第632話 中クラスク南卸売市場
「まったく…騎士団にいた頃からなっとらんと思っていたが…」
「へへーんだ。そんなこと言ってられるのも今の内だっての」
「なにい?」
ガーバント皮肉にレオナルが言い返す。
「お前この街に残るんだろ? じゃあ遠からずミエ様に骨抜きだ」
余人に聞こえぬよう、かつての同僚に脅しまがいのことを囁くレオナル。
「馬鹿な…! そのようなことあるわけが…!」
「どうかなさったんですか?」
激しい口調で言い返そうとしたガーバントの前にミエがすっとやってきて、小首を傾げて問いかける。
下から覗き込むように、上目遣いで。
「う……!」
ミエの視線に思わず赤面したじろぐガーバント。
前髪を避けるように手でかき上げるミエ。
上からのぞき見える彼女の襟元、そのうなじの色香に彼は思わず息を飲んだ。
ミエは決して美女ではない。
いやクラスクに言わせたら世界一美しい!キレイ!カワイイ!と連呼するだろうし、実際奇麗な部類ではあるけれど、サフィナやエィレのような誰もが羨む美少女というわけではない。
ただ彼女は経産婦である。
オーク族のまじないによって出産前と同じ体型を保ってこそいるものの、男性経験もあれば男の悦ばせ方も知っている。
それも種族柄、
それゆえ彼女の
匂わんばかりの色香がある。
まあ当人は己のそういった部分にまったく無頓着なのだけれど。
なにせミエ的には己の身体で悦んで欲しい相手は世界でただ一人だけだし、その世界でただ一人の相手はミエが何をしても悦んでくれるのだから、彼女が己のそうした部分に気づかぬのも当然と言えよう。
まあだからといって彼女の夜の献身が些かも揺らぐことはないのだけれど。
そんな女性に間近に迫られて、騎士ガーバントは思わず一歩後ずさる。
「調子でも悪いんですか?」
「あ、いや…」
ミエはなぜ彼が後ずさったのか理解できず、一歩踏み込んでさらに顔を近づけた。
「うん?」という鼻にかかった声がガーバントの脳を焼く。
彼に騎士の矜持がなかったら目の前の女性の肩を掴んで抱きしめていたやもしれぬ。
実際ミエのこの距離感に勘違いしそうになる男は少なくない。
殊にオーク族にはクリティカルで強力だ。
これまで彼女が無事でいられたのはひとえに太守クラスクの第一夫人である、という肩書によるところが大きい。
この街は急速に発展しているし、食料も生活も教育も税金も(特に女性の場合は)他の街に比べてずっといい。
ただ…それでもここが太守クラスクの私物であることには違いないのである。
彼に逆らえばどんな目に合うか。
それも彼が最も大切にしている第一夫人に手を出したりしたらどんなことになるのか。
間違いなく地底の連中やあの赤竜よりひどい目に遭うこと疑いなしとだれもが思っているのだ。
ともあれ騎士ガーバントはミエの猛攻になんとか耐えた。
彼はこの街のそうした事情にこそ詳しくなかったけれど、それでも騎士の誇りと自制心とあとはまあ相手が太守夫人であり迂闊に手を出せば外交問題になりかねないと必死に己を自制した。
「ホントに大丈夫なんです?」
などと呟きながらミエの掌がそっと額に当てられ、彼女の吐息が耳元にかかった時は正直かなり危なかったけれど、視線を切り、距離を開け、ともかくなんとか耐えきった。
健闘を称え門番を務めていた元翡翠騎士団の同僚、ライネスとレオナルから拍手が送られる。
「と、ともかく、私は大丈夫ですので…っ!」
「? そうですか。なら行きましょうか」
何か納得いっていない風のミエだったが、それ以上追記有するのも何だと先導して歩きはじめる。
ほっと息をついたガーバントは、動揺のあまり横でエィレ姫がジト目で睨んでいる事には気づかなかった。
彼らを見送り、その背中が街灯の明かりの向こうに消えた後、衛兵にして元翡翠騎士団団員のライネスとレオナルは小さく息を吐く。
