第2話 見たことのない場所
…気づいたら、彼女は真っ白な世界の中で車椅子を進めていた。
世界そのものが白いのか、真っ白な霧が立ち込めているのか、それすらわからないほどにどこもかしこも白、白、白。
視界一面の純白である。
色がわかる、ということはきっとなにがしかの光源があるのだろう。
けれど空が明るいのか、床が光っているのか、それすらも定かではない。
(あれ?
電動車椅子のレバーを倒しながら少女は不思議そうに首を傾げる。
(というかここはどこ? 私はどこに向かってるの?)
んうー? と首の角度をより深く傾けて彼女は眉根を潜めた。
不思議と怯えや恐怖は感じない。ただ頭がぼんやりしていてどうにもここに至るまでの過程が思い出せない。
(…とりあえず落ち着いて私。いったん状況を整理しましょう)
ぺしぺし、と両頬を軽く叩き、小さく深呼吸して彼女は己の記憶を手繰る。
気のせいかいつもより叩かれた頬が痛い気がする。
自分の力はこんなに強かったっけ? ひょっとして昨日のリハビリの成果? などといらぬことを考えてしまうが、首を振って思索に戻った。
(私の名前は
少女…美恵は己の名を反芻し、自らを取り戻す。
(通称ミエミエ。まさかこのあだ名をつけるためにわざわざこんな名前にしたのではないと思うけど…思うけれど。そこのところどうなのかしら? お父さん、お母さん)
美恵は幼少期より抱いていた事案について疑問を呈し、うんうんと一人肯いた。
(それで…それで私は生まれつき体が弱くって…)
彼女…三枝美恵は小さいころから病弱で、物心ついた頃にはもう車椅子が手放せなくなっていた。
体が徐々に弱ってゆき、最後は死に至るとされる治療法のない難病。
学校には少し通っては病院に戻る。自宅に少し戻っては病院に帰る。そんな生活を繰り返し、繰り返して、医者には二十歳まで生きられないだろうと告げられていた。
両親にも、医者にも、たまにしか会えないクラスメイトにもつとめて明るく振舞ってはいたけれど、彼女が辛くなかったと言えばそれは嘘になる。
(そうだ…思い出した)
あの日、空を見上げた誰もが気が滅入りそうな
外出許可をもらって車椅子で病院近くを散歩していた彼女は、小さな女の子が生垣の隙間を抜けて歩道から車道へ飛び出す様を見つけてしまったのだ。
親は…いた。すぐ近くの横断歩道で信号待ちをしている女性がきっとそうなのだろう。
けれど彼女はスマートフォンを弄るのに夢中で我が子の様子には一切気づいていなかった。きっと美恵が声を枯らして叫んでも己が呼ばれたことにすら気づかなかったろう。
車の排気音が近づいている。
車道に
美恵のすぐ後ろには看護師が付き添っていたけれど、おそらくどんなに急いで説明しても間に合いはすまい。
そう。あの時、あの瞬間、その少女に対して何かできるのは彼女しかいなかった。
それに気づいたとき、美恵は己の電動車椅子のレバーを思いっきり倒し車道めがけて突っ込んでいたのだ。
なんでそんなことをしてしまったのか、きっと彼女自身もよくわかっていないだろう。
見ず知らずの子供である。助ける義理もない。その上美恵は歩くことすらままならぬ病弱な身の上である。
見捨てて…いや見逃したところで誰が責めようか。
なのに彼女は動いてしまった。
助けようとしてしまった。
端的に言って自殺行為に等しい暴挙と言っていいだろう。
「…まあだからこうしてしっかり死んでるんですけどね!」
開き直って胸を張りふんすと鼻息を荒げて…
そしてようやく全てを思い出す。
「そっか…私、死んだんだっけ」
歩道から車道に飛び出して、大きな段差に車椅子が激しく揺れて、振り落とされないように必死に車椅子にしがみついて、放り出されることもなく倒れることもなくギリギリで踏みとどまって、迫ってくるトラックの大きさに慄きながら、震える体で、総身に冷や汗を流しながら、それでもその少女をゆっくりと持ち上げて、生け垣の隙間に押し込んだ。
とはいえ衰えゆく彼女の筋力では、本来少女一人を持ち上げることすら叶うまい。
けれど美恵は先月から先端医療の臨床試験として空圧式のパワーアシストハンドを装着していて、それが彼女の望んだ行動を見事補助してのけた。
(科学の力スゴイ。研究者の人ありがとうございます。あと壊しちゃってすいません! ごめんなさい! きっと弁償します! 弁償…できるかなあ…?)
両手を合わせお亡くなりになった装置の冥福を祈る美恵。
なぜだか今の彼女にはその器具が装着されていないのだけれど、美恵はその違和感には気づけない。
(えーと、それで…それでどうなったんだっけ?)
「…やあ、ちょっといいかな」
その時…唐突に、誰かが美恵に話しかけてきた。
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