第48話 蝶々をつけてあげよう

『……はい、港屋です』

「……あ、その声は、トキちゃん」

『DBちゃん! い、今どこに居るの!』

「……って」

『みんなDBちゃんが居ないから、って探しに出てしまってるのよ!』

「みんな」


 ふう、と彼はその言葉を聞くと全身に暖かいものが広がるのを感じた。ありがたい。本当に、あのひと達は。



『……ええと…… それで、今、DBちゃん何処にいるの?』

「どこって」


 彼は心配そうに見ている従業員に目で訴える。ここは何処? 従業員は慌ててプラスチックのケースに入れたホテルのパンフを示す。


「……えーと、……ああ、目黒みたい」

『目黒! って……目黒のどのへんなの?』

お客様…… 駅だったらそう遠くはございませんが……」

『あのねDBちゃん、伝言があるの!』

「……伝言?」


 視界の端で男はエレベーターの中に消えていった。途端、身体に残る弛緩作用が戻ってくる。一錠で何時間効果があっただろう。


『P子さん今日、目黒のライヴハウスに居るって』

「ライヴハウスに?」


 目黒のライヴハウス、と言えば。彼は記憶をたどる。あそこだ。老舗ライヴハウス。彼女から聞いたことがある。元演芸場だったとか、かび臭いとか、ポスターが壁にこれでもかとばかりに貼られているとか、空調が南極とか。


「誰からの、伝言だったの? ……トキちゃん」

『……HISAKAさん。DBちゃん、ごめんね』

「何」

『……だから、色々』


 色々の内容は予想がつく。いいよ、と彼は答えた。


「……ママ達と連絡取れたら、取ってくれない? 今から僕、そっちに向かうからって」

『そっちって…… ライヴハウスに?』

「うん。僕は大丈夫だから、って」


 わかった、と向こう側から声がする。受話器を置くと、彼はありがとうございました、と深々と従業員に頭を下げる。この場を貸してくれてありがとう、と素直に頭を下げる。


「……ありがとうついでで何ですが、あの」


 ライヴハウスの名を告げ、彼は道を訊ねた。さすがに従業員はあああそこか、とうなづいた。

 そう遠くはない。首都圏の距離感と地方の距離感は違う。地方出身の彼には、決して遠くはない距離だった。


「……僕行きますから、五階の…… あの部屋の料金は、あのひとから取ってください。警察沙汰にはしないから、って」


 ホテルの従業員は、従業員であるだけ、客の顔は覚えているだろう。

 少なくとも、この服を着た自分と、その連れは。自分が実は男だった、というのは従業員もびっくりだったろうが。


「お客様」


 何、と出て行こうとする彼を従業員は呼び止めた。


「これ、どうぞ」


 従業員は館内用スリッパを差し出した。サンダルに近い。ありがとう、と彼はもう一度頭を下げた。

 歩き出す。公道をスリッパというのは妙な感触だ。

 だが近いのなら、行かなくてはならないだろう。おそらく、HISAKAというひとは、それを見越して伝言したのだ。そのまま助けを待っているのか、それとも、自分で行ける所まで行くのか、と。

 ぺたぺた、と歩くたびに音がする。破れた服、素足にスリッパ、スカートの下には下着もつけていない。髪も乱れているだろう。正直、鏡が今ここにあっても見たくな気分だった。

 そして彼はホテルの従業員から言われた道順を反芻する。二番目の通りを右……次の交差点はまっすぐ…… 信号があったら……


 信号が…… ない?


 彼は息を呑んだ。立ち止まる。前方を見る。通りはある。だが信号はない。

 明るい通りだ。すずらん灯が点いている。

 おそらく店が立ち並んでいるから、道は聞けるだろう。彼は迷わずに進んだ。交差点に立つ。右少し向こうにコンビニ。そこにたどりつくまでに数名の人。


「……あの、すみません……」


 そのうちの一人に、声をかけてみる。はい? と振り返る、鮮やかなオレンジとグリーンの服を着た少女は、ひっ、と声を立てると、コンビニへと走り込んだ。

 見渡すと、じろじろと好奇の視線。自分の半径数メートルには、誰も近づいていない。そうだよなひどい格好だもんな。だがそこでめげる訳にはいかない。コンビニエンスから出てくる客に声を掛ける。


「……って、この道でいいんですか?」

「さあ知らない」


と一人は引きつった顔で答えた。


「えー、こっちじゃなかったっけー」

「こっちだと思ったけどお」

「うん、こっちだよねえ」


 三人組の女子高生は、金に近い茶髪に頭にひまわりをべたべたとくっつけてそう言い合った。派手な格好だ。頭の花だけでなく、服までもひまわりよろしくぽんぽんと色も形も飛び跳ねている。


「ところであんたもー、何かのパーティの帰りい?」

「そう見えるう?」


 見えるう、とけたけたと少女達は笑った。


「ファンデ取れまくってるよー。色だいじょーぶだったら、あたしの、貸したげよーか?」


 彼は自分の口の端が和らぐのを感じる。


「ありがと。だけど、だいじょうぶ」

「ホントにー?」

「ホントホント」

「ふーん。ちゃんとたどり着けると、いいね」

「ホント、こっちだと思うんだけどなー」

「うん一応、行ってみる。間違ったら、また誰かに聞くよ」


 そぉ、と三人組は顔を見合わせあってうなづく。


「あ、そだ」


 一人がバッグにつけていた細いリボンを抜き取ると、彼の襟元の飾りとボタン穴にする、と通した。

 鮮やかで、ごついくらいの印象のある爪を持つ手は、案外器用にそこに蝶々を作った。


「ちょっとかわいそーだしさあ」

「……ありがとう」


 じゃあね、と少女達は立ち去って行った。彼は軽く手を振った。その様子を、コンビニからまた出て来たカップルが気味悪そうな顔で、横目で見て行く。


 さて、と。


 彼は蝶々に一度触れると、言われた道の方へと歩いて行った。ぺたぺたぺた、とまたスリッパが音を立てる。

 次に話しかけた人から、次の大通りで、歩道橋を上がって、下がって、すぐだ、と教えられた。

 だがなかなか歩道橋は見つからない。間違えたのだろうか、と彼は道の標識を探す。付近の商工会の地図のようなものを探す。少し遠目に辺りを見渡す。歩道橋は何処だ。

 仕方ない、と彼は元来た道を引き返す。迷った時にはそれが一番なのだ。……もっとも、今の場合、戻った時点が何処なのか、それすら判っていないのだが。

 数歩、戻りかけた時だった。


「ねえ君、どっか、探してるの?」


 女性の声が、問いかけてきた。

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