第199話 逆転への道しるべ
逃げられない。
間に合わない。
この炎から逃れる術は、ない。
「きゃっ!?」
背後から迫る炎の渦に死を覚悟したキャスは…直後クラスクに強引に手を引かれ、強く抱き寄せられた。
真っ正面から彼の胸元に顔をうずめ、その立ち上る汗に鼻腔から脳を焼かれる。
猛烈に迫る炎の中…キャスは一瞬このままここで死んでもいいかな、などとやけに不似合いなことを思った。
クラスクの抱き締める力が強くなる。
キャスはわけのわからぬまま、けれど妙に落ち着いた気持ちで…彼の抱擁に身を委ねた。
炎が去る。
呪文が消える。
燃え盛る草原の中…クラスクとキャスは、未だ原型を保ったままそこに立っていた。
「ッ!?」
その結末は完全に予想外だったのだろう、
姿の見えぬその相手は、一瞬追撃の手を忘れてしまった。
「これは…一体…!?」
ちりちり、ちりちりとキャスの美しい後ろ髪が焦げている。
ミスリルの鎧越しに背中が焼けるように熱い。
だが無事だ。
生きている。
キャスは茫然と己の手を見つめた。
幽霊でもなければ亡霊でもない。
紛れもなく己の肉体である。
「今の奴、さっきワッフ達のトこデ爆発しタまじないト同じダッタ。なら炎ト炎の間に隙間アル。そこにいれば助かルト思っタ」
「な…っ!?」
その螺旋と螺旋の間には狭い狭い隙間があって、外に行けば行くほどその間隔は広くなってゆく。
ゆえに理屈上は呪文の範囲のなるべく外側で、その隙間に横向きに立って正確に棒立ちしていれば炎は己の真正面と背中をすり抜けるはずだ。
だがそれがわかっていたとて、果たしてできるものなのだろうか。
追い迫る炎を背に恐怖に取り憑かれずその場で立ち止まる事が。
あやまたず炎の隙間に身を置いて、身動き一つせずにやり過ごすことが。
そんな比類なき豪胆さと限りない緻密さを併せ持った対処法を、あの一瞬で、一体誰がしてのけるだなどと思うだろうか。
なにより驚嘆すべきは呪文の同一性の認識である。
確かにその呪文は一度唱えられていた。
本来であれば地上で解き放たれ、オークどころか彼らにとって味方であるはずのゴブリン達すら巻き込んで消し炭にしようとしたその長大な炎蛇の
けれどそれは自分達の遥か後方、他の戦場での出来事だ。
その魔術を一目見ただけて特徴と軌道を覚え、今回唱えられた呪文がその初動から同じものだと見切り、同じ軌跡を描くと予想して迷わずその推測に身を委ねた。
それは生粋の術師ですら簡単にできることではない。
戦士としての生死の境を見抜く直観か、或いは圧倒的に優れた洞察力か…
いずれにせよ魔術の素人が到達したとするなら驚嘆すべき所業と言っていい。
「クラスク殿!?」
ぐら、とクラスクが上体を僅かに傾け、だが自らの斧を杖代わりにしてなんとか耐える。
そのせいでキャスが慌てて支えようとした手は空を切り、だが背中に回した手指の感触に背筋が総毛立った。
その背は真っ黒に焦げ、焼けていた。
痛々しい程に、炎に焼かれ燃え爛れていたのだ。
「こ、これは…!」
「隙間が狭かっタからナ。なあに傷口が塞がっテ丁度よかっタ」
軽口を叩いてはいるがその傷は決して軽くはない。
キャスは己の口に手を当てて一瞬泣きそうになった。
彼は…クラスクはキャスを庇ったのだ。
炎と炎の間は狭く、二人が入る余裕はない。
あの炎に焼かれてはキャスは絶対無事にはすまない。
だがクラスク自身なら無事な可能性がある。
彼はそれに賭け、自らの背中を炎に曝したのである。
「気ィ抜くな。それはアイツを倒しテからダ」
この期に及んで戦意を一切失わぬクラスクに、キャスは涙をこらえて頷いた。
倒す。
殺す。
一刻も早く終わらせる。
二人は先程の呪文で炎の精霊が気分よく焼き尽くし燃え盛る草原を、左右に分かれ全力で疾走する。
その時…遥か遠くから、微かに、ミエの声が届いたような気が…した。
「ミエの声…聞こえタ!」
「このまま帰れば小言を喰らうなこれは…!」
