく似合ってるもんねー。すごいすごい」


 ぱちぱち、とMAVOはその右隣で手を叩いた。

 そして更にその横に居たP子さんは――― のっそりと立ち上がった。


「無事で――― よかった」


 そう言うと彼女は、彼の頭を抱え込んだ。

 あれ、まあ、とFAVは目を丸くする。

 何か買ってきます、とLUCKYSTARのメンツはこそこそと席を外しだす。


「あなたが、P子さん?」


 ママはぎゅっ、と彼を抱え込む彼女に、タイミングを見計らって声をかける。苦笑するその顔に、ああこのひとが、と彼女はゆっくりと手を解いた。


「港屋の、夢路さんですか」


 ええ、と夢路ママはP子さんをじっと見る。


「なるほど、確かにね」

「え?」

「……そう、確かに、大丈夫ね」


 何のことだろう、とP子さんは首を傾げる。


「如何でしょう、HISAKAさん、あなたの目から見て、この子は」


 夢路ママはHISAKAに向かって声を張り上げた。


「私も大丈夫だと思います。さっき少し話せました。懸念して部分も無い訳じゃあないですが、とりあえずその点については」


 ありがとうございます、とママはHISAKAに頭を下げた。いいえこちらこそ、とHISAKAもまた頭を深々と下げる。


「……HISAKAが頭下げるってことは、すごい人なんだねえ」


 MAVOは心底感心した、という様につぶやいた。


「すごいひとなんだろうよ」


 頬杖つきながら、FAVもぼそっと口にした。


「あなたはどう? DB君。うちの事務所で働く気がありますか?」


 HISAKAは彼に問いかける。


「ええ、できるのでしたら、お願いします。ただ」

「ただ?」


 彼を見る三人の声が揃う。


「ちょっと、九州の実家まで行ってきます。ケリをつけてこなくてはならないから」

「ケリを」

「ああ、それは必要だわね。ちゃんと籍入れる気になったの」

「え」

「あ」


 DBとP子さんの声が微妙にずれて重なる。


「あー…… の」

「ん?」


 HISAKAは眉を寄せる。そして自分と根本が近い、と思う友人の様子にあ、と声を立てた。


「P子さん! あなたまだ」

「怒らないで下さいよHISAKA…… タイミングというものがですね」

「……言いなさいとっとと。そうでなければ、私が先に言ってしまうわよ。DB君、ずっとP子さんとやってく気あり?」

「そりゃもちろん」


 即答だった。HISAKAは満足して、P子さんの方を向く。

わかりましたよ、とP子さんは空を向く。えーと、と何度か言葉を探す。


「ええとDB、ワタシですねえ」


 言いかけた時だった。くらり、と視界が回る。

 あらら、とその場にP子さんはくたくたと崩れ落ちる。慌ててDBはその場にしゃがみこむ。スカートがふわり、と広がった。


「……すみませんねえ、普段しない緊張って奴が」

「だから何緊張してるの」

「……」


 聞こえるか聞こえないくらいの声が、DBの耳に届いた。


「はあ」

「と言う訳なんですよ」

「なあんだ」


 彼はにっこり、と笑った。


「もっと早く、言ってくれれば良かったのに」


 そう言いながら、座り込んだまま、今度は彼がP子さんの頭を抱え込んだ。


「いいんですかね」

「いいも何も」



 ざわざわ音を立てるコンビニの袋に、ビールやジュースやウーロン茶を詰めて、LUCKYSTARのメンツが戻ってくる。


「……あれえ、P子さんとあのひと、戻ったんですかあ?」


 桜野は脱力したようにぐったりとしている、その場の人々に誰ともなく、問いかけた。


「……戻ったよ」


 FAVはうめく様な声でそう言った。


「桜野、冷たいお茶ちょーだい。……あーんーなーにーらぶらぶであてられるとはあたし思ってなかったってばーっ」

「へ? そんなにらぶらぶだったんですか?」


 桜野は階段の方を振り返る。


「見たかったなあ、それ」


 メリイさんもネットと顔を見合わせた。


「……いいよ、これから毎度見られるから」


 TEARはそう言って、あたしにはビール、と手を差し出した。



「で、ケリをつけるってのは何ですか?」


 マナミが運転する車で、P子さんとDBは部屋まで送ってもらっていた。

 既に空は白々と明るくなりかかっていた。ひどく長い一日だったなあ、とDBは思う。


「うん、実家の方に行って来ようと思って」

「何となく、想像がつかないですねえ」

「何が?」

「アナタの実家という奴。何となく、そういうものがあるってことがそもそも想像できない」

「あれは、実家だけど、家庭じゃなかったから」


 彼は破れて汚れた服を脱ぐ。


「……ああ、ちょっとひどくなっちゃった。ごめんね、P子さんにせっかく買ってもらったものなのに」

「服なんか別にいいですよ。ああだけど結構身体もひどいですね。大丈夫ですか」

「大丈夫。そう簡単に、僕は壊れないから。壊れる訳にも、いかないし」


 でしょう? と彼は首をかしげる。


「壊れたら、ワタシが嫌ですよ」

「うん。だから壊れる訳にはいかないでしょ。……ねえP子さん、僕は向こうに居た頃、ハウスはあったけど、家庭ホームは無かったんだ」

「家庭が、無かった?」

「うん。実家はすごい金持ちの部類だったんだと思う。後で思えば。でも、そこで僕はずっと、何故か、一人で生きてく方法を身につけるしかなかったから」

「よく判りませんけど、居心地が良くなかったんですね」

「うん」

「じゃあそのあたりは、またゆっくり聞きましょうか」

「今でなくていいの?」

「だって」


 P子さんはつぶやく。


「我々には時間はこれから、たっぷりあるんでしょう?」

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