普段飄々としている二人ではあるが、彼らなりに緊張していたものらしい。
なにせ王国側からすれば彼らは国を裏切ってオーク族に降った裏切り者である。
かつての同僚と鉢合わせしたら最悪刃傷沙汰に発展したとしても不思議ではなかったのだ。
そして王国とクラスク市、両者の関係から実際にそうなっていた可能性も十分あったのである。
緊張するなという方がおかしいというものだろう。
「今回はミエ様に助けられたなー」
「まああの空気じゃ殺気立ってられないもんなー」
互いに肩をすくめ、苦笑する。
「しっかしミエ様あれで計算ずくじゃなくて無意識なんだもんなー」
「以前よりさらに色っぽくなりましたなー」
うえへへへ…と少々だらしない笑みを漏らした二人は、だがすぐにキリッと真顔になって互いに向き合った。
「マジでこわい」
「こわい」
そう、この街の住人はミエに色目を使ったら己の胴体がどうなるか重々承知しているのである。
× × ×
「随分と大きな建物ですね…」
街灯に照らされた大通りを南に向かって歩きながらエィレが呟く。
彼女の視線は街道の右側…すなわち西側の方を向いていた。
道の左右には様々な店が軒を連ね、その半分以上がまだ店を開けている。
その多くがテラスなどを持たぬ軽食の店だ。
食べ歩きできそうな肉串やクレープなどを売っている。
ただ彼女が見つめていたのはそれらの店舗の奥、街灯に照らされ不気味にそびえる大きな建造物である。
それは道沿いに並ぶ店が二十軒ほど余裕で収まりそうな幅で、奥行きもありそうだ。
明らかの他とは造りが違う。
ただなんというかエィレには少々違和感があった。
この街の建物は基本高層なのだ。
三階建て四階建てが当たり前で、狭い敷地をいかに活用しようかと工夫しているように見える。
だというのにその大きな建物は平屋か、せいぜい二階建てくらいである。
なぜこれほどの大きなスペースを占めながら縦に伸びていないのだろうか。
「じいや、あれが何かわかる?」
エィレはミエに尋ねようとも思ったけれど、後ろを歩いているじいやが何かに気づいている様子だったため彼に尋ねてみた。
「はい姫様。あちらは倉庫か市場かと」
「ああ…」
エィレは心の内でぽんと手を叩いた。
市場や倉庫であれば確かに高層階に荷物は置きづらい。
商品を出すにも仕舞うにも不便だし、重さによっては床が抜けかねないからだ。
「はい、御明察の通りあちらは市場です。卸売市場ですね」
「卸売市場! あれが?!」
「あら、卸売市場をご存じなんですね。博識でいらっしゃいます」
「あ、いえ…」
ミエはエィレが王族でありながら積極的に市井の事を学んでいるとエィレを評価する。
確かにエィレは卸売市場についてよく知っていた。
だがそれは家庭教師から学んだからではなく、城を抜け出して市場をぶらついていた経験があるためだ。
エィレはミエの褒めるような口調が恥ずかしく、頬を赤らめる。
もっとも街灯に照らし出されているとはいえ周囲は昼とは及びもつかぬ明るさであり、ミエがそれに気づくことはなかった。
「元は街の北にあったんですけど、ちょっと街が大きくなりすぎちゃいまして。今は東西南北の中街にそれぞれあります。扱ってるのは主に各店で扱う食料品ですね。今でも格式上は北市場が一番大きいので、街の外からやってきた希少なものなんかはそちらに行くことが多いですが」
「へえ…!」
ミエの説明を聞きながら再びその建物…市場を見上げる。
自分が向かっているのがこの先だというのなら、この市場は自分の寝泊まりするところからだいぶ近くなるはずだ。
今度朝に立ち寄ってみよう。
エィレはそんな決意を新たにする。
外交官としてこの街を知るために、
うん、そうだ! 外交官としてこの街を知るために!
そんな風に、己に言い訳をしつつ。
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