第34話 ロールケーキと読書の秋

 ぐすっ……。

 わたしは思わず鼻をすすった。

 目の端からも涙がこぼれ落ちそう。公共の場だからなんとか必死でこらえている。

 それでも胸からどんどん熱いものが込み上げてきて、もしかするとこのままでは本当に泣いてしまうかもしれない。


 ……というのも。


 わたしの手には一冊の文庫本があった。かわいいくまちゃんのブックカバーは出版社のマーク。

 この本は、最近話題の小説。本屋さんで読書の秋だからと平積みのフェアがされていて、軽い気持ちで手に取ったものだ。

 しかしなかなかどうして。大当たりだった。

 話題になるのも無理はない。序盤からわくわくの展開が続き、中盤になって主人公の陥るまさかの事態に息を飲み……。そして今わたしは、後半のあるシーンまできて……つい感動のあまり涙が込み上げてきたところだった。

 おっと。小説のネタバレ厳禁だ。だから詳しくは言えないけど、とても良い本だ。そのことは間違いない。


 読書は、趣味と言えるほどの規模ではないかもしれないが、わたしの小さな趣味だ。

 主に秋冬など、夜が長かったり寒かったりする季節には、室内での限られた楽しみとしてわたしを癒してくれる。

 読書家というほど本は読まないけど、主に小説を中心にちょっとした娯楽として、わたしは読書を楽しんでいる。部屋には小さいけど本棚もあるし、最近は電子書籍をダウンロードすることもある。


 例の小説は来春には映画化も決まっているそうだ。これはまたぜひ先輩を誘わなくては……などと思っている所に、星原さんがコーヒーを運んできてくれた。

 慌てて涙を引っこめる。

 今日のコーヒーはブラジル。苦味と酸味のバランスが良くて飲みやすい、わたしの好きな豆。

 ふんわりと香るコーヒーの香り、大好きだ。


「お気に入りの豆が出来るって、なんだか素敵ですよね。ちょっとコーヒー通になったみたい」

「そうだね。コーヒーの世界も深いけど、そこから入ってくのが一番ですよ。あ、まれぼしブレンドもよろしくね」


 ぬかりなく星原さんがお店のオリジナルブレンドを宣伝していく。まれぼしブレンドも飲みやすくておいしいわたし好みの味のコーヒーだ。

 あの食えない部長もコーヒーが好きだという話を聞いている。もしかしてまれぼし菓子店のブレンドなら気にいるかもしれないな……と、よしなしごとを考えつつ。


 コーヒーを楽しむうちに、本日のケーキセット、ロールケーキが運ばれてくる。

 半円型のロールケーキ。巻かれたスポンジ生地の中には、ナッツ類やオレンジピール、チョコチップの含まれたクリームが詰まっている。まあるいお皿に立つ、ケーキの足元の生地はしっとりとしたココア色だ。


 まず、口に入れるとナッツの食感が楽しい。そのしっかりとした食感と共に、香ってくるオレンジピール。チョコチップは密かに存在しながらも、何となく嬉しい気持ちにさせてくれる。あとから遅れてやってくるナッツの香ばしさ。ココア生地のささやかなようで大きな主張。最後に残るのはクリームの優しい甘み。


 これらをいったん、コーヒーですっかり流してしまう。ほどよい苦味と酸味が口の中をクリアにしてくれて……、そしてわたしはまた初めからロールケーキ楽しむ。

 まるで気に入った小説を最初から何度も読み返すように。


「“魅惑の渦巻き”。ロールケーキも気に入ってくれたようで何よりです」

「コーヒーとよく合いますよねえ!」

「星原の腕が良いって褒めてくれても良いんですよ。それを言うなら木森もか」

 と星原さんは笑っている。

 わたしも一緒に笑いながら、またロールケーキを口に運ぶ。

 スポンジもクリームも、クリームの中に入っている具材も、色んなもののバランスが絶妙なところで成り立っている。

 そんな魅惑の渦巻きだ。


 全体にふんわりとしたロールケーキを、フォークで上手に切れなくてクリームがはみ出てしまったりもするけれど、ご愛嬌……だと思いながら食べる。

 食べ進むうちに、なくなってしまうのがもったいない気持ちになる。

 今読んでいる小説に対してと、同じ気持ちだ。終わりまであと少しなのが、名残惜しいのだ。

 しかし、なんにでも終わりはくるものでもある。


 コーヒーを少し残して、お皿の上を綺麗にまっさらにしてから、わたしは小説の続きに取り掛かる。

 ラストまであと少し、最後にどんな展開がわたしを待っていることだろう。

 この、本を読む楽しみというのは、幼い頃から今まで変わることがない。

 わたしの中の、小さくて大きな楽しみ。本の中にある恋愛や、冒険や、事件や、日常を見つめること。


 残り少ないコーヒーを一口飲む。

 窓を叩いていく風の音にはっとして、また秋を感じる。コーヒーの匂いに混ざって、微かに金木犀きんもくせいが香るのは窓際の席だからだろうか。

 再び本に目を落とした、わたしの週末の夜は更けていく。

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