第899話 呼応呪文
彼は前任者から指揮権を引き継ぎ、この街の総指揮を執ることとなった。
だが甚だ不本意ながら……彼の下さねばならぬ命令は決まっている。
はじめから、計画が失敗した時の仕事は決まっていたからだ。
なんとも不愉快で、なんとも理不尽な事だけれど、種の存亡がかかっているのなら仕方ない。
彼は街中の魔族どもに精神感応を飛ばし……
黒い、光を放った。
「……いかん!」
キャスが彼の異変を察し、己の剣を杖代わりに無理矢理立ち上がりそのまま前のめりに地面を蹴った。
(間に合うか……!?)
キャスがミエの方に走りながら残りの魔力を確認する。
ない。
完全にない。
からっけつである。
元々専門の術師でないキャスは魔力が少なく、あっという間に消費し尽くしてしまう。
彼女の愛剣に込められた
そしてその上で、今は魔力が完全に枯渇している。
まあ全力と死力を尽くした上で
だが、それでも。
今魔術を使えなければ、ここでミエが死ぬ。
キャス一人なら全力疾走すればギリギリあれの範囲から逃れられるかもしれない。
だがミエを連れてその場から離脱するには速度も力も足りない。
どうしたって魔術の補助が必要だ。
(く、そ……っ)
がくん、と膝から崩れ落ちそうになる。
魔力だけではない。
肉体も酷使しすぐているのだ。
だがせっかくここまで来て、あの死に方は不味い。
蘇生の効かぬあの死に方だけは、ミエにさせるわけにはゆかない。
クラスクが帰還した時に、決して見せられない。
見せるわけにはゆかない。
「動、け……っ! せめて、あと30フースだけでも……っ!」
その時、キャスの踏み込んだ右足の下から、風が巻き起こった。
それはたちまち彼女の足を包み込んで、キャス自身が驚くほどの速度で彼女を進ませる推進力へと変じた。
〈
風属性の初歩的な精霊魔術だ。
ただし……その呪文をキャスは唱えていない。
だが誰の魔力であろうと魔術効果は魔術効果である。
キャスは一気に速度を上げると地面に尻もちをついているミエを拾い上げるように抱きかかえ、一息にその場から離脱した。
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!?」
直後、漆黒の爆発が起こる。
その爆発の範囲からギリギリ抜け出したキャスは途中で床に足を取られ、ミエを己で包むように地面を転がった。
「あいたー!?」
石畳の床に頭を軽くぶつけ地面を転がるミエ。
抗議のためキャスの方に振り返ったミエは、そこで彼女が痙攣する足を押さえ呻いている姿に顔面蒼白となる。
「どうしたんですかキャスさん!? だだだ大丈夫なんですー!?」
「大丈夫ではない。大丈夫ではない、が……まだマシというものだ」
キャスは激痛の走る己の足をさすりながら先刻のことを思い返す。
突然足に魔力が漲り精霊魔術が発動したあの瞬間を。
己の魔力は尽きている。
この場で他に精霊魔術が使えるのはサフィナだけだが、彼女はあの小型の太陽のような魔術を操るのに精神を集中しているはずだから追加で呪文など唱えられまい。
というかそもそもが〈
つまり詠唱者がいない。
そんな状態で呪文効果が発動することなど……
「……そうか、あれが≪呼応呪文≫か」
キャスは小さくため息をついて……己の愛剣を優しく撫でた。
魔術を行使するには魔力が必要である。
ただしどこに魔力を使うのかは術系統ごとに異なる。
例えば魔導術は組んだ魔術式に魔力を通すことでその式を起動し望んだ効果を現出させる。
理論上どんな効果であろうと実現できる(そうした式を開発できれば、だが)けれど、その効果に応じた魔力を己自身で支払わねばならぬ。
一方で神聖魔術の呪文主体は神性…簡単に言えば神様である。
神様の力が呪文効果を発揮させているので呪文そのものに術者の魔力の消費は必要ない。
ただしその奇跡を己で受信し、己の前で発揮させるためには魔力が必要である。
言ってみれば魔力を使用料として支払っているようなものだ。
そして精霊魔術の場合……呪文主体は精霊である。
精霊が風を起こし、火柱を上げる。
この効果に術者の魔力は必要ない。
精霊自身がやっていることだからだ。
ただし精霊の好きにさせた場合風の強い場所で風を吹かせたりとか、水の流れている場所で水を流したりと言った、自然界で起こっている当たり前のことしか起こらない。
それは考えるまでもないことだ。
精霊とはこの世界を循環するエネルギーそのものであり、それぞれが自然の法則や摂理に沿って働いているのだから。
