イベンターズ・ハート
傘木咲華
プロローグ
プロローグ
それは、高校二年の春のこと。
いや、むしろ普通ではないからこそ舞い上がっているのだ。高校生にもなれば恋愛の一つや二つしているものだろう。しかし、武蔵にとっての青春は「アニメソング」だ。というよりも、人生そのものをアニメソング――アニソンに捧げている。アニメが好きなのはもちろんのこと、アニソン・声優アーティストのライブやイベントに参加するのが何よりの生き甲斐である。まぁ、つまりは「イベンター」というやつだ。
「あれ。武蔵、帰らないの?」
――と、今は現実逃避をしている場合ではない。
放課後、友人に声をかけられて武蔵ははっとなる。
「あー……。悪い、今日はやっぱり部活に顔を出そうと思ってな」
「へぇー、そうなんだ。じゃ、また明日」
「おう」
友人との何気ない会話……と見せかけて、実は背中に冷や汗を掻いている。部活に顔を出すというのは嘘で、今日は教室に残らなければいけない理由があるのだ。
時間が流れるにつれて、クラスメイトの話し声が薄れていく。
やがて聞こえてきたのは、秒針のカチカチという音だけだった。
もう、自分ともう一人の女子以外は教室を出ていったのだろう。さっきから俯くことしかできない武蔵は、そっと理解する。
つまり、この空間――二年A組の教室には、二人しかいないということだ。
「……み、皆さん、帰ったみたい……ですね」
すると、静まり返った教室に恐る恐る発せられたような、か細い声が響く。
武蔵が慌てて顔を上げると、そこにはクラスメイトの
桜色のパーマがかったロングヘアーに、翡翠色の垂れた瞳。右目の下にほくろがあるのも相まって優しい印象がある。
そんな歌恋との関係性は、二年連続で同じクラスであるということくらいだ。そりゃあ挨拶くらいはするが、世間話をする程の仲ではない。正直接点なんて全然ないのだ。
なのに、武蔵は貰ってしまった。
今朝、下駄箱の中に入っていたのだ。一瞬ドッキリかも知れないと疑ったが、当の本人が目の前にいるのだから間違いないのだろう。
「す、すみません、的井さん。突然、その……手紙なんてっ」
「……いや、そんな。確かに驚きはしたが……謝るようなことではないと思う、ぞ」
おどおどする歌恋につられるように、武蔵の口調も変に硬くなってしまう。このままでは緊張の連鎖だが、如何せん武蔵自身がこういうことに慣れていない。
こういうこと――とはまぁつまり、恋愛的なことだ。いや、歌恋には「放課後に教室で話がある」という手紙を貰ったというだけで、別にラブレターではない訳だし、これから起こることも恋愛的なことであるとも限らない。
だから、大丈夫だ。などと武蔵は自分に言い聞かせ、心の中で深呼吸をする。
「それで、話っていうのは何だ? 俺に何か相談……とかか」
あくまで冷静を装い、武蔵は訊ねる。
が、視線はあらぬ方向を向いてしまった。まともに歌恋の姿を見ることができない。おいおいしっかりしろと心の中で呼びかけても、首はまるで金縛りに遭ってしまったかのようにびくともしなかった。
結局のところ、何の心の準備もできていなかったのだろう。
「あの、私……実は、ずっと前から的井さんのことが気になってまして」
歌恋の言葉は、自分が思っていた以上にしっかりと耳に届いてきた。
これは決して相談ごとでも何でもない。そう理解した途端に、心が熱くなるのを感じた。ようやく歌恋の瞳を見ることができたのも、「ちゃんと聞かなければ」と思うことができたからかも知れない。
「的井さん!」
「お、ぉおう、何だ」
「もし良かったら、なんですが。私と……デートしてくれませんかっ?」
「…………」
デート。デート。……デート?
