第813話 戦争の定義
「キャアアアアアアアアアアアアアア!!」
裏路地から女性の悲鳴が上がった。
西城壁の上から侵入を果たした魔族どもにでも襲われたのだろうか。
いや、違う。
彼女を追いかけているのは明らかに人影に見える。
魔族ではないようだ。
ということは街の混乱の乗じた物取りや火事場泥棒のたぐいだろうか。
「オイオイ……ひっでえなあ。何もそんな悲鳴上げなくてもいいだろぉ?」
「そうそう。俺らはちょっとアンタをエスコートしやりたいだけさ」
「怖がらないでくれよお」
台詞だけを聞く限りそこまで無体な要求をしているようには思えない。
だがそれでも、その町娘が悲鳴を上げるだけの『何か』が彼らにはあった。
「きゃっ!?」
この街に移住してきた若い娘…年の頃は二十代前半だろうか…が、とつぜんけつまずいて地面に転がる。
急いで立ち上がろうとするがずるりと手が滑り再び地面に倒れた。
彼女の右足首に何かが巻き付いている。
それがその娘を引っ張って彼女のバランスを崩していたのだ。
己の足を確認した娘は……そこに先端に重りのようなものがついた皮紐の先端が巻き付いている事に気づいた。
……鞭である。
「逃げるのはよくない。追いかけたくなるからな」
「そうそう。狩猟本能って奴さ」
「だから大人しく……な?」
怯える女性。
必死で立ち上がろうとするが、その都度足に絡められた鞭を引かれ無様に地面に転がる。
その様を見ながらへらへらと笑う男たち。
彼ら相手に悲鳴を上げて逃げ出そうとした彼女には人を見る目があったということだろうか。
……いや、違う。
無論特有の女性の直観として嫌な感じはしたのかもしれないけれど、彼女が悲鳴を上げたのはそれよりもっと直接的な理由だ。
彼らが殺人者だからである。
戦場で敵同士が戦えば無論死傷者は出る。
相手が
魔族どもはなまじ優れた防御能力があるがゆえ逆に死を過剰に忌避する傾向があるけれど、それでも戦闘に及ぶ以上常に万が一はついて回る。
クラスク市は現在戦争状態にあり、今やこの街の中も等しく戦場となっている。
ならばその戦場で殺人者などおかしなことをと言うかもしれない。
だが違う。
戦争とは兵力による主に国家間の闘争である。
魔族は秩序だった集団であり、クラスク市も構造としては都市国家と呼べるものなので、この両者の戦いは戦争と呼んでも差し支えないはずだ。
そして戦争とはそうした国家或いは組織が己の政治的主張を武力によって解決しようとする行動である。
つまり互いに命の奪い合いをしていても、そこに彼我の主張はしっかりと通しておかねばならない。
にもかかわらず……そこにいた男たちは戦争状態にある両者の主張を蔑ろにしていた。
具体的に言うと民間人をなぶり殺していたのである。
街の者の命を容易に奪っている時点で彼らがクラスク市側の主張を代弁していなことは明らかだ。
ならば彼らは魔族側なのかと言うと…実は安易にそうだとは言い切れぬ。
なぜならクラスク市の住人を殺害するのは魔族側の主張と利益に反する行為からである。
当たり前のように襲撃を仕掛け、城壁の上で兵士達と殺し合い……正確にはリーパグが持ち込んだ赤竜武器のお陰で隊長格以外でもようやく殺し合いと呼べる程度になれたと言うべきだが……している魔族どもが何を、と思うかもしれないが、実際魔族達は衛兵やオーク達と戦っても街中で民間人を無差別に襲ったりはしていない。
街に潜入した、或いは元々街にいた魔族どもは包囲などから逃れるため、或いは己が正体を露見させた際の目撃者を消すためなどの止むをえない場合を除き民間人にはほぼ手を出していないのだ。
まあ各地での大混乱の中それに気づく住人はいなかっただろうけれど。
何故かと言えば
いやより正確に言えば知的生物が放つ欲望や負の感情全般がそうなのだけれど、
負の感情を出すのは生きている
死んでいては意味がない。
