第288話 河川争奪

「〈泥化イクォウ〉!」


ネッカの呪文詠唱と共に、崖上から崖下までの急斜面が縦に長くどろりと泥に変じ、重さに耐えきれず見る間に下へと垂れ流れてゆく。


これで崖路ができた。


「つづいてこっちもお願いします!」

「は、はいでふ!」


さらにミエが木の棒で地面に引いた線を目標に、ネッカが呪文を唱える。


理に従いて起動せよイカクィギル・ルバフゥ・バ・リープ 『変地式・壱イヴェグルクィリ』」


浮き出た秘紋が次々と解凍され、そしてへと変じてゆく。


「〈泥化イクォウ〉!」


呪文を唱え終わるのと同時に二人の横の地面がどろりとぬかるんで泥の海へと姿を変える。

そして術師の指定により底に傾斜を付けられたその泥土は、そのまま崖から押し出されるようにして遥か下の平地へと落下していった。


ごくりと唾を飲み込む二人。


泥が流れ出る途中から、既に動きはあった。

川辺の一部が泥と化し、そして泥が端から順に崖下に次々と垂れ落ちるに従って、川の水が泥を押し出すように新たに出来た流路へと流れ出て、やがて全ての泥が落ちるのと時を同じくして崖からその下の地面へと…先程作った滝路を通って流れ落ちてゆく。


遥か眼下で目をまん丸くしているオークども。

崖の上から流れて落ちたその水は…先程ネッカが作った滝路を通り、そのままオーク達の横を抜けると、今日までずっと伸ばし続けた採石場跡へと注ぎ込んだ。


「オイオイ…オイオイオイオイ……」


目を見開いたリーパグはすぐに思考を巡らせる。

今日までずっと、延々と、先に先にと延伸してきた採石場は、


ネッカのによって土がまとめて泥となる。

この時ネッカが指定した縦・横・深さに沿って土は綺麗に泥と化す。


それはつまり…その泥を石に変えて全てどかしてしまえば、その採石場跡はとてもなめらかで平らかになるということだ。


その平らかな採石場の『底』を利用し、丸太や荷車などを用いれば、でこぼこだらけな荒地で運ぶより遥かに楽に村まで石を運ぶことができる。


だが今やその採石場跡には石ではなくどんどんと水が流れ込んでゆくではないか。

つまりそれは川だ。

自分達が今日まで延々と作っていたのは単なる採石場の跡地ではなく、の予定地だったわけだ。


「エ? デモ大丈夫ナノカ? 村ニ届イタ後コレ溢レ……アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!?」


突然のリーパグの叫びに配下のオーク共がびっくりする。


「リーパグ兄貴?」

「ドウシタンスカ」

「ア、ア、ア……逆ニモ作ッテル!」

「?」

「??」

「ナニガデスカ兄貴」

「コッチノ道ガノビスギタッテ! 言ッテ! 俺達村の逆側ニモ採石場作ッテタ!」

「…ソッスネ」

「ソレガドウカシタッスカ兄貴」


そうだ。

そうだった。


採石場を先に先に継ぎ足せば、底が平らだから運搬は確かに楽になる。

だが村からどんどん離れてゆくからその分運搬に時間がかるようになる。

どうにかならないかと彼からミエに直訴して、村の逆側にも採石場を作ってもらったのだ。

まあ結局はそちらも先へ先へと伸び続け、確か結構離れた大きな川の近くまで伸ばし、これ以上は進めぬと中止になったはずだ。


だが…もしそれがだったとしたら?

初めからここに水を流しとしたら?



それなら…流れた水にはが必要だ。



自分達が作ったもう一つの採石場跡は…最初からそれが目的で作られたのではないか?

リーパグはオークにしては回る頭でそこに気づき、背筋をぞっとさせた。


「ふわ、ふわああああああああああああああ……!」

「ばう! ばうばう!」


流れ落ちた川の水が自分達が今日まで作って来た採石場の跡地に注ぎそこからゆっくり北東へと…即ち村へと向かってゆく様を眺めながら、ネッカが瞳を輝かせる。

その隣でコルキもまた尻尾を振りつつ楽しそうに飛び跳ねていた。


まあ彼の場合何が起きているのかはわよくわかっていなくて、単にミエやネッカが喜んでいるから嬉しがっているだけだろうけれど。


「これって…これって…?!」

「どうやら上手く行ったみたいですねえ…河川争奪」

河川争奪ルポル・ゲヴサロ……?」


聞いたことのない単語に、ネッカが目をぱちくりとさせる。


段差のある地域…例えば河岸段丘かがんだんきゅうなどで段丘面だんきゅうめん…即ち部分に川が流れている時、その横にある段差…すなわち段丘崖だんきゅうがいに湧水などの要因で河川が生まれたりすることがある。

湧水は徐々に崖を削り取り、崖を侵食しながら解析谷かいせきだにを形成しつつ、その湧水源…即ち谷頭こうとうを後退させ、つまりは崖の奥へ奥へと侵食させてゆく。

これが谷頭侵食こくとうしんしょくである。


さて、二つ以上の河川が流れている時、空から降った雨水がどちらの川に注ぐのかが分かれる境界線のことを分水界ぶんすいかいと呼ぶ。

分水界ぶんすいかいのうち、特に山の稜線りょうせんに限った呼び方が分水嶺ぶんすいれいであり、こちらなら聞いたことがあるという方も多いだろう。


ともあれ谷頭こくとうを後退させ、侵食を続けた崖下の河川は、いつしかその段丘面だんきゅうめんに流れている川…つまりは崖上の河川との間にある分水界ぶんすいかいを突破して決定的な侵食を為す。