ぐん、と一層の速度を上げて草原を駆ける二人。
次々に襲い来る炎の矢。
投擲される毒塗りの短刀。
それらが全て彼らが先瞬いた場所を貫いてゆく。
「ソコォッ!」
ぶうん、と投擲されたクラスクの手斧が弧を描き何もない虚空を襲った。
だが堅い何かにぶつかる音と共に手斧が宙空で弾ける。
そこに猛然と突進するクラスク。
横から回り込むキャス。
クラスクは上体を大きく逸らし真横に構えた戦斧で前方を全力で薙ぎ払う。
だが、いない。
確かについさっきまでいたはずの場所に相手はおらず、斧刃が空を切る。
「逃がさネエ…ッ!」
が、クラスクは何を思ったか斧を放った勢いそのままにくるりと回転し相手に焼け焦げた背中を見せた。
そしてそのままさらに半回転、勢いの付いたコマのように猛烈に回ると…
全身の筋肉を一瞬だけ弛緩させ、止めていた傷口から派手に血飛沫いた。
溢れ出る毒血が周囲に飛び散り、燃える枯れ草にかかって不快な音を立てつつ白煙と共に鎮火させる。
そして同時に…彼が斧を空ぶらせたほんの数十センチ先の何もない空間、その宙空に、血がべっとりと付着した。
「目に見えネエダけデ…そこにはイルんダロ?」
再び全身に力を込め、めきめき、めきめきと肥大化してゆく。
ミエの声が、彼に無窮の力をくれた。
彼女の声援さえあれば、喩えどんな傷だらけになっても全力で戦える気がするのだ。
ぬたり、浮かべたオーク族の凄絶な笑み。
その笑顔に姿なき刺客は背筋を凍らせた。
彼は勝利するために戦っている。
勝ち目があるから戦っているのだ。
だがそのオークは違う。
純粋に楽しんでいる。
勝ち負けとは別に、ただ純粋に戦い、争い、打ち倒すことを無上の喜びとして目の前に立ちはだかっている…!!
「
知らぬ言葉で、けれど肌で感じる死の宣告。
理解できぬ相手を前にして、その刺客は一瞬恐怖で身を竦ませた。
…この化け物の肉体は〈
だが奥の手の〈
斧に纏わりついた風を肌で感じた彼は…
今この時、この場を切り抜ける魔術がないことに思い至った。
大きな踏み込み。
全力で振り下ろされる大斧。
彼は目に見えぬ小剣らしき刃物でそれを受け止めようとして、砕け散る刃もろとも両断された。
だが、クラスクがその斧を振り下ろす直前…今や姿なき、とは呼べなくなった血まみれの刺客、その数m後方に目に見えぬ何かの気配が浮かび上がった。
それは今にも刺客を屠らんとするそのオークの首筋目がけて何かを構えて…
「その手はもう喰わんぞ…貴様らァ!!」
その真横から、猛然とキャスが襲いかかった。
「ッ!!」
素早く間合いを外し後方に跳び退る何者か。
追いすがるキャス。
半分エルフの血を引く、持久力に難のあるはずのキャスの体躯。
けれど先程ミエの声…幻聴だろうか…が聞こえたお陰で、彼女の脚に最後に地面をひと蹴りするだけの力が甦った。
「
彼女が手にした剣に渦巻き収束する風が周囲の草原を吹き荒らし、炎を燃え盛らせる。
「〈
最期の瞬間…目に見えぬその相手…もう一人の刺客は、真横にステップしてその一撃をかわさんとする。
だが…キャスの手にした細剣はなぜか狙い過たずその彼が避けた方角へと向けられて…
激しい踏み込みと共に、その風巻く細剣が突き込まれた。
凄まじい暴風が吹き荒れ、剣先から解き放たれた風が目に見えぬ相手を貫いた。
それだけに留まらず、その風はまるで穿孔機のように刺突した個所を中心にゴリゴリと相手を掘削してゆく。
キャスが突き出した剣先から吹き荒れた風がその前方遥か彼方にまで吹き抜けた時…地面に倒れる二つの音がした。
目に見えぬ、分かたれた上半身と下半身の音である。
「「ふう…!」」
大きくため息をついたクラスクとキャスは…
焼け野原となりつつあるその場に膝をつき、大の字になって倒れ込んだ。
敵の気配はもはやない。
ただぱちぱちと燃えはぜる草々の音がするのみである。
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