第394話 逢瀬
その日、イエタは教会での青空教室を終えた後、二人ほどの娘に後を頼んで教会を出た。
彼女らは建設中の初等学校の教師役として選ばれた女性であり、またその内の一人は修道女希望である。
イエタは彼女らに授業のやり方や教会の仕事などを教えつつ、出かける際には留守番をしてもらっていた。
空を飛べる筋力がある以上決して非力というわけではないが、自重の関係であまり重いものが持てぬ
あらかじめ行き先は告げてあるから、もし危急の用があった際にはすぐに連絡をくれるはずだ。
ちなみに授業を終えて教会を飛び出た子供達には一応親に向けての手紙を持たせてある。
そろそろ街の北に初等学校ができるため、子供たちはそちらで教えることになると記したものだ。
無論学校については街の各地の看板による告示と、衛兵達による中町、下町の広場による告知によって周知されているけれど、念のため、そして礼儀としてイエタ自身が筆を執って伝えることとした。
なおこの街の住人限定とはいえ子供達向けの初等学校と義務教育、という概念が大々的に公布されたことで、街を通り過ぎる旅人や商人達は大いに驚くこととなったようだ。
結果予想通りというか、この街に大挙して移住希望者が殺到し列を為し、ミエとクラスクをさらに困らせることとなるのだけれど、それはもう少し後の話だ。
さて彼女の教会は中町の西門近く、街道の北側にあり、表通りに面していて教会を出れば前の前には多くの人通りがある。
初めてやってきた旅人達は、城門をくぐってすぐに出迎えるその大きな教会に目を丸くして、ここがオークが造った野蛮な街であるという固定概念を真っ先に打ち砕かれることだろう。
その教会の中から出てきたのが美しい
イエタは羽を閉じたまま街中を歩く。
街の上空を飛ぶ許可はクラスクから得ているおけれど、以前述べた通り単純に人々の暮らしを間近に眺めながら歩くのが好きなのだ。
道行く街の住人達から次々に声がかけられ、イエタもまたそれに丁寧に応える。
彼女を見つめる住人たちの瞳には、明らかに敬意と畏敬の念が込められていた。
イエタがこの街にやってきてまだ日は浅いが、彼女が行使する奇跡について街の住人達は既に幾度か目にしていた。
馬車にはねられた子供を手をかざしただけで癒し、人足が荷運びの最中に骨折してしまった時もその骨をたちまち接いだ。
その奇跡の御業に疑いはなく、さらには子供たちの教育までしてくれる。
そんな相手を尊敬しないはずがないのである。
イエタはオークの子を抱えた娘と会釈を交わし、こちらを見つめる子供に手を振りながら別れると再び道を歩き始める。
以前と大きく異なるのはオーク達の態度だ。
オーク達は彼女と嬉し気に挨拶を交わしはするが、それ以上に近寄って口説こうとはしなくなったのである。
基本的にこの中街はある大きな目的のために造られていた。
女性出生率が壊滅的に低いオーク族の種族維持繁栄のためだ。
これについては既に大々的に告知しており、他の街の者達にも周知となっている。
したがってクラスク市…特にこの城壁の内側たる中町には、女性の方が圧倒的に移住希望が通りやすいし、税金面でも優遇されている。
そのかわりこの中街に暮らす女性には、オーク達は自由に声をかけて求愛や求婚をすることができる。
ただし暴力や略奪によるものは禁止されているし、既に配偶者がいる相手を誘うのも禁じられている。
あくまで知性と社交能力を駆使し、己の甲斐性を示すことで女性と付き合い、そしてを娶れ、という事だ。
短い期間にこの街のオーク達が急速に社交的になったのはそうした切実な理由があったわけだ。
ただ…そんな中、数少ない例外とされたのが彼女、イエタである。
彼女は若い女性であり、中街の住人であり、そして独身である。
通例であれば彼女を口説くことは可能なはずで、実際イエタが街に来たての頃はそうしたオーク達が群がっていた。
…が、こと彼女に関してはそれでは済まない事情がある。
イエタはこの街唯一の聖職者である。
誰か個人の配偶者となるのは些か都合が悪い。
他にも看過できぬ問題がある。
この街にとって複音教会の聖職者を擁している、という状態を保つ事が重要な意味を持つためだ。
ミエが魔導学院をこの街に誘致したのは各国の宮廷魔導師をこの街の味方につけていらぬ戦端を開かぬようにするためだ。
そしてそれと同じ役割が聖職者たるイエタにも期待されている。
複音教会は各国の街に教会を建て、奉仕活動などを経て庶民から圧倒的信頼を勝ち得ている。
特に彼らに頼る事の多い人間族の国の場合、宮廷に参加する大司教などは複音教会の者が多いのだ。
となれば当然同じ宗派の教会が建っている街、というだけでその街を攻める事を躊躇う抑止力となり得るわけだ。
そんな彼女ゆえ、例外措置としてオーク達がイエタを口説くことは禁じられた。
とは言っても街として何か布告されたわけではない。
ただクラスクがオーク達を集めてひとこと言い含めた…それだけで、その日以降彼女への猛烈なアタックはぴたりと止んだのだ。
イエタは大通りと東に進みながら裏通りへと入り、街を散策する。
裏通りには
ほんの一年ほど前は平屋の木造建築ばかりだったことを考えると驚異的な進歩と言える。
蔓草が張ってあったり、花を育てていたりと、家ごとの
後ろ手に、やや前に身を傾けながら、イエタは軽やかに街を散歩する。
「ア、イエタノアネゴダ」
「オ疲レ様デス!」
魔導学院の横を過ぎ、建設中のオーク達から一斉に挨拶を受けた。
気のせいか以前よりだいぶ畏まったような印象を受ける。
それがなぜなのかはよくわからなかったけれど。
「ああイエタ様! お疲れ様です」
「まあ、もう完成ですか?」
「まあ大体は」
イエタが到着した先は開設が近い初等学校である。
もはや外観はすっかり出来上がっていて、今にも授業がはじめられそうだ。
現場で受け答えしたのはネティムという人間族の石工であり、この街の
「後は内装ですね。あと二日もあれば終わるかと。期日までには間に合うでしょう」
「まあ、それは頼もしいです」
両手を合わせて感謝の祈りを捧げるイエタ。
そして二、三の確認をしてから踵を返して南へと向かう。
城門をくぐり中町へと戻ったイエタは、教会ではなく逆方向へと歩を向けた。
建設中の魔導学院の横を抜け、辿り着いた先はこの街の居館である。
門の前で衛兵が深く頭を下げ、特に詰問されることもなく中に通される。
イエタはそのままいそいそと階段を登り、目立たぬ場所に備え付けられた扉を開いた。
そこには小さな街が広がっていた。
部屋中に広がるほど大きな、けれど小さな街だ。
そしてその隅に座り、自ら作り上げたミニチュアをそうっとその街に配置している者こそ…この街の市長、大オーククラスクその人である。
「まタ来タのか」
「はい。また来てしまいました」
言葉短く、だが拒絶はしない。
そんな彼の態度に甘え、壁際の出窓に腰掛け背を丸めたオークを見つめるイエタ。
クラスクが市長職をこなす合間に没頭しているこの趣味を…
最近、イエタはよく見学するようになっていた。
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