これを谷の内側に分水界がある状態…すなわち谷中分水界こくちゅうぶんすいかいと呼ぶ。


簡単に言えば『一』と流れていた川に下から別の川が伸びてきて『丁』の字になってしまうわけだ。


そうなると一体どうなるか。

川の水が上流から下流に流れるのはである。

水は高きから低きに流れるものだからだ。


ならば崖上の本来の流路と崖下から伸びてきた新たな流路がかち合ったときどうなるか…それは火を見るよりも明らかであろう。


なぜなら新たに生まれたた崖下に伸びる流路の方が圧倒的に高度が『低い』からだ。


ゆえに上流から流れて来た川の水は新たな流路へと全て注ぎ込み、そちらの川の水量が一気に増して、そして本来の川の下流には水が流れなくなる。



こうして川の流れが他の川に奪われる現象のことを…『河川争奪かせんそうだつ』と呼ぶ。



ミエはそれを…ネッカの魔導術の助けを借りて人為的に作り出したわけだ。

泥化イクォウ〉の呪文で地面を泥に変え、オーク達と木こりのホロルの手を借りて〈泥を石にイヴェルク・エル・ファウ〉で石材に変えて運び出せば周囲の荒地より低い場所ができる。

それを連続した場所に作り、繋いで、そこに丘の上にある川から水を流し、即ち新しいとしたのである。


「流れてる…ちゃんと流れてます! やた! やりました! 大成功です!」

「ばう! ばうばう!」


両手を広げて嬉しそうにその場でくるくる回るミエ。

ミエが喜んでいるのが嬉しいらしく、その横で楽し気に跳ね回るコルキ。


「まあ本来の下流の水量は多少下がっちゃうかもですけど、最終的には幽尾ズフィッツ・セア川にそそいじゃう支流ですし、その幽尾ズフィッツ・セア川も地底に注がれて消えちゃう川だそうですから…えーっとその場合地底の人達が水量が減って多少困っちゃうかもしれないですけども」


そんな彼女を見ながら…ネッカはおずおずとその疑問を口にする。


「もしかして…全部最初から…?」

「はい! 元々この盆地が中央部…蛇舌ブレズィム・シムツァオ川方面になだらかに傾斜してるらしくって、それなら川にできるんじゃないかなって」

「川にして…水を通して…畑の用水と、村の飲料水と、あと船便もできそうでふね…? あ! あと最初に村の周りだけ幅を広めに石を採ったでふ! あれはもしかしてにするつもりでふか!?」

「はい! ネッカさん流石です!」


ミエが察しのいいネッカに瞳を輝かせ両手を合わせる。


「あとは…あれとかですね」

「あれ……?」


ミエが指し示したのは崖の下、自分達が登って来たあたりよりやや南寄りの場所だった。


「沼地…湿地帯、でふか?」

「はい! うちの村の耕作予定地だったんですけど、この川が流れてるせいで岩盤から水が漏れ出て湿地帯になっちゃってたんですよね。でも今を変えたので下流域の漏水は減るでしょうし、なので今後は干上がってちゃんと耕作に適した土地になってくれるかと」

「ああ…!」

「あとはまあ…植林ですかね」

「しょくりん」


それはネッカも一応聞いたことがあった。

確か村から離れた場所に幾つか樹々の苗を植え、森を造り、花を育ててそこに蜜蜂を放って蜂蜜を採取する、といった計画らしい。

まずもっての時点でネッカには理解しがたかったけれど、それはネッカに限らずこの世界の住人としては割と常識的な反応である。


「樹々を育てるには豊かな水源が必要です。最初は各地に井戸を掘ることも考えたんですけど、花ならともかく森に水をやり続けるのは大変ですよね。でも…それぞれの森に小川を引くことができたどうでしょう」

「………………!!」


ネッカは瞠目し、ミエを見つめた。


村の防衛のために急ぎ城壁を作る。

だがそのためには石材が足りない。

時間も足りない。

それをどうにかするだけでも相当な難事のはずだ。


けれど彼女が…の妻女が企図したのはその解決だけに留まらなかった。


足止めや移動補助のための魔導術を工夫によって採石の手段へと変え、城壁を造る糧とした。

その採石跡を川底と見立て、広大な盆地の上に新たに川を生み出した。

その川の水によって今後さらに広がるであろう広大な耕地の用水を確保した。

これからさらに発展し人口が増えるであろうことを見越して村の飲用水の確保にも成功した。

さらにその川の流れを村の周りに巡らせて、城の護りを助ける掘を作り上げた。

そのうえ川の流れを変えることで湿地帯を干上がらせ新たな耕作地として活用できるようにして、

村の周りを巡った川の水のその先でさえ、新たな森を造るための水源に変えようというのである。


今起こっている危難を鮮やかに解決しつつ、それがを見据えた一手。



「ミエ様は…一体何者なのでふか」



そのあまりに見事な手並みにネッカはただただ感嘆し、そう尋ねざる己を抑えることができなかった。


「何者って…」


きょとん、とした表情で…ミエが己の存在意義を告げた。






「旦那様の……クラスクさんの妻ですよ?」







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