武蔵の想像していた言葉とは少し方向性が違って、頭が追い付かない。上手く反応することすらできなくて、思わず呆けた顔で歌恋をじっと見つめてしまう。
「駄目、ですか……ね?」
すると、不安気な顔で上目遣いをされてしまった。
咄嗟に「可愛い」と思ってしまうとともに、頭がぐるぐると回転する。最早まともに考えることすらできなくなっていた。
「ああいや、そういう訳じゃないっていうか、むしろ嬉しいっていうか……。あー、そのー。な、何を言っているんだ俺は……」
ちゃんと考えろと唱えながら、武蔵は逸らしたい視線を何とか歌恋にぶつける。一つ言えることは、断る理由なんてないということだ。これがいきなり「付き合ってください!」などの告白だったら武蔵は困惑していたことだろう。何せまだ歌恋のことをそんなに知らないのだ。
そして今、武蔵の気持ちは――。
「俺で良ければ……その、よろしくお願いします」
歌恋のことを知りたいという気持ちが芽生えている。だから武蔵はお辞儀をした。顔を上げるとほっとしたような歌恋の笑みがあって、ますます気恥ずかしくなってしまう。
「ああ、良かったです。断られたらどうしようって思ってました」
「いや、それはないから大丈夫だ。ただ、急だったからビックリしただけで」
「すみません……。あ、あの、デートの日程なのですが、来週の土曜日……二十五日なんてどうでしょうっ?」
来週の二十五日に何か予定があっただろうか。
なんて、考える余裕はなかった。「クラスメイトとデートをする」という事実に、舞い上がる気持ちと緊張する気持ちが混ざって変なテンションになっている。とはいえ武蔵も異性と出かけた経験はあり、ネットで知り合った異性の友達とライブに参加したことはある。が、ちゃんとデートと銘打って異性と出かけるのは初めてだ。
「ああ、大丈夫だ。えとと、場所はどうする?」
「場所……まだ考えてませんでした。一週間ありますし、ゆっくり考えましょう! なので、的井さん! 交換、しませんか?」
携帯電話を取り出しつつ、歌恋はまっすぐ武蔵を見つめてくる。翡翠色の大きな瞳に吸い込まれそうだ。武蔵は言われるがまま歌恋とアドレス交換をする。
(結構積極的なんだな、育田さんって)
今までの歌恋は「真面目な人」というイメージが強かった。休み時間にも勉強をしているような人で、成績もクラスで一番と言って良い程だろう。とはいえ友達とはバラエティー番組とか男性アイドルとかの話をしているイメージがあるので、一般的な女子高生なんだろうなぁ、とは思っている。
「ところで的井さん。さっき部活って言ってましたが……」
「ああ、あれは言葉の綾っていうか……。育田さんと話をするために言っただけなんだ。元々、部活は幽霊部員みたいなものなんだよ」
思えば、歌恋とこうして世間話をするのも初めてかも知れない。アニメオタクでイベンターの武蔵にとって、歌恋のイメージは一般人だ。話す機会があったとしても話題に困っていた――というよりも、自分の趣味の話をしたら引かれてしまう可能性がある。だからこそ、部活の話題で助かったと武蔵は思った。
「あ、私は帰宅部なのでその辺は全然気にしていませんよ。……運動部ですか?」
「やっぱりそう見えるよな。……こう見えて、料理部なんだ」
「えっ」
予想通り、歌恋は口元に手を当てて驚きのポーズをしている。可愛い……じゃなくて、そう思うのも仕方のない話だ。
武蔵の体格はガッチリしている方で、身長も高い。ついでに三白眼で怖い印象を持たれることが多く、初対面では「何のスポーツをしているんですか?」と聞かれる確率が非常に高い。そして今も、歌恋に勘違いをされていた訳だ。
「す、すみません……。あの、その……すみませんっ」
きっと、見た目で決め付けてしまってすみません、と言いたいのだろう。ペコペコと頭を下げる歌恋に、武蔵は苦笑する。
「あー……っと、その反応は慣れてるから、気にしなくて良いぞ。……料理は趣味みたいなものだから、料理部に入ったんだ。でもまぁ、やっぱり女子だらけで居辛くてな。だからたまにしか顔を出してないんだよ」
料理は趣味、の部分を強調しつつ(本当は料理「も」趣味)、武蔵は乾いた笑みを零す。
「そうなんですね。料理が趣味だなんて、知りませんでした」
「ああ、そうなんだよ」
「…………」
「…………」
――あれ?
なんとか料理で盛り上がれないかと思ったが、自然と沈黙が訪れてしまった。というか、正直言ってそろそろ限界だ。少し休憩がしたい。
「育田さん……って、愛称とかあるのか?」
「あ、友達には「いくちゃん」って呼ばれてます」
「なるほど」
いやいや、何が「なるほど」だ。話題が唐突すぎる。心のどこかで「いつかいくちゃんって呼べると良いな」なんて思っている場合じゃない。
今日のところはもう、切り上げたいのだ。そして、一度落ち着きたい。
「ええと、育……田さん。今日のところは、そろそろ」
「あ、はい。そうですよね。長々とすみません。……でも」
武蔵がやっとの思いで話を切り出すと、歌恋は礼儀正しくお辞儀をしてきた。顔を上げると眩しい程に明るい笑顔があって、武蔵の心を突き刺してくる。
「今日は本当にありがとうございました! デート、楽しみにしていますね!」
――本当に。
今日の出来事は夢なんじゃないか? なんて、何度も思ってしまう。
歌恋は二年A組の中でも目立つ存在だ。才女というのはもちろんのこと、クラスメイトにも敬語で、礼儀正しい印象がある。誰にでもふんわりと優しい彼女は、きっとモテているに違いない。というのが武蔵の中の勝手な歌恋のイメージなのだ。
だからこそやっぱり、考えれば考える程に浮かれてしまう。
冷静を装いつつも、心の中では「やばいやばい」と宙に浮いた気持ちが止まらない。だから、この時点では気付くことができなかったのだ。
武蔵は一つ、重大なミスをしてしまっている。
その事実に気が付くのは、家に辿り着いてからのことだった。
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