第360話 教育問題
「託児所…?--」
「教育問題…?」
「……………」
ゲルダが明らかに眉をひそめ、エモニモも不思議そうな顔をした。
ギスだけが無言でミエを見つめながら彼女の言葉の続きを待っている。
「託児所なら元々あるじゃんか」
「あの規模じゃ絶っっっっっっっ対足りません!」
「マジで?」
ゲルダの反応を一刀に切って捨てるミエ。
「今のこの街は急速に発展しつつある状態です。特に城壁の外の下町に関しては今後も急速に拡大していく危惧があります」
「危惧というよりはまあそうなるでしょうね。この街はそれだけの事をしてのけてしまったもの」
ギスの指摘は正しい。
この街はオークが治めているという圧倒的不利な風評がありながら、この街との交易に於いて山賊や怪物、さらにはオークと言った危険な襲撃要素が殆ど起こらないという圧倒的安全性と、さらには蜂蜜、肉類、砂糖、塩、甘味、化粧品などの今後高い需要が見込めそうな必需品や嗜好品を多数産出しているという生産性、さらには重要な街道の交差点の上に街があるという利便性を備えている。
多少なりとも商売の経験がある者ならこう確信するはずだ。
『この街は美味しい』と。
「…はい。ただ戸籍を作ってるときに気づいたんですけど、下町に住みついてる人って独身の方が多いんですよね」
「まあ、それもそうでしょうね」
仮にこの街に商売の芽があるにしても、オークが支配している街である。
実際に住んでみて話してみればこの街のオーク達はかなり理性的で話のわかる連中だとすぐに理解できるけれど、逆に言えばそれは実際に住んで見なければなかなかわからない。
迂闊に妻や娘などを連れていったら最悪オークに略奪されてしまうのではないか…という警戒心から、家族を持つ者達の多くが二の足を踏んだのだ。
ゆえにこの街に集まったのは多くが独身で、裸一貫でも成り上がってやろうというような連中が多かった。
「街の発展は今後も続くでしょうけど、今は最初に住みついた人たちの生活が安定に入る時期です。となると次に彼らが求めるのは何だと思います?」
「んー? 金を稼ぐこと?」
ゲルダの言葉をミエは首を振って否定する。
「家庭を持つことです。この街の女性に声をかけるか、或いはオークが怖くてそれができないなら他の街に行って親族を頼って女性の嫁ぎ先として自分を紹介してもらうか、いずれにせよ早い内に家族を持つようになると思います。イエタさんの教会ができたことも後押しになるかと」
「なるほど…複音教会の存在は確かに安全の保障にはなりますよね」
「ですですエモニモさん」
「そうねえ、私はあまり下町には行きたくないし」
オーク族のまじないを学び、産婆として希少で有用な秘術を学んだギスは、こと出産に於いてのみならば聖職者にも負けぬ…いやそれより優位と言ってもいい立場にある。
ただし彼女はハーフの
ハーフとは言ってもほとんどの者は
森村の頃からオーク達と暮らしている娘や、このクラスク市の設立当初から村の一員となった元棄民達であれば彼女の事情を知っているし差別などもしないけれど、そうした反応をそれ以降に増えた者達に期待するのは些か性善説に寄り過ぎているとギスは考えている。
ゆえに彼女は、その特異で優れた技能を、もっぱら森村の方で発揮していた。
ミエとしてはもっと多くの人にその恩恵にあずかって欲しいものだと思っているのだが、なにせ人種差別に関わる問題である。
当人が嫌がっていることも無理強いもできなかった。
「家庭を持つってことは…あれか」
「コドモイッパイウマレル」
「言われなくてもわかってるっつーの!!」
ゲルダの言葉をラオクィクが受けて、ゲルダが真っ赤になって突っ込み返す。
なにせ彼女自身がまうなろうという状態なのである。
いやでも実感しようというものだ。
「そうです。それもこの時期にまとめて生まれます。いわゆる
「
「
「はい! 特定の状況下において赤ちゃんが同時期に集中的に生まれる現象です。うちの街も今まさにそれ。とてもじゃないですが今の託児所じゃ圧倒的に足りません。特にうちの場合女性の職人さんが多いですから子育てに完全にかかりきりになると色々と困るんですよね…なのでもっと拡充しないとなのです!」
