第359話 女の幸せ
「あ、こら! クルケヴ!」
「マー、マー!」
よたよたとたどたどしい歩みで、だがびっくりするほどの速さで、ミエの息子クルケヴが家の中を歩いている。
そしてそのまま壁に突進しどんつくとぶつかって尻餅をついて大声で泣き喚いた。
「もー! こうなるってわかって…わかってないかー。おーよしよし痛いの痛いのー飛んでけー!」
彼女の故郷で行われていたまじないをかけながら息子をあやすミエ。
長男の泣き声に触発されたのか同時に泣き始めるミックとピリックの二人娘。
ミエはクルケヴを抱えながら二人の元へと飛んで行き丁寧に丁寧にあやす。
クルケヴの重さがずっしりと腕にのしかかる。
体重は既に十数キロはあるだろうか。
人間族の同じ年代…一歳児の子供に比べるとだいぶ重く、また肉体的な発達も早いようだ。
実際見た目が人間族とまるで変わらぬ娘二人は未だ掴まり立ちができる程度で、歩けてもせいぜい二、三歩である。
その事を考えてもクルケヴの成長速度は相当早いと言っていいだろう。
「オーク族の男の子ってみんなこうなのかなー。それとも旦那様の子供だからかしら」
泣いているクルケヴをあやすが、なかなかに泣き止まぬ。
オーク族の子供だからなのか、普段痛みで泣き出した時はもっと早くに泣き止んでいたはずだ。
「あ…さてはおなか減ってるなー?」
泣き声の質が変わった事に気づき、ミエは台所へと向かう。
クルケヴがよたよたと付いてきて足元にしがみついてくるが好きにさせる。
まあクルケヴからすればおっぱいが欲しいのだろうが。
「ちょっと待っててねー、今離乳食作っちゃうからー」
慣れた手つきでパスタを短く切って茹で始める。
そろそろ乳離れをさせなければならぬ時期だ。
もちろん子供達は最初嫌がるだろうけれど、徐々に馴らしてゆかなければ。
「旦那様がいるとクルケヴと喧嘩になっちゃうからなー」
先日クラスクと夕食を取りながら離乳食の話題をした時、クルケヴがミエの膝をよじ登って自ら乳を飲もうとした。
その時クラスクはおもむろに立ち上がり、クルケヴの襟首を掴んで持ち上げると
「この乳は俺のダ」
と息子に言い放ったのだ。
当然乳を飲めると思っていたクルケヴは大声で泣き暴れ出し、一時食卓はえらい騒ぎになったのである。
「もー、旦那さまったら大人げないんだからー…」
なぞと呟きつつも頬に右手を当て赤く染める。
満更でもないらしい。
彼女は既に母ではあるが、未だに妻として夫に求められている事が嬉しくてたまらないのである。
ほう、と小さく、だが熱いため息をつく。
幸福の溜息だ。
ミエはかつての人生で大人になるまで生きられぬと言われていた。
だから女性としての人生の喜びを総て諦めていた。
すなわち恋愛、結婚、出産、そして育児である。
だが異世界にやってきて、彼女はその全てを経験する事ができた。
それは思っていた以上に大変で、想像以上に多忙だったけれど、それでもそのせわしなさにすら幸福を感じてしまうのだ。
まあこの世界に来てからの彼女の道程をせわしないの一言で片づけてしまうには、いささか激動過ぎる気がしないでもないけれど。
「ええっとそろそろマルトさんが来てくれるから…ゲルダさんとエモニモさんのお見舞いに行かなくちゃ…」
そして包丁を使いながら、そんなことを呟いた。
× × ×
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
「わひゃう!?」
ラオクィク家に向かう途中、森村中に響き渡るような絶叫が響いた。
蜂蜜製品を作っている村娘達がびっくりして目を剥き、ある者は転んである者は隣にいる相手にしがみついた。
なんというか鬼気迫るというか、妙に迫力のある叫びだったのだ。
「ええっと…今の声って…」
ミエには聞き覚えのある…というかいつもよく聞いている声である。
それは今から向かおうとしている家の当主、ラオクィクの叫びであった。
「何かあったんですか?!」
急ぎ玄関の扉を開け中に飛び込むと、両腕を掲げて大声で叫ぶラオクィクと、ベッドの上で妙にしおらしい様子で安静にしているゲルダとエモニモ、そして二人の前で脈を取っている…
「ギスさん!」
「あらミエ。お見舞い?」
ハーフの
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
未だに絶叫しているラオクィク。
そもそもの発端は最近ゲルダの体調が思わしくなく、店を休みがちになった事だった。
健康と頑丈が服を着て歩いているようなゲルダが体調不良を訴える事など非常に珍しく、普段口うるさいシャミルなども実に心配そうにしていた。
ただミエは最近城壁の外に下町が一気に広がったことで多忙に多忙を極め、後から後から湧いてくる議題・難題・要望・陳述を対処するのに手いっぱいでゲルダを見舞う暇がなかったのである。
それでゲルダの分もエモニモが家事や炊事などを頑張る事になったのだが…
今度は無理が祟ってエモニモの方まで倒れてしまったというわけだ。
当然これにはラオクィクも大慌て。
なにせオーク族得意の怪力もタフさも何の役にも立たない難題である。
医者だ聖職者だと大わらわで助けを呼ぶこととなった。
…が、以前ならともかく今のクラスク市にはイエタがいる。
彼女は
シャミルによれば聖職者には傷を治療したりする以外にも毒を中和したり病気を治したりといった治癒・治療系の魔術が使えるという。
ならばこの場にいるべきはイエタであるべきなのでは…?
「…あれ?」
そこまで考えたところで違和感に気づく。
まずギスの悲壮感のなさ。
次に病床のはずの二人。
大人しいのはいいとして、妙にしおらしくまた頬を染め俯いている。
そしてラオクィクの様子だ。
それは慟哭というよりは興奮の体に見える。
「ということは…もしかして」
「ええ。おめでたね」
「まあ…っ!」
ギスの落ち着いた声にミエは手を合わせ顔を輝かせ、その言葉を聞いてエモニモが真っ赤になって俯き、ゲルダがばつが悪そうに頭を掻きそっぽを向いた。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」
「いちいちうるせーよラオ! 近所迷惑だろうがっ!!」
まだ咆哮…実際には喜びの雄叫びだろうか…を上げているラオクィクにゲルダが叫び枕を投げる。
「いやそれにしてもこんなに体調悪くなるもんなんだな…ミエはよくこんなの耐えて仕事してたもんだぜ」
「私も…少し気持ち悪…」
「ま、まあつわりとかは個人差がありますから…」
実際ミエはお腹が十分張るまではかなり容体が安定しており、お陰でギリギリまで仕事できていた。
まあ逆に体調が悪くなった後は本当に一気に悪化して、だいぶ精神的につらかったけれど、今は産婆としてオーク族のまじないを修めたギスがいるし聖職者のイエタもいる。
オークの花嫁となった娘達には大きな福音となるだろう。
「ただ…こうやって子供が増えていくとどうしたって考えなきゃいけないことが出てきますねえ」
「あん? 考えなきゃいけないこと…?」
怪訝そうに首を捻るゲルダに、ミエが腰に腕を当てて大きく頷く。
「はい。託児所問題と教育問題です!」
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