だから自分達を殺し得る兵士やその支配体制の者であれば主張の対立から命を奪う事に躊躇いはないけれど、それ以外のこちらを殺し得る能力を持たぬ一般市民を魔族どもは好んで襲ったり殺したりはしない。
負の感情を醸し出すために大切に、命を奪わず苛め抜かなくてはならないのだから。
だがその男たちは違う。
逃げてきた街の者に暴力を働いた。
怯えて逃げる相手を捕まえ嬲り殺した。
それも享楽的な笑みを浮かべたままそれを為した。
つまり人を傷つけ命を奪う事それ自体を喜びと感じているのだ。
これは明確に魔族の主張に反していると言えるだろう。
そしてそんなものを間近で見せつけられて悲鳴を上げずにいられる者などそうそういるものではない。
先程女性が悲鳴を上げたのはそのためだ。
けれど彼女は逃げられない。
だって彼らは最初からそのつもりなのだ。
凄惨な現場を見せつけ、怯え、震え、混乱して逃げ出そうとする相手を捕まえて、張り付いた恐怖を愉しんだ後に……殺す。
彼らの歪んだ趣味嗜好の次の犠牲者として、あらかじめ仕込まれていたのだから。
…まあ相手の負の感情を増幅させ愉しむ、というこちらの点に関しては、魔族どもの主張に沿ってはいるのだが。
「うおりゃっ!」
だが……唐突にその女性の足が自由になった。
巻き付いていたはずの鞭が突然ほどけ、背後を振り返る余裕すらなくその娘は四つん這いのまま、途中から前傾になりつつ這う這うの体でその場から逃亡を図る。
音もなく空を走る二条の光。
彼女の背中と首筋を狙ったナイフの光だ。
けれどそれは彼女との軌道の間に割って入った何者かが手にしたもので弾かれて左右の壁に跳ね地面に落ちた。
「逃げられたと安心したとこを背後からトドメか。相変わらず性格悪いなお前ら」
「おお! ゲルダ!」
男たちの前に立ちはだかったのは身の丈7フース(約2.1m)を超す巨漢の娘……そう、半
そして彼女がこんな口をきく相手は……
「テメェ……なにやってんだよグラオール!」
「おいおいひでえな。目上の奴は敬えって教えなかったか? あと団長と呼べ」
「そうだぞー先輩を敬えー」
「傭兵仲間だろー?」
「「ゲッハハハハハハハ!」」
曇天が空を覆い、裏路地には影が差している。
両手を広げ団長を名乗る男と、哄笑する取り巻きどもの表情はよく読み取れなかった。
「アタシを餌に逃げ出した連中のことなんざ仲間とも団員とも思ってねえ。アンタもだグラオール」
「なんてこと言いやがる……俺達はずっと気にかけてやったっつーのに」
ぬたりと笑みを浮かべたグラオール……団長を名乗る男。
その表情は暗く見えぬのに、ゲルダには彼が嗤っていると肌で感じた。
「お前みてえなゴミそのものの人生を送った奴ぁ俺は好きだぜ? みじめで情けなくって眺めてるだけで酒が旨くなるってなもんだ」
「アタシもよかったよ。アンタらがクソの煮凝りみたいな奴らのままでさ……気兼ねなく、殺せる」
ミエやシャミルの前では決して見せぬ落ちた声色。
黒く濁った瞳。
ゲルダの表情は……かつての傭兵時代のそれとなっていた。
「いいねいいねその表情。昔のままじゃねけか」
「そういうアンタらは……だいぶ変わったな。性格は変わらねえのに」
ゲルダに言われた彼らは……少しだけ首をひねる。
「俺達が?」
「ああ……わからねえならいい」
鎖斧を構え直し、ゲルダが首をこきりと鳴らす。
確かに彼らは人の姿をしていた。
頭はひとつ、両手に両脚、二足歩行。
外観は
けれどその輪郭の内側は……肉体のあちこちが黒く濁り、その顔面すらも半分闇に飲まれていた。
魔物である。
人が魔物と化した人魔である。
それは
ゲルダは愛用する鎖斧を構え直しながら、啖呵を切って己の過去と正面から対峙した。
「テメェらのクソみてえな性格が変わってねえってことは、魔物になる前からずっとそういう奴らだったって事だからな!」
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