第897話 初めての恐怖

魔族達は混乱し、狂乱した。


どうにかしなければ。

今行っているあらゆる計画を放り投げてでもどうにかしなければ。


こんな弱点、こんな欠点を抱えたままでは瘴気地の拡大どころではない。

ドルムの攻略どころかアルザス盆地の奪回すらもはや後回しだ。

あの女を、ミエ様……なにせ呼び捨てにすることすら怖いのだ……をどうにかして抹殺せねば、魔族という種の存亡にすら繋がりかねない……!


彼らはミエの抹殺、或いは拿捕を種族的な最重要課題とせざるを得なかった。

彼女と言う弱点を克服できなければ、万が一にでも人型生物フェインミューブに占術などで知られてしまえば、彼女本人でなく他者にすら利用されかねない。

そうなれば種族的優位もへったくれもない。

ゆえにクラスク市の攻略が彼らの最優先事項となった。


クラスクが、そしてシャミルが、今回の事件の途中で魔族の目的が防衛都市ドルムではなくクラスク市であることに気が付いた。

けれど理由まではわからず、首を捻っていたはずだ。


なにせ魔族どもが敷いた情報管制は完璧で、魔族どもが自ら知らせてくれなかったらクラスク市もれに気づき得なかったのだ。

そしてドルム自身ですらすぐに救援が来ると疑っていなかった。


つまり遠からずドルムの周囲は瘴気地になっていたはずで、そうなればこの地方の最重要拠点である対魔族絶対防衛線が崩されることとなる。

そしてその時点ですら人類側はそれに気づいていないのだから、情報的アドバンテージは魔族側に圧倒的優位と言っていい。


後は悠々瘴気地を広げながらクラスク市に全魔族で攻め込めばそれでほぼ詰みである。

クラスク市は滅び、国土に西半分を瘴気に沈めたアルザス王国の命運は風前の灯火だ。



だが今の魔族達にはそんな余裕はない。

一刻も早くミエをしなければ。

その恐怖と焦燥と圧迫感が、彼らの最大目標をクラスク市に変更せざるを得なかった理由である。


そう、なんのことはない。

クラスク市を攻撃目標にしたのは彼らの深淵な策謀でも何でもなく、最善でもなければ次善の策でもなく、追い詰められたがゆえの苦肉の策に過ぎなかったのだ。


これはどんな知者でも読めなかったはずである。


だが実際のところどうだろうか。

彼らはミエの抹殺を完遂できただろうか。


魔族達はミエの居場所は居館であると早いうちにわかっていたはずだ。

伝令兵に身をやつし、偽情報でクラスクを釣り出して、あわよくばミエの抹殺を目論んでいたラッヒュイーム傭兵団の団員キフォクヴォー・コイルからの連絡が居館で途絶えた事からそれが類推可能だった。


にもかかわらず居館に攻め入った魔族の数は多くなかった。

そのほとんどは教会前に集まってイエタの大結界を破壊せんとしていたはずだ。


無論街の攻略にはそれが有効打なのは間違いない。

けれど彼らの今回の襲撃の目的、最優先事項はミエである。

彼女を抹殺或いは拿捕し自分達に刻まれたその恐怖心を克服することだったはずだ。


にもかかわらず彼らはそこから逃げた。

攻略に有利だだからという理由を言い訳に、城攻めを後回しにした。


怖かったのである。

ミエが怖かったのだ。


まあ言い訳をするなら教会戦を制し結界を破壊できれば彼らは再び姿を消したり人の姿に化けたりできるようになる。

そうした騙し討ちであればミエを討つ可能性が上がると踏んでのこともあったろうけれど、それでも少々及び腰が過ぎるというものではなかろうか。


だがそれでも勇気と打算を振り絞って居館を攻めた魔族がいた。

あの麗魔族サイヴォークィなどはその最たるものだろう。


だが……守護獣たる魔狼を退けとどめを刺さんとした時……彼女が、ミエが現れ、己の前で両手を広げた。




こわい。




一体なにを考えているのだろうか。

さっぱりわからない。


彼女ほどの知能があれば魔族が自分を狙っていることなんてとっくに理解できているはずだ。

その上でたかがペットの危機に自らの身を投げ出したりするだろうか。


あり得ない。

あり得ない。

きっと何か策があるに違いない。


こわい。

こわい。


触れるだけで生命力を奪う己の姿を彼女は見たはずだ。

それにもかかわらず平気で前に出てくるのは対抗策があるからか?