だが逆に言えば精霊たちは自然の法則には逆らえない。
つまり精霊たちが逆らえないような頼み方をすれば、常に術者が望んだ効果を発揮させる事ができる。
『精霊に特定の行為を強要させる精霊語の命令』……それが精霊魔術だ。
強制させるために言葉に魔力を込めて、いわば精霊たちを丸め込んで特定の効果を発揮させるわけである。
精霊魔術の魔力とは、この命令する精霊語に込められ、消費される。
逆に言えば、精霊が自ら魔術効果を勝手に使ってくれる分には、精霊使いが魔力を消費する必要はないのである。
ただ現実にはそういうことはまず起こらない。
魔力と精霊語で強制されない限り、戦闘に有利に働くような、彼らの本来の挙動とは明らかに異なる行為など精霊たちは一切やろうとしないからである。
けれど……何事にも例外もある。
報告例は少ないけれど、魔力が尽きた時、魔力消費なく精霊魔術が発動する、といった事象が発生した例が幾つかあるのだ。
調査と研究の結果、この事象が起きるには幾つかの条件が必要とされている。
まず精霊。
術者は常に同じ精霊を、長いこと共に連れ歩いていなければならぬ。
普通精霊魔術とはその場にいる精霊の力を借りるものだ。
大地の精霊は基本その場から動かない。
風の精霊はひとつところに留まりはしないけれど、だからと言って誰かの隣のような決まった場所にいつまでもうろついたりしない。
基本気ままで気まぐれなのだ。
ただ中位以上の精霊使いであればこの条件を満たすことが可能となる。
≪精霊の相棒≫である。
精霊を一体相棒として連れ歩き、その属性の力を借りる。
例えば風の精霊を連れていれば風の吹かぬ洞窟の中でも自由に風の精霊呪文が使えるようになるし、水の精霊を水筒に入れておけば砂漠の中で水を生み出すといった芸当も可能だ。
またいざとなったら精霊も一緒に戦ってくれたりする。
戦力として、また己の精霊魔術の補助として≪精霊の相棒≫は非常に有用かつ頼もしい存在なのだ。
第二に幾度も同じ呪文を使用していること。
その精霊と同じ属性の呪文を幾度も幾度も、繰り返し使用することによって精霊にその魔術効果をに覚え込ませる。
そして第三に術者の魔力が枯渇していること。
精霊に対し呪文の発動強制ができず、それでもどうしても魔術行使を必要としていること。
これらの条件がそろった時、稀に精霊がその魔術効果を模倣し、使ってくれることがあるのだ。
最後の最後、どうしても必要な時にだけ、気まぐれに力を貸してくれるのである。
これを≪呼応呪文≫と呼ぶ。
精霊が術師の願いに呼応して力を行使してくれたように見えるからだ。
だが実際に情や憐憫や義侠心などで精霊が力を貸してくれることはない。
彼らは
だからどんなに親しくしている精霊でも呼応呪文を使ってくれないこともあれば、大して仲も良くない精霊が唐突に力を貸してくれることもある。
術師側からすれば上記の条件以外まったく理由も理屈もわからない、単なる気まぐれにしか思えないのだ。
ゆえにこれに頼る戦い方は基本できない。
ただ……他の術師と異なり、精霊使いだけは魔力が尽きたからと言って絶対に安心ができる相手ではない、ということだけは確かである。
彼らは魔力が完全に尽きた状態ですら、魔術を行使してくる危険があるからだ。
さて、問題は今キャスの身に起こった現象である。
魔力が尽きた状態で〈
そもそもこの呪文は『目標;術者』の呪文であり、キャス以外が唱えたところでキャスに効果が及ぶことはない。
つまりあれは間違いなくキャス自身が発動させた呪文効果であって、そしてキャス自身の魔力がとっくに枯渇していた以上、あれは≪呼応呪文≫に他ならぬ。
だがキャスは精霊使いではないし、そもそも騎士としてはともかく術師としては決して高いレベルでもない。
≪精霊の相棒≫などいるはずもない。
では一体誰があの呪文を習い覚えて、使ってくれたのだろうか。
キャスが、己の愛剣を撫でている。
刀身に纏わりつくように、風の吹いているその剣を。
そう、そこにいたのだ。
『風巻』の
その刀身に宿った精霊は……常に同じ風の精だったのである。
その精霊は見続けた。
キャスの戦いを剣に宿りながらずっと、共に。
そして彼女の唱える呪文の主体となって幾度となく効果を発揮させてきた。
そんな彼女が……使ってくれたのだ。
キャスがずっと使い続けてきた戦闘補助魔術を。
彼女の足りない最後の最後の一歩を、助けてくれたのである。
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