第6話 何となく一緒に暮らしだし、何となくそうなって。

 「彼」が目覚めてすぐに目にしたのは、自分が前の夜に着ていたはずの白いふわふわの服だった。ただし、背中のあたりにべったりと足跡がついている……


「おや、起きました?」


 P子さんは「彼」に声を掛けた。ばさばさ、と彼女は手にしていたスポーツ新聞を床に下ろす。


「ひどく酔っぱらって、アナタ転がってたから、連れてきたんですよ。おはよう」


 何か言葉の順番がばらばらではないか、とP子さんも一瞬思ったが、まあいいか、と口の中でつぶやく。


「……連れてきたって」

「んー、引きずってきたのに近いのかなあ。ああそう、それと、あれ。ごめんです。ちゃんと洗って返さないといけないかな、と思ったから」

「……だ、大丈夫。僕、洗濯は慣れてるから……」

「慣れてます? なら良かった。ワタシはどーもああゆう繊細な服ってのは苦手で」


 確かにその様である。

 この時のP子さんの格好ときたら、「繊細」とは無縁だった。

 真っ赤なたっぶりとした髪は後ろでバンダナでくくり、割と豊かな胸はノーブラのまま、大きめの長袖Tシャツ一枚。

 そして下は下で、スウェットの裾を切ったものであぐらなど組んでる状態なのだから。


「でもまあ、呑みすぎってのは良くないですよ」


 自分はさておき、P子さんは「彼」に言う。


「……ごめんなさい。昨日はつい、お客さんに絡まれて」

「お客?」


 ああなるほど、と彼女は納得する。そういう商売なのか。


「酒の相手くらいまでだったらいいけど、……さすがにそれ以上はちょっと、だったから。向こうは酔いつぶそう、って感じだったけど、逃げてきちゃったら、酔いが回っちゃって」

「それは危険ですよ」

「うん、判ってるんだけど」


 「彼」は口の端をほんの少し上げた、ように見えた。


「でも、ね」

「まあそういうもんですかね」


 P子さんは再びスポーツ新聞を取り上げた。見事に彼女のご贔屓球団満載のスポーツ紙である。

 しばらく彼女はその記事に集中していた。そしてふと、顔を上げると、「彼」に向かって問いかけた。


「……お腹、空きませんか?」

「え?」

「朝メシでも食いますか。えーと。アナタ、何って言いますか?」

「え?」

「名前」

「……あ」


 「彼」は少し考え込むように首を傾げた。


「DB」

「でぃーびー?」

「そう呼ばれてるの」


 ふうん、とP子さんはうなづいた。


「じゃあDB、アナタコーヒーとお茶とどっちがいいですか?」



 それからずっと、「彼」はこの部屋に居着いていた。


「今日は店はいいんですか?」

「何言ってるの、今日は休み。水曜日じゃない」


 ああそう言えばそうだ、とP子さんは新聞の日付を改めて見る。


「水曜日はうちの店みーんなお休み。あとはローテーションでもう一日。前に僕言ったよ?」

「ああごめんなさいな。ワタシも最近忘れっぽくて。……それよりごはん早く食べましょ」


 もう、とDBは肩をすくめながら、それでも炊飯器を寄せると、P子さんの茶碗にこんもりとご飯をよそう。

 店。最初に会った日に着ていた服は、営業用のものなのだ、とあの後彼はP子さんに説明した。


「二丁目じゃあないけれど、そういう店」


 そして「そういう店」に普段はひらひらした服も、自分の寝泊まりする場所もあるのだ、という。

 だが別段、仕事でそんな格好をしている時以外、化粧をする訳でもなく、言葉も女言葉にはなっていないのだという。

 そのことを疑問に思って問いかけたら、彼はこう答えた。


「だって僕は別に男のひとが格別好きって訳じゃあないもの。普段は自分の楽な格好をしたいじゃない」


 そうこんなの、と彼は言いながら、P子さんから借りたTシャツとジーンズを指さす。

 ジーンズの裾は少し折っている。胸がある訳ではないので、Tシャツはぶかぶかだ。


「そう言えば逃げてきた、って言ってましたね」


 最初の朝のことを彼女は思い出す。


「うん。別に男のひとだってできなくはないとは思うけど、僕にだって、好みはあるし…… 店のママは無理強いはしないし」


 そういうものですかねえ、とP子さんはとりあえずうなづいておいた。

 だがその態度がいまいち納得のいかないものに見えたのか、ややむきになって彼は続けた。


「だって、そういうものじゃない? 押し倒されてしまえば同じ、って言うひともいたけど、いくら何だって、目の前の奴が、どうしても何か見てられない程の顔とか、体臭がひどいとか、そんなのだったら、いくら男の体がそうできてるとか何とか言ったって、無理だと思うよ」

「まあ…… それならね。判らなくはないですがね」


 確かに、とP子さんは思う。

 趣味でもない顔だの、どうしてもがまんできない汗臭い奴とかは嫌だな、と。そしてそう考えてから、ああそうか、とあらためて思う。


「それじゃDB、とりあえずワタシはその類じゃあなかった訳ですか」

「そうなんじゃない?」


 なるほど、と彼女は大まじめにうなづいたものだ。

 それが出会って一週間ほどの頃。



 何となくだらだらと、そこから店に出向いて、服を洗ったり乾かしたりしているうちに、また泊まって、と繰り返し、ごはんを食べたりお茶を呑んだり、ブロ野球ニュースを見ていたら、……何となく、そういうことになってしまった。

 正直、P子さん自身も驚いていた。


 ああそーいえば、ワタシでもそういうことできたのか。


 別段全くの「初めて」ではないのだが、「初めて」は別に記憶に残しておきたいものでもない。自主的には「初めて」と言えよう。

 格別何か喋る訳でもなく、プロ野球ニュースを二人してぼんやりと見ていた。

 ご贔屓が勝ったせいもあるかもしれない。しばらく負け続きで、くさくさしていたのだ。

 なのにこの日は、お目当ての選手が見事にホームランをかましてくだすった。

 気分は上り調子。

 そんな時に不意にP子さんはDBの方を見てしまった。

 あらら。格別野球好きだ、とかは聞いていないのに、結構熱心に見ている。

 その横顔が、肌の調子とか、綺麗だなあ、とつい思った。

 思ってしまったので。


 つん。


 指が伸びた。


「……何?」


 大きな目が開く。どうしたの? と目が問いかける。


「や、綺麗だなあ、と思って」

「ありがと」


 にっこり、と笑う。営業スマイル。


「本当ですよ?」

「だって男の肌だよ? いくら何でも違うじゃない」


 そう言って、今度は彼のほうがP子さんの頬に触れた。


「ほらずっとすべすべ」

「……くすぐったいですよ」


 くすくす、とP子さんは笑った。

 だが彼の目からは笑いが消えていた。P子さんは手を外そうとした。

 その手が取られる。


「DB?」

「黙って」


 ……結局その日の野球の結果を見損ねてしまった。

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