こちらが触る前にこちらを滅ぼす算段がついているから?


こわい。

こわいこわい。

なにもわからない。

こわい。


思わず麗魔族サイヴォークィは悲鳴を上げて後ずさり、壁の隅へと追い詰められてしまった。


だが……そこでミエが取った行動は彼女の想像の遥か上を行っていた。

あろうことかミエは彼女に無防備に近づきながら、こう告げたのだ。



「モシモシ、ダイジョウブデスカ」

と。



麗魔族サイヴォークィの、思考が、止まった。


この女は一体何を言っているのだろう。

共通語ギンニムなど当然知っている。

彼女が放った言葉の意味も翻訳できる。

理解もできる。





なにせ彼女の発言をそのまま直訳するなら、使ように聞こえるのだ。


なぜ?

なんのために?

こちらが知らぬ何かの暗号か?

言動でこちらの心理を操作し何かの策に嵌めるつもりか?



それとも…

ああ、それとも。

考えたくはないけれど、もしかして。



口先ひとつでいつでもこちらを滅ぼせる圧倒的優位な立場ゆえ、こちらに憐憫でもかけているのだろうか?



「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」


耐えられなかった。

恐怖に耐えられなかった。


それ以上考えたら己の思考で自らが滅んでしまう。

そう感じるほどに追い詰められた彼女は、標的を目の前にして逃亡した。


そして円卓の間の外の魔族である。


恐怖と畏怖と絶望に塗りつぶされた麗魔族サイヴォークィが部屋から飛び出し、その精神感応の悲鳴を受けびくりと身を竦ませた彼の前に、が現れた。


ミエサマである。

標的でありながら最も恐ろしい、自分達魔族の仇敵である。


だが彼女は無防備に彼に近づいてくる。

何の武装もしていないのに、平気な顔で。


近づいてくる。

ゆっくりと、こちらに。

無防備に、無抵抗に、戦場の緊張すらなく平気な顔で近づいてくる。


わからない。

わからない。


高度な知性と計画性を有する魔族にとって未知は最大限に忌避すべきものだ。

『初見殺し』のような言葉があるように、喩え存在が格上であろうと対策を知らぬ攻撃を浴びれば敗北するリスクが発生する。


その『何もわからない』が。

向こうから、のそりと、近寄ってくるのである。

迫ってくるのである。


そして己を討ちに来た相手を前に、下から覗き込むような恰好で、こんな事をのたまったのである。


「ミナサン、ワタシヲウチニコラレタンデスヨネ?」


意味は分かる。

麗魔族サイヴォークィの時と違って意味は分かる。



だが……今度はその行為の意味がわからない。



己を狙っていると知ってなぜ無防備に近づいてくる。

こちらが正直に話すはずもないぜ尋ねる。


何の意味が?

何の意図が?


わからない。

わからないわからない。

わからないこわいわからない。


もしかして…どんな嘘をついても無意味なのか?

何かを口にしたら、いや問いかけからのこちらの表情だけですべてを悟られてしまうのか?


それとも全てを、そうなにもか全てを既に知っていて……その上でこちらにわざわざ確認を取っているのだろうか?

卑小な魔族風情が、何様のつもりだと。


「ウワアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」


耐えられなかった。

恐怖が決壊した。

その帯魔族ヴェリートは一目散に逃げ出した。


絶叫しながら。


居館から逃亡する魔族ども。

彼らから放たれる心の叫びが街を襲った魔族どもにもたちまち伝播する。


情報伝達の速さは魔族どもの長所のはずが、ミエに対してはとにかく裏目に出てしまう。

彼女が理解できぬという恐怖が瞬く間に街中に広がって、もはや襲う気すら失せて恐怖に身を竦ませる。






まさに天敵に出会って観念した野生生物が如し。

ミエは、確かに彼らの『弱点』となったのだ。





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