第885話 終焉の刻
低く唸り、上体を落とし、いつでも襲い掛かれるようにしながら牙を見せ威嚇するコルキ。
彼がこれほど敵意を剥き出しにするのは珍しい。
ミエに危機が迫っているためかその表情は先程の街中で見せたものよりさらに剣呑で、もしこの姿を見たのなら、街の者達も魔族どもの煽りに乗っていたかもしれないというほどだ。
対峙しているのは魔族。
人型、かつ女性型の魔族である。
位階が上がるにつれ大型化する傾向の大きい魔族の中で、下級高位に位置しながらその体格は
いや
その背には蝙蝠のような羽が生えている。
人に化けるときは奇麗に折り畳むのだろう。
銀髪青肌でその表情は怜悧。
表情少なく愛嬌は一切ないが、静謐な美貌と妖艶さを備えている。
右手に赤い刃の剣を持っており、その刀身はまるでキッチンで火にかけたフライパンのようなチリチリとした音を立てていた。
「ガウッ!」
コルキが鋭く吼えて床を蹴り宙に弧を描き
それを床を蹴って横に避けた魔族が着地際を剣で斬りつけんとした。
だが彼女が狙ったのは獣相手の着地だ、
コルキはただの獣ではない、知性と知恵のある魔狼である。
それも飼い主の教育の成果によってそれを善性として発揮させる賢狼である。
「!!」
コルキはにゅっと伸ばした左前脚を先に床に着けた。
並の狼であればあり得ない機動である。
そしてその前脚で強く床を蹴って空中で強引に方向転換。
彼の胴体はまだ宙を跳ねている中途であったため、それはちょうど空中で突如襲う向きを変えたように見えた、
首を前に突き出してそのまま噛みつかんとするコルキ。
体格差を考えたら上に乗られて組み伏せられた時点で
娘はその紅の剣で大口を開けたコルキの牙を受け止めんとする。
ジュッ!
「ギャンッ!」
何かが焼け焦げた音と臭い、そして獣の悲鳴。
コルキは慌てて距離を取り、体勢を低く取り再び威嚇の唸り声を上げる。
その口元が黒く変色し白い煙を放っていた。
体毛が一部焦げて黒くなっている。
どうやら彼女の手にした剣は高熱を伴っているらしい。
迂闊に近寄れずじり、じりと横に動き威嚇しながら隙を伺うコルキ。
剣が抑止力になっている事を把握しそれを盾代わりに前に突き出しながら攻略法を練る
と、突然コルキの様子がおかしくなった。
まるで敵でもいなくなったかのように緊張を解き、左右をきょろきょろと見回している。
それを見てほくそ笑む
「きゃん!」
「きゃきゃん!」
「ぎゃわんっ!?」
だがコルキの背中から甲高い声が聞こえたかと思うと、コルキが悲鳴を上げて飛び上がった。
そして部屋を一瞥しすぐに状況を思い出し、まるで風呂上りに水を跳ね飛ばすかのようにぶるんぶるんと身を震わせて再び体勢を整え威嚇する。
それを見て忌々し気に唇を歪める
[精神効果]である。
コルキが彼女の手にした高熱を発するらしき剣を警戒し近寄らぬタイミングで
彼女たち
そのために魅了系統の妖術を複数体得している。
コルキに用いた〈
これは魔導師がよく使う
だが術にかかったコルキの様子がおかしいことに気づいた背中に隠れた彼の子らが一斉にコルキに噛みつき、痛みによって正気を取り戻し事なきを得たわけである。
強力な呪文を模した妖術だがその目標はあくまで『生物一体』。
コルキの毛皮に隠れていた仔犬……もとい仔狼達には効いていなかったのが幸いした。
警戒して距離を取り過ぎると妖術が飛んできて、かといって下手に接近するとあの剣で焼かれてしまう。
コルキは僅かに逡巡した後覚悟を決めたのかどっと床を蹴り一気に
当然その赤熱する剣で受け止めんとする
だがその牙が突き刺さる直前、コルキは急激に方向を変え彼女の斜め前を突っ切り、そこからさらに角度を変えてほぼ真横から襲い掛かる。
その隙にコルキは彼女の上にのしかかり押し倒し、その前脚で彼女の肩を踏み潰し剣を取り落とさせた。
ジュッと音がして剣を落とさせた瞬間コルキの肉球が焼ける。
だがそれが不意打ちならいざ知らず覚悟を決めたのであればコルキは多少の痛みを我慢できる。
そしてそのままその魔族を……
その魔族を噛み殺そうとして、コルキがその場に突っ伏した。
「フウ……」
ゆっくりと、立ち上がる。
体についた埃を払いながら。
コルキにつけられた傷が高速の治癒能力によってゆっくりと、だが目に見える速度で塞がっていった。
そして完全に無傷となった
相手の精気を吸い、自らの活力とする力だ。
本来であれば
いわゆる≪
出世先の上級魔族に比べればその威力は低いけれど、それでもまともに喰らえば効果は絶大だ。
ただしこれを用いるには彼女の肌に直接相手が触れていなければならない。
それも長く吸収するためには長時間触れていてくれるほど有難い。
ゆえに彼女は誘ったのだ。
自らを強引に組み伏せ、その上で食い殺すより先に剣を落とさせるように。
そうすればそれだけ長く己に触れる事となり、その効果は跳ね上がるからだ。
結果巨体かつタフなコルキですら立っていられなくなるほど衰弱し、こうして勝者と敗者が分かたれたわけである。
決して一方的な勝負ではなかった。
こうなる前に食い殺されていれば
「きゃんっ!」
「きゃきゃん!」
「きゃうん! きゃうん!」
ころころころ…とコルキの背中から転げ落ちてきた子犬……もとい仔狼達が必死に吠えたてる。
父親を守らんと、必死に吠える。
だがコルキほど巨大化しているならいざ知らず、子供では魔族の相手にならぬ。
「きゃわんっ!!」
父を守らんとコルキの前に立ち口々に吼える仔犬たちを蹴り飛ばし、彼女はコルキの前に立った。
力なく横倒れ、舌を出し、コヒュー、コヒューと弱弱しく呼吸しながら、それでも瞳だけは殺意を込めて彼女を見上げている。
コルキは未だ戦闘意欲を失っていない。
瀕死の今でさえ気力を失っていない。
やはりこの獣は危険だ、と彼女は判断した。
無論吸収しきってしまえばそのまま吸い殺せるし、貧弱な者であれば回復できずにそのまま恒久的に生命力を失ってしまうこともあるけれど、この獣ほどの頑健さがあれば耐えられてしまう可能性も十分に高い。
だから今だ。
今、この場で殺し切っておかなければならぬ。
彼女は己の手で触れるか、剣で焼き殺すか少し逡巡し、少しでも被害を受けぬよう剣を構えて……
「だめええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」
そして、物陰から飛び出した娘がその前に立ちはだかった。
ミエである。
ミエが両手を広げ、
その横の物陰でシャミルが悔恨と悔悟の混じった瞳で彼女を見つめていた。
そうだ。
そうだたった。
ミエはそういう娘だったではないか。
誰かを守る。
誰かを助ける。
そのためにいつだって必死に、懸命に、全力になる。
そんな娘だったではないか。
目の前で己の大切な愛狼が殺されそうになって放っておける娘などではなかったはずではないか。
シャミルが歯噛みをするが……もう、遅い。
クラスク市の居館、その円卓の間から、悲鳴が響いた。
魂消るようなその悲鳴は長く、長く響いて……やがて街の各地から響く戦いの喧騒に掻き消された。
それは……断末魔の悲鳴にも、聞こえた。
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