第804話 聖杯
聖杯とは一言で言えば神の一部を素材に造られた
とは言っても別に物騒な話ではない。
神の恩寵として、神が身に着けているものや体の一部などが信徒に下賜されることがあるのだ。
いわゆる聖遺物と呼ばれるものである。
ミエの世界なら神様が生前身に着けていた衣服や骨の欠片などをそう呼称するが、この世界の場合神が現在身に着けているものであったりする。
信徒はそれを非常に尊重し、神の力を宿したそれを加工して重要な儀式などに用いる。
宗派にもよるが、最も多いのは水を湛える杯の形に加工することだ。
これを『
人の手によって作られたものだが、素材自体は神の一部であるため、扱いとしては
いわば最もランクの低い、量産型の
まあそれでも希少極まりないことに違いはないのだけれど。
この
『
焦具とは呪文と唱える際に必要な物質のことだ。
触媒と何が違うのかと言うと、簡単に言えば消耗・消費するのが触媒で、そうでないものが焦具である、という解釈でだいたい通用する。
魔導師が呪文を唱える際に手に持っている杖や、聖職者が祈りを捧げる際に握り込む聖印などがこの焦具に当たる、というとわかりやすいだろうか。
さて〈
ただ魔導術は自分達で式を構築できるが神聖魔術はそうはゆかぬ。
神聖魔術の呪文は全て神が造り給うたものだからだ。
聖職者達はあくまでその神の恩寵を受けているに過ぎないのだから。
つまり魔導術のように複数の術師で詠唱を分割したりだとか圧縮したりだとかといったことは神聖魔術にはできず、結果一人で膨大な詠唱を行わなければならないのである。
神聖魔術の詠唱は実際には膨大な呪文の一部を索引として用いているものだとは以前述べたけれど、元の呪文があまりに膨大すぎると索引部分も自然伸びてゆく。
そしてそれらの呪文を唱える助けになるが……先述の『
『
これは並の聖職者が行っても一回でせいぜい水滴一滴分程度しか溜まらない。
イエタですら片手ですくったささやかな雫程度にしか注ぐことができないのである。
聖杯を満たすには膨大な手間と日数が必要なのだ。
そして聖杯になみなみと魔力の雫が溜まった時……
ひたすらに手間がかかるのもそうだが、詠唱の際に
なにせ量産品とはいえ
そうそうお目にかかれる代物ではないのだ。
……と、先ほどの魔族は考えたようだが、実は
彼らの信仰する女神リィウーは、六対十二枚の羽根を持つミエの知る天使のような姿をした空の化身だ。
その容貌は絶世の美女のようだとも、美しい鳥のようだとも言われている。
そして百年に一度ほど、彼女は換羽期を迎え、その羽は一斉に生え変わる。
リィウーは、その己の羽を聖遺物として信仰心の厚い信者に下賜するのだ。
間が空くとは言え定期的に与えられることもあり、他の神々のそれに比べ、聖杯がやや小ぶりでその力も劣るかわりに数が多く、所有している教会も多いのである。
この羽は敬虔な信徒の元に神から下賜される。
ある日家の前に、或いは家の中に忽然と現れるのだ。
神の力を宿した羽など売り払えば法外な値段になるのは間違いない。
けれど
喩え食うや食わずの貧しい者であろうと例外なくそうするという。
恐るべき信仰心である。
だが届けられた教会の方もそうした敬虔な信徒に何も返さぬわけではない。
神が自らの羽を授けた家には単なる信仰心以上の崇高な意思があると彼らは考えているからだ。
ゆえに女神の羽を届け出た信徒とその家族については教会がみっちり調査する。
厚い信仰心を持っていながら貧しい暮らしをしていることを女神様が不憫に思われてはいまいか、彼らのもたらした情報が何か大きな啓示になりはしないか…などだ。
そしてもう一つ、この調査には大きな意味がある。
信徒の中から稀有な才能を持つ者を見出す、という役目があるのだ。
女神の羽を下賜された家は例外なく信仰心が厚い者たちばかりだ。
両親の信仰心が厚ければ子供の信仰心が厚くなる傾向が高い。
親にそうした薫陶を受けているのだから当然だろう。
そしてそうした子供たちの中から、稀に一際高い信仰心を備え、強力な奇跡を行使し得る素養を持った者が現れる事がある。
教会はそうした子を預かって、聖職者として教育するのだ。
まあ言い方は悪いが天才の青田刈りのようなものである。
イエタもそうして見出された娘の一人だ。
道を歩いていたら空から光る羽が降ってきてそっと差し出した両手の内に収まった、と教会に届け出たイエタは、調査の結果とんでもない素養があることが確認された。
そしてそのまま教会で修業を積むようになったのだ。
彼女が届けた羽は丁寧に加工され、聖杯へと姿を変えた。
そして彼女がクラスク市へと派遣される際、彼女の元に返されたのだ。
いわばイエタの聖職者としての原点のような
とはいえこれまでこの聖杯は聖水を造ったりする程度でしか使われてこなかった。
そもそも当時のイエタでは実力が未だ及ばず、
それが赤竜討伐などを経て聖職者として高い力を得たことで、初めて聖杯本来の用途を振るえるようになったわけである。
ただ……その代償は決して安いものではなかった。
イエタは見習い達を避難させ、その身を震わせながら祭壇の前で祈りを捧げている。
聖杯の中に湛えられた水は全て消え去った。
〈
問題は……聖杯に湛えられた水が、満たされてはいなかったことだ。
本来であれば祈りにより魔力を注ぎ込み、聖杯の縁いっぱいまでなみなみと魔力の水が湛えられることで初めて
だがイエタが今回〈
街に起こった様々な不穏。
危険を知らせる兆候の数々。
イエタはいずれ起こるであろうこの街の未曽有の危難を予期し、聖杯に魔力を充填していた。
だが……魔族どもの攻勢は彼女が想像した以上に早かった。
聖杯が満たされる前に今日という日を迎えてしまったのである、
…にもかかわらず、イエタはその呪文を唱えた。
だがこの呪文の詠唱に必須なのはあくまで焦具としての聖杯である。
注がれた魔力は単に必要なだけ必須ではない。
では注がれた魔力が足りなかったならどうなるか。
この呪文はまず詠唱者の魔力を根こそぎ奪う。
それでもなお足りぬのであれば……詠唱者の命を奪って魔力に充てる。
とはいえ術者を殺すわけではない。
詠唱者の寿命……余命を魔力に替えるのだ。
これが今イエタが苦しんでいる理由。
その身を弱弱しく震わせている所以である。
だが今しかない。
魔族の襲撃があった今しか唱えるタイミングはない。
ゆえにイエタは迷わずそれを用いた。
己の命を賭して秘跡を解き放ったのだ。
だがこれで終わりではない。
そして目標が対象不適切となれば、その呪文は
この呪文の目標がイエタなのか、それともこの教会なのか、或いは彼女の前にある聖杯なのか……それは魔族どもにはわからぬかもしれない。
だが少なくともそのすべてを殺害或いは破壊すればこの呪文は効果を失うと考えるはずだ。
彼女の元に……戦場が近づきつつあった。
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