第672話 シャミルの絵図
アルザス王国西部…
それはこの地方を長らく席巻してきた赤竜ヴェクスク・イクヲクスの縄張り…獲物を狩るための『狩り庭』であった。
魔族を追い散らし瘴気を払うためこの地に
ただこれまでそれは大きな問題になってこなかった。
いや大きな問題ではあったのだが後回しにされてきた。
それはなぜか。
王国の北部にある防衛都市ドルムは常に
まあドルムが耕地を無闇に広げられないのには他にも防衛上の理由があるのだが、それは今回の件とは関係ないのでいったん置いておく。
では南西部の方から手を伸ばせばいいのかというとそれも上手くゆかぬ。
なにせこれまで王国の南西部にはオーク族の縄張りがあった。
それも五大部族と呼ばれる狂暴で強大な武力を誇るオーク族と、その他幾つもの小部族が時に争い、時に手を組みながら開拓民たちを追い散らし、殺戮し、或いは略奪し尽くしてきたのだ。
では王都からそのまま西進して直接開拓に向かおう…というのもこれまた難しい。
王国の中央部にはエルフ達の住まう
つまりどの方向からも国の西部にある
さらに言えば王国国土の大半が平坦でなだらかな土地だったのに対し
また占術などで対策を練っている王宮の者達ならばいざ知らず、いつ赤竜の休眠が明けるかわからぬ庶民たちにとってはかの竜の縄張りというのはそれだけで躊躇諦観するのに十分な理由であり、結果そのあたり一帯は長い間、ずっと手つかずで放置されてきたのである。
皆いつか片づけなければなぬ問題だと認識はしていたのだけれど、わざわざ面倒と労苦を背負って命がけで不毛の土地の開拓に向かうより、手近な平地を耕して瘴気を晴らす方が遥かに手っ取り早くて実入りも大きかったし、優先すべき耕作地と晴らすべき瘴気が多すぎてこれまで王国西部の階枠は先送り先送りにされてきたのである。
だが…クラスクのしでかしたことによって、事態が大きく変わった。
竜の縄張りは討伐者の所有になる。
かつて国土の拡張を求めて竜の討伐を目論んだ国も存在したほどだ。
まあそういうケースの場合大概広い縄張りを有する強大な竜を相手取ることが多いため殆どの挑戦は失敗に終わり、むしろ財力や軍事力を漸減させ国の滅びを招き寄せる事すら珍しくなかったのだが。
ともかく赤竜の縄張りは一時的にとはいえクラスクの所有することとなった。
その土地を返還を求めるならそれを要求せんとする国が、街が、近年までそこに生活していたと主張し訴える必要がある。
だが…赤竜の縄張りにはこの千年近く人の棲み暮らした跡がない。
つまり先住民に対する消滅時効が完全に成立してしまっているのだ。
その後魔族どもを追い出してアルザス王国が建国された折、その地の権利はアルザス王国に移った。
赤竜からすれば
そして魔族どもとの『闇の
そう、消滅時効が成立する時期なのである。
本来であればそれは大した問題にならないはずだった。
単に優先順位が低く開拓が遅れているだけで、いずれはアルザス王国主導で耕地として開拓する予定だったからだ。
だがそこにクラスクによる赤竜退治が入ってくると話が変わる。
アルザス王国は『狩り庭』の権利こそ有しているもののそこに入植の実績がない。
つまり解釈によっては放棄していると見做すことが可能なのだ。
だってもし活用する気があるのなら五十年も放っておくはずがないではないか。
そう国際会議で主張されれば通る可能性がないでもないのである。
そして仮にアルザス王国がその地を放棄したと判断されたなら、国際法に
そこに竜の縄張りの権利を得たクラスクが現れたのだ。
もしクラスクがその地を耕作し耕地として開拓してしまえば、権利の上でも実質的にもそこは堂々たるクラスクの『領地』となる。
これまでのようにアルザス王国の土地を勝手に間借りした、ではなく、堂々と自領として領有することができるようになるのだ。
実はクラスク市の方はそうではない。
クラスク市の建っている一帯は元はバクザン家という今は亡き貴族の領地であり、その領主が未だ瘴気の色濃く残っていた自領にて闇に飲まれた狂暴な巨人どもを討伐していたのがおよそ四十年ほど前。
結局バクザン家はその後巨人族との最終決戦に於いて互いに共倒れとなって壊滅してしまったけれど、この地にはその生活の『跡』がある。
クラスク市の前身たるクラスク村の元となった廃墟などがそれだ。
つまりクラスク市の一帯はアルザス王国に正当性を主張されると些か困った事態になるのである。
このエルフとの会談はまだ竜宝外交が成立していなかった当時の話であり、国際会議に議題として提出されるのはクラスク市としても困る時期であった。
だが完全な自領を得られるというなら話はまるで違って来る。
それこそ首都をそちらに移したっていいのだから。
そして無事『狩り庭』を耕地に変える事ができたのなら…
その土地と地続きのクラスク市までの広大な耕地は、連綿と連なっているのだから実質的にクラスク市の領土に他ならぬ、と主張する事ができる。
アルザス王国が耕作を放棄した土地をオーク達が引き継いで開拓したのだと言い張る事ができるのだ。
もちろんそれは言い訳に過ぎず、クラスク市が勝手にアルザス王国の領土を侵したことには変わりない。
だが少なくとも一端とはいえ正当性を得る事で、裁判の結論を長引かせることができる。
その間にクラスク市の周辺の開拓をしっかり進め、アルザス王国との抗争を長引かせれば…
やがて、十年ののちクラスク市の周囲にも消滅時効が成立する。
そうすればクラスク市はアルザス王国の国土から正々堂々と離脱し、自らの領地を保有した『国家』になれる。
それがシャミルの思い描いている絵図である。
複数の国際法に精通していなければたどり着けぬ、強引ながらも実に強力な一手と言えるだろう。
「なるほどー…つまりエルフの皆さんはどうしてもあそこに自分達の故郷を取り戻したいと」
「そうだ」
「でシャミルさん的にはうちの街の事情的にどうしてもあの土地を譲る気はないと」
「そういうことじゃな」
お互い決して譲れぬ一線。
当然ながらその主張は平行線をたどる。
そんな両者の紛糾する議論を眺めていたミエは、ふと横を見たとき夫であるクラスクと目が合った。
「やっテ見ロ」
「ふぇ!?」
唐突なクラスクの言葉にミエが目をぱちくりとさせる。
「多分同じこト考えテル」
「……はいっ!」
クラスクの言葉にミエは嬉しそうに破顔した。
夫と相通じるものがあったことが嬉しかったのだ。
「シャミルさんシャミルさん、そういうことでしたら私にも考えが」
「ほほう、言うてみい」
「このクラスク市が総力を挙げて! エルフ族の皆さんの村づくりに協力する! というのは! いかがでしょうか!」
「なぜそうなる」
「なぜそうなる」
期せずして互いに主張の対立するノームとエルフ、その両者の声が重なった。
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