「それは確かに助かりますが…では教育問題というのもその流れですか?」
「はいです。エモニモさん。たくさん赤ちゃんが生まれると言う事はたくさんの子供になるということ…つまりその子供たちを見るための教育施設をですね…」
「本当に必要なんですか?」
「…はい?」
エモニモの厳しい…というわけでもない、素朴な疑問にミエは思わず硬直してしまう。
「だよなあ。教会ができたんだから読み書きとか計算ならあそこで教わりゃあいいし」
「はい。より高度なことを学びたいなら家庭教師を招けばいいだけなのでは?」
「あー…そうなっちゃいますかー…」
ゲルダとエモニモの言っていることも間違ってはいない。
この世界の場合、子供に読み書きを覚えさせたいなら教会に連れていけばいい。
無論それは彼らの布教もセットではあるのだけれど、庶民の教育にまで時間や金をかけられぬ貴族がそれを放置黙認している格好だ。
またミエの故国にはかつて寺子屋なるものがあり、庶民の間の識字率が他国に比べて非常高かった時期があった。
ただしそれは全体水準の話であって、決して教育レベルにおいて最も優れていた事を意味しない。
エモニモが指摘するように、ミエの世界でも海外においては全体学習よりも家庭教師などを招いての個々の家での学問習熟が多かったためだ。
ただミエの場合彼女達ともっと根本的なところで認識の違いがあった。
彼女にとって初等教育は義務であり、同時に誰しもが持ち得る権利でもあったのだ。
学びたいものだけが学べばいいというゲルダやエモニモの、この時代の教育事情とはそこに大きな隔絶があった。
「えーっとですねえ…」
なんと説明していいものか悩み、言葉を選ぶようにしてミエが説明する。
「この街を作った大元の理由はご存知ですよね?」
「そりゃまあ。女日照りオーク達に女をあてがってやろうって話だろ?」
「言い方! でもまあおおむねそうです」
「合ッテル」
「合ってますけどもー! ほらラオクィクさん表現の仕方っていうものがですね…」
オーク族の女性出生率の低さを踏まえ、彼らの種族を維持繁栄させるためには他種族の女性を招く必要がある。
だがそれを彼らオーク族の流儀…即ち略奪や強奪抜きに成立させるためには、文化的な村を作り女性を平和裏に招くしかない。
クラスクとミエがこの街…その前身である村を作った本来の目的である。
「で…その、こういう言い方するとオークさんに失礼かもしれいないですけど、こっちの予想以上に多く来てくれたって言うか…」
「俺モビックリシタ。攫ワナクテモ女クル。クラスク市長スゴイ」
ラオクィクが当時抱いた素直な感想を述べる。
「確かになー。アタシも驚いたぜ」
「でもあれでしょ? その来てくれた女性達って…」
「はい、ギスさん。全員職人さんです」
そう、確かに当時ミエやクラスクの予想を遥かに超えてこの村に女性達が多く集まった。
ただそれは決してオーク達に嫁ぎに来たわけではない。
彼女たちは…仕事を求めてやってきたのだ。
オーク達だけで暮らすなら狩りと襲撃だけで十分生存できる。
だが村を、いずれは街を作ろうというのであればそこには圧倒的に足りない者がある。
…職能である。
鍋や釘を造り、鋤や鍬などの農具を造り。武器や鎧を造り、或いは金銀細工、皮なめし、服飾づくり、帽子づくり、そしてそれらの修繕など、街を維持発展させてゆくには様々な技術が必要不可欠である。
村を作るにあたって、それらの職能を持つ者は女性の次に大事な要素であった。
ゆえに村側としても職能を持つ者は優遇して受け入れざるを得ない。
そうした優遇措置の結果…クラスク村には女性と職人それぞれがやって来た。
そしてこの世界の、この時代の特性によって、少なくない数の『女性の職人』が…まるでこの村に吸い寄せられるように集まってきたのである。
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