第五部 竜殺しの太守クラスク
第十章 大クラスク市
第534話 新たなる火種
ずしん、ずしんと音がする。
どこからかひどく重い何かが移動するような地響きが聞こえる。
そこは山あいの細い街道……いわゆる『山越え』の道だ。
そのまま曲がりくねった街道を登れば
ただ今この街道を利用する者は殆どいない。
アルザス王国が未だ魔族の支配地域だった頃、
ゆえに万年雪の残る、字の如き白銀たる壮麗な山嶺を超えて、彼らバクラダの勇猛果敢な兵士たち、そして騎士たちは幾度も幾度も魔族に戦いを挑み……
そして、悉く敗北し続けた。
そう、この街道は敗者の歴史によって血塗られている。
敗残兵どもが流した
このルートからはついに一度も魔族に勝利することなく、失意の内に計画が打ち切られた、バクラダ王国の屈辱の歴史そのものだ。
ゆえに山向こうのバクラダでこの街道の話題をすると一様に渋い顔をされる。
この後大激戦の末に
いずれにせよ魔族が闊歩していた頃に利用されていたその険しい道は、魔族が撤退した後オーク族の縄張りとなって、長い間彼らオーク族のみが使用し続けてきた。
その後その地を縄張りに納めていた
だが今度は、この街道を利用する価値がなくなってしまった。
なにせこのあたり一帯は今やすべて大オークたるクラスクの支配地域である。
つまりわざわざ険しい山道……それも雪山を超えて行き来しなくとも、それより遥かに安全に
ゆえに今この道を利用しているのはせいぜい地元の狩人や
そんな辺鄙な街道に……音が響く。
ずしん、ずしんと音が響く。
見たところ何もおかしいところはない。
人間族が人間族の為に整備した道でありながらいつもはオーク族しか利用しないその街道を、珍しくオークでない人間が歩いているだけのように見える。
その人間は山を下っている。
人通りが少ないがゆえ普段街道のど真ん中でくつろいでいる獣たちがその地響きに驚いて慌てて森の中に消えた程度で、何もおかしくはない。
その人間は無言で山を下りてゆく。
どこからか鳴る地響きは未だ収まらない。
…いや、違う。
どこからともなく、ではない。
その地響きは、明らかにその人間の足元から響いている。
それは…つまり。
その人間の、いや人間族に見えるその娘の足音、ということだ。
ならばそれは人間ではない。
人間族のはずがない。
だってそれは人間族が出せる足の音ではない。
だがどう見ても見た目は簡素で荒い布の衣服を纏った人間族の女性にしか見えぬ。
……となれば、違うのは『大きさ』だ。
彼女のサイズが、人間族よりはるかに大きいのだ。
巨人族である。
ずしん、ずしんと足音が響く。
人型の、だが木々の上からその頭部が見えるほどに大きな巨人族の娘が、ゆっくりと山を下ってゆく。
その街道のずっと先、山を降った遥か下……そこは今やオーク族が住み暮らすことで、残存していた瘴気が晴れ見る影もなく荒野が消え失せ一面の草原となっていた。
そしてその先には……街がある。
チェック柄の広大な畑に囲まれて、大きな大きな、二層の多角形の城壁に護られて、その内側に方形の城壁、そのさらに内側に居館を構えた、この地方唯一の大都市……
クラスク市が、そこにあった。
× × ×
「どいたどいたー! 収穫物のお通りだー!」
「さあ安いよ安いよ! うちのクレープはあっまいよー!」
「漬物! クラスク市名物のお漬物はいかがですかー?!」
止むことなき喧騒に包まれた喧しい街の一角。
そこに冒険者の酒場があった。
「いやーしかしいい収穫だったわ」
人間族の戦士ヒーラトフが首の後ろに手を回しながら椅子に大きく背もたれて椅子を後脚のみでゆらゆらと揺らしている。
卓上には麦酒がある。
この街の麦で作られたものだろう。
「ちょっとヒーラトフ、おぎょーぎ悪い!」
そう言いながら焼き肉を頬張っているのは
体格的にはだいぶ小柄だが、卓上の皿に盛られている料理は他の人間族の仲間たちに引けを取らぬ。
どうやらだいぶ健啖家のようだ。
まあ彼女ならずともそもそも
「いーじゃねーかちょっとくらいハメ外したってよー。冒険が無事に終わった打ち上げだぞー。なあアム!」
アムと呼ばれた中年の男…人間族の聖職者アムウォルウィズは、皿の上の茹でた野菜をそっと口元に運びながら静かに目線をヒーラトフに向ける。
「その椅子を痛めて脚を折った時にお主が弁償するのであれば何も言わん」
「ほらなー!?」
「嫌味言われてんの! わかれ!」
得意満面己の方に向き直るヒーラトフにライトルが全力でツッコミを入れた。
「ほらイルゥもなんか言ってやってよ。無口なんだからもー」
「……………………」
同席していながら先刻からまったく発言をしていない人間族の魔導師イルゥディウにライトルが話を振った。
居心地が悪いのかと彼女になりに気を使っているようだ。
冒険者としてはこの中で一番の新参ながら最年長、年齢は初老程度だがだいぶ老けているためすっかり老人と見紛うばかりのイルゥデイウは、言葉を選ぶようにして口を開いた。
「……この街も、この店も、居心地がいい。あまり心証を悪くしたくはない」
「だってさ!」
「ちぇー」
それ見た事か、とライトルが腰に手を当て鼻息を荒くして、ヒーラトフがやれやれと肩をすくめて行儀よく座り直した。
「ま、いい街だよな実際。このあたりは
「春の種蒔き前にこんなに美味しい焼き肉食べられる街も他にないしねー。ハムならともかく」
ヒーラトフの実感の籠った感想にライトルが同意を示しながらフォークに突き刺した肉を頬張った。
以前にも述べたが通常この世界に於いて家畜は冬を越せぬ。
寒さに弱いというわけではなくて、単に放牧している間に彼らが食べている森の草や木の実がなくなってしまい、餌のなくなる冬季に家畜を養うだけの飼料が用意できないからだ。
ゆえに秋になると大々的に祭りが催され、春に繁殖させるための種畜だけが残されて残りは屠殺され祭りの席で多くの肉が振舞われる。
その際保存用に塩漬け燻製にしてハムやソーセージなどが作られるのだ。
だがこの街は輪作をしている関係で冬場に採取した甜菜の絞り粕などを家畜の飼料として与えることで彼らの集団越冬に成功した。
ゆえに家畜が子を産み育ち切る前の春先のこの時期でも生肉が手に入り、ライトルも美味しい焼き肉にありつけている、というわけだ。
「教会も信者に応じて各所に完備されておるしな」
「……魔導学院ができたのは、ありがたい」
聖職者アムウォルウィズも魔導師イルゥディウも、口々にこの街を評価した。
確かにこの街は、ほんの短い間に彼らが驚嘆する程に急速に進化していたのだ。
「魔導学院っていやあ、その胸にぶら下げてんのがこの街の学院の生徒の証だっけか?」
ヒーラトフが指さしたのは魔導師イルゥディウの胸元である。
そこには……首から下げられた宝石のようなペンダントが光っていた。
クラスク市魔導学院学院長、竜殺しの英雄大魔導師ネカターエルにより手ずから渡された、この街の学院の栄えある一期生